第五一話 温泉郷の詩編 その伍
誰も、起きてこない。
家の中は、昨夜の喧騒が、嘘のように、静まり返っていた。
昼を、大きく過ぎた頃。
龍也は、腕の、異常なまでのだるさで、ようやく目を覚ました。中華鍋を、振り続けた代償だろう。
腕がパンパンに、張っていて重い。
そして、頭が割れるように痛い。胸やけもひどい。
昨夜の、記憶の断片が、蘇ってくる。
(……閉店間際、厨房での戦いを終え、カウンターの一番端の席で、一人ぐったりとしていた。
屈強なオネエ様たちや、ギルドの常連客たちから、駆けつけの強い酒を、何杯も飲まされ、身体は、鉛のように重い。
しかしまだ、意識ははっきりとしていた。その元へ、ゆうこがやってきた。
もう、あの青いドレスではなく、いつものラフな格好に着替えていた。
しかし、その頬はほんのりと赤く染まり、その瞳は酒のせいか、潤んで妙に色っぽく見えた。
周りの喧騒が、遠くに聞こえる。その瞬間、カウンターのその一角だけが、二人だけの世界になった。
何も言わずに、龍也の隣にそっと座る
「……タツヤ。お疲れさん」吐息がかかるほど近い距離で、彼女が囁く。
「……ああ。ゆうこもな」ゆうこは、空になった、グラスを手に取って、琥珀色の、焼酎の瓶を、
ゆっくりと傾ける。トクトクと、軽やかな音を立てて、ほんの少しだけ酒が注がれた。
龍也は、そのグラスを、受け取り、一口、飲んだ。
「……今日の料理、最高じゃったわい。あんたは、やっぱりすごい男じゃな」
うっとりとした目で、見つめる。
「……綺麗だったじゃないか。……あのドレス、似合ってたぞ」
その、不器用な褒め言葉に、嬉しそうにはにかんだ。
また、グラスに、そっと酒を注ぐ。
グラスを持つ手に、そっと、手を、添えてくる。その、温かい感触。
「……なあ、タツヤ。わしな、あんたがおってくれて、ほんまによかったと思うとるんよ」
耳元で、甘く囁かれる。
「……ゆうこが、いるから、強くいられるんだ」
また、そのグラスを飲み干した。また、ゆっくりと酒を注ぐ。
今度は、その潤んだ瞳で、じっと見つめながら。
「……嬉しいこと、言うてくれるじゃないか」
龍也は、もう、何も言えなかった。ただ、促されるままにそのグラスを空にする。
注がれては、飲み。囁かれては、飲み。見つめられては、飲む。
その、甘い、やり取りの中で、龍也の、思考は、少しずつ、麻痺していく。
ゆうこの指が手の甲を優しくなぞる。
その、仕草の一つ一つが心の最後の砦を、少しずつ崩していく。
そして、何度目かの乾杯の後。
意識は完全に、甘く、そして抗うことのできない心地よい、闇の中へと沈んでいったのだった……)
どうやって、家に帰ってきたのか。全く記憶にない。
(……あれは絶対……ゆうこに...わざと…飲まされたな……仕返しか...)
のろのろと、リビングへ行くと、そこへ、かすみが、小さな声で、
「お水が、欲しいです……」と起きてきた。その顔は、青白く、少し、やつれている。
続いて、ゆうこも、「うう……。気持ち悪い……」と、ゾンビのような足取りで、現れた。彼女も、さすがに、昨夜は、飲みすぎたらしい。
三人分の、冷たい水を、用意していると、床を何かが、這う音がした。
見るとじんたが、布団から芋虫のように、のろのろと這い出してくるところだった。
「……頭も、痛えし……。気持ちも、悪いど……」
龍也が「シンジは……まだみたいだな」
シンジの部屋を、そっと覗いてみる。
彼は布団の上ですやすやと、実に穏やかな寝息を立てていた。
昨夜の喧騒が、嘘のようにその寝姿は、気をつけの姿勢のようにまっすぐで美しい。
(……こいつだけは、別格か)そっとドアを閉めた。
リビングでは三人が、うめき声を上げながら水を飲んでいる。
祭りの後の静けさ。そして、心地よいとは到底言えない、二日酔いの倦怠感。
この、どうしようもなくだらしない、どこか平和な、我が家の光景に、思わず苦笑いを浮かべる。
「……とりあえず、なんか腹に入れるか。……しじみの、味噌汁でも作るかな……」
その一言に、三人はまるで、救いの神を見るかのような眼差しを、彼に向けるのだった。
旅立ちの前日。
その一日は、史上、最悪の、二日酔いと共に、ゆっくりと、始まろうとしていた。