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第四話 ばあちゃんの善意と筋肉の値段

 翌月。月末の三日間に開かれるという「出張所」――あの忌まわしき最初の小屋――へと足を運んだ。中には背広姿の男が二人、パイプ椅子に座って手元の書類を捌いている。龍也は三井に教わった通り、武器の修繕費(木の棒がささくれたので紙ヤスリを買った)、薬草栽培のための肥料代、(ということにしておいた)、そして討伐エリアまでの交通費(毎日歩いているだけだが)などをきっちりと経費として計上し、申告書を提出した。


 結果は、劇的だった。

手元に残った金額は、これまでの倍以上。これでようやく、計画の第一歩を踏み出せる。しかし、それでもまだ「布の服」を買えばほとんど残らない程度の金額であり、豊かな生活には程遠い。結局のところ、やることは一つ。ひたすら討伐に励み、稼ぎ続けるしかないのだ。


 その日から、龍也の生活に新たな日課が加わった。

夜明けと共に起き、梅ばあさんと一緒に太極拳で体をほぐす。最初はぎこちなかった動きも、続けるうちになんとなく様になってきた。そして朝食。食堂へ向かう龍也を梅ばあさんが引き止め、自ら淹れたという特製の薬草茶を差し出してくる。

「龍也さん、これを飲みな。体にええから」

どす黒い液体から立ち上る、土と草が混じったような強烈な匂い。断れる雰囲気ではなく、龍也は毎日、鼻をつまんでそれを一気に煽った。苦くて不味い。しかし、善意を無下にもできず、ただ

「ありがとうございます」

と笑顔を作るしかなかった。


 日中はひたすらスライム討伐。以前よりも体力がついた実感があり、動ける時間は格段に長くなった。そして、くたくたになって休憩所に戻ると、またしても梅ばあさんが待ち構えている。

「お疲れさん。栄養のあるスープを作っといたよ」

そう言って差し出されるのは、これまた得体の知れない根菜や薬草が煮込まれた漢方スープだった。

味は、言うまでもなく不味い。しかし、これをパンと一緒に流し込み、明日に備えるのがいつしか龍也の日常となっていた。


 だが、そんな生活を一週間も続けた頃、龍也は自分の体に起きた異変に気づいた。

疲れが取れない。それどころか、日を追うごとに体が重くなっていく。あれだけ鍛えたはずの腕の筋肉は心なしか細くなり、木の棒を振る力も弱まっている気がした。鏡に映った自分の顔は、青白くやつれている。

「どうしたんだい、龍也さん。なんだか顔色が悪いねえ」

秘密の庭で呑気に笑う梅ばあさんに、龍也は力なく笑い返すしかなかった。

なぜだ。健康的な生活を送っているはずなのに、なぜ体力は落ちていく一方なのだ。


 その日の夜、漢方スープをすすりながら、龍也はハッとした。

(……もしかして、これか?)

薬草茶に漢方スープ。確かに健康にはいいのかもしれない。だが、今の自分が必要としているのは、体を動かし、傷ついた筋繊維を修復するための栄養――すなわち、タンパク質とカロリーだ。

 居酒屋で働いていた頃、体力勝負の若いアルバイトたちが、賄いで山盛りの唐揚げ丼を頬張っていた光景を思い出した。


  筋肉になるごはんを、まったく食べていない。


 原因は、あまりにも明白だった。梅ばあさんの善意が、皮肉にも彼の肉体を蝕んでいたのだ。

龍也は飲みかけていたスープの器を置くと、静かに立ち上がった。そして、まっすぐ食堂のカウンターへと向かう。


「親父さん、わんぱく定食、大盛りで」


 一杯の値段は、今日の稼ぎの多くを吹き飛ばす。痛い出費だ。しかし、これは浪費ではない。未来の自分への、橋の向こう岸へ渡るための、必要不可欠な「投資」なのだ。

 久しぶりに口にする、濃い味付けの豚肉と、タレの染みた白米。その暴力的なまでの美味さが、やつれた体に染み渡っていった。

 わんぱく飯をかっこみ、胃袋にガソリンを注ぎ込んだその足で休憩所に併設されているトレーニングルームへと向かった。これまで横目で見るだけで、自分には縁遠い場所だと思っていた施設だ。中では、いかにも歴戦の猛者といった風情の若者たちが、唸り声を上げながら巨大なバーベルを持ち上げている。

場違いな雰囲気を感じながらも、龍也は受付カウンターに座っていた、筋骨隆々のトレーナーに声をかけた。


「すみません、トレーニングの指導をお願いしたいのですが」


トレーナーは値踏みするように龍也の全身を一瞥すると、無愛想に料金表を指さした。


「パーソナルトレーニング:時給十円」


 時給十円。一見すると、破格の安さに思える。しかし、龍也の頭の中では即座に計算が始まっていた。一日二時間のトレーニングをお願いすれば、それだけで二十円。スライム一匹分の値段であり、あのわんぱく定食一杯分に相当する金額だ。決して、気軽に払える額ではない。


 だが、迷いはなかった。自己流で体を鍛えるには限界がある。梅ばあさんの善意の物だけでは貧弱になるばかりだ、一番効率的で、確実な方法を選ぶべきだ。何より、この世界に来てから数ヶ月が経つというのに、自分は未だにスタートラインであるエリアの周辺から、ほとんど一歩も進めていないのだ。この停滞感を打破するためなら、必要な投資だった。


「お願いします。毎日、二時間。みっちり鍛えてください」


 腹を括った龍也の言葉に、トレーナーは初めて口の端を少しだけ上げた。

その目は、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いている。

「……いいだろう。その決意、気に入った。俺はゴードン。お前が泣き言を言う暇もないほど、徹底的にしごき抜いてやる。お前の限界を引きずり出し、その苦悶に歪む顔を拝むのが、俺の筋肉への最高のご褒美だからな!」

どこか恍惚とした表情で言い放つゴードンに

「この人、少し(いや、かなり)おかしいぞ…?」

と一抹の不安を覚えたが、もう後には引けなかった。


 ゴードンの指導は、龍也の想像を遥かに超えるものだった。それは単に過酷なだけでなく、指導するゴードン自身が心底楽しんでいるのが伝わってくる、異様な熱気を帯びていた。

「どうした中年!腕がプルプル震えているぞ!そうだ、その限界ギリギリの表情、たまらんな!お前の苦しみは、俺の大胸筋を成長させる!」

「腹筋だ!もっと追い込め!お前のその情けない腹が悲鳴を上げるのを聞くと、俺の背筋がゾクゾクする!」

 罵声と共に、龍也の限界を少しずつ超えさせるような的確なメニューが次々と繰り出される。

今まで使ったことのない筋肉が悲鳴を上げ、全身から汗が噴き出す。


 トレーニングを終える頃には、龍也は床に突っ伏して指一本動かせないほどに消耗していた。しかし、その疲労感は、梅ばあさんの食事で衰弱していた頃の倦怠感とはまったく違う、心地よい達成感を伴っていた。


 食事は、わんぱく飯。トレーニング代と食事代で、一日の稼ぎのほとんどが消えていく。貯金など、夢のまた夢だ。だが、龍也の体は、その対価を支払うだけの価値がある、確かな変化を見せ始めていた。


 少しずつ、しかし確実に、筋肉が戻ってくる。いや、居酒屋時代以上に、戦うための筋肉が全身に付き始めていた。木の棒を振る速度は増し、一撃の重みが見るからに変わった。スライム討伐の効率は飛躍的に向上し、一日に稼げる金額も徐々に増えていく。


 支出は多い。だが、それ以上に得られるものがある。

龍也は来る日も来る日も、ゴードンの罵声を浴びながら己を追い込み、わんぱく飯をかきこんだ。

 過酷な指導と、わんぱく飯による栄養補給。その生活を三週間続けた頃、龍也の身体は劇的な変化を遂げていた。


 この世界に来た当初の、みっともなく突き出た腹は完全に消え去っていた。梅ばあさんの漢方スープで一度急激に痩せたため、余分なぜい肉が効率よく筋肉へと置き換わったのだ。Tシャツの上からでも、引き締まった胸板と肩のラインが分かる。見た目だけではない。動きは驚くほど軽やかになり、木の棒を振る腕には確かな力が漲っていた。五五歳にして、人生で最も肉体が仕上がっているのではないかと錯覚するほどだった。


 そして迎えた翌月の給料日。節税の効果と討伐効率の向上によりついに念願の「ぬのの服」を購入し、新聞紙の鎧を卒業。橋の通行料五〇円を握りしめ、ゴードンに報告へ向かった。

「ゴードンさん、行ってきます」

「フン、せいぜい無様に苦しんでこい。最高の土産話(お前の無様な失敗談)を、俺の筋肉が心待ちにしているぞ」

嬉々として送り出すゴードンに背を向け、今度こそと意気込んで、あの川辺の門へと向かった。

 門番は相変わらず微動だにせず立っている。その横には、以前よりもさらに禍々しく見える練習用のシャドーが揺らめいていた。


「お願いします」


 五〇円を門番に手渡し、シャドーと対峙した。以前感じたような恐怖はない。あるのは、鍛え上げた肉体への自信と、未知の世界へ踏み出す高揚感だけだ。


 シャドーが滑るように動く。冷静にその動きを見極め、力強く踏み込んだ。イメージは、若き日の自分。速い!自分の動きが、以前とは比べ物にならないほど俊敏になっている。いや、映画で見たアクションスターのように、俊敏かつワイルドに敵を翻弄する姿だ。


 シャドーの攻撃をサイドステップでかわし、カウンターの一撃を叩き込む!……はずだった。


頭の中のイメージでは完璧な動きだった。しかし、五五年酷使してきた身体は、その急激な方向転換に悲鳴を上げた。無理な体勢で地面を踏みしめた瞬間、足首に「グキッ」という鈍い感触と、脳天を突き抜けるような激痛が走った。


「ぐあっ!」


 バランスを崩して無様に転がる龍也に、シャドーは容赦なく追撃の一撃を食らわせる。そこで、彼の意識は途切れた。


 次に気がついた時、龍也は見慣れた診療所の天井を眺めていた。そして、その視界に割り込んできたのは、愉悦の笑みを浮かべた、あのドS看護師の顔だった。

「おや、目が覚めかい、おっさん。いい年こいて調子に乗るからそんなことになるんだよ。鍛えたつもりでも、中身はポンコツだって自覚が足りないねえ」

(一番最初、言葉遣いは可愛らしかった気がするが、いつの間にかドS全開になってないか?)

散々な罵詈雑言を浴びせながらも、彼女の手際は確かだった。しかし、その手つきには一切の優しさがない。腫れ上がった足首を氷で冷やし、確認のためにグリグリと捻る。

「いっ!痛い痛い!」

「あらあら、痛いって?。じゃあ、もっと優しくしてあげる」

にっこりと微笑むと、彼女はギプスと包帯で龍也の足を、まるで意志を持った拷問器具のように、万力のごとき力で締め上げ、固定していく。

その手当は完璧だったが、龍也の精神は完全にえぐられていた。


 さすがの医者も魔法を使うとは言え、傷をくっつける程度らしく、捻挫とか骨折レベルは治せないらしい。

全治二週間。この足では、討伐どころか休憩所の中を歩くことすらままならない。仕方なく、龍也は療養のために現実世界の自宅へ一時帰宅することを選んだ。


 松葉杖をつき、ギプスで固められた足を引きずりながら自室からリビングへ出ると、テレビを見ていた妻が、心底呆れかえった、虫けらでも見るような目で龍也を一瞥した。


「……何それ。また何か変なことやってたの?いい年して、本当にみっともないわね」


 その言葉に、龍也は何も言い返すことができなかった。中間空間での情けない失敗と、現実世界での絶対的な居場所のなさ。二つの現実が、ずしりと彼の心にのしかかる。

黙って松葉杖に体重を預け、惨めな気持ちのまま、再び自室の扉を閉めるしかなかった。

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