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第三話 税金対策と優しさの怖さ

 あの圧倒的な巨大魚と、門番から告げられた過酷な現実にすっかり怖気づいた龍也は、すごすごと休憩所へ引き返した。今日の討伐はもう終わりだ。彼はまっすぐ大浴場へ向かい、熱い湯に肩まで浸かった。ザバーッとお湯が溢れる音だけが、やけに大きく響く。


「……情けねえ」


 思わず声が漏れた。中年になって、まさかモンスターを前に「怖い」と本気で逃げ帰ってくるとは。湯気で滲む天井を眺めながら、彼は自分の不甲斐なさを噛みしめるしかなかった。その日は飯も喉を通らず、部屋に戻って泥のように眠った。


 翌朝、気を取り直して梅ばあさんの様子を見に、例の秘密の庭へ向かった。薬草の手入れは既に終えたらしく、梅ばあさんは岩の上で、ゆったりとした動きで太極拳を行っていた。朝日に照らされ、その姿はどこか仙人のようにも見える。

「おお、龍也さんかい。あんたもどうだい?これをやると、体の巡りが良くなるだよ」

「は、はあ……」

健康志向の強い彼女に勧められるがまま、見よう見まねで手足を動かしてみるが、どうにも様にならない。梅ばあさんの穏やかな日常と、昨日目の当たりにした橋の向こうの過酷な世界とのギャップが、龍也の心を一層重くした。


 なんだかんだで、さらに二ヶ月の月日が流れた。

梅ばあさんのおかげで薬草栽培による収入は安定し、龍也自身の討伐の腕も上がった。しかし、あの橋の向こうへ行ける気は、まったくしなかった。どれだけ稼いでも、会社に天引きされ、さらに現実世界に戻るたびに妻から「今月の生活費、足りないんだけど」と無心される。結局、龍也の手元には、常に二百円あるかないかという、雀の涙ほどの金しか残らなかった。


 そんなある日、休憩所でいつものように黒パンをかじってため息をついていると、田中がひょっこり現れた。その後ろには、人の良さそうな笑みを浮かべた老人が一人、控えるように立っている。年の頃は六十代半ばといったところか。


「よう、龍也さん。あんた、働いてる割に、ちっとも金が貯まらねえだろ」

図星を突かれ、龍也はむっとした顔で田中を見返した。

「こっちは三井さんだ。あんたと同じで、知恵でこの世界を渡り歩いてる、俺の知り合いさ」

三井と名乗る老人は、「どうも」と軽く会釈した。柔和な表情だが、その目だけは鋭く龍也の懐具合まで見透かしているかのようだ。


 三井は龍也の向かいに腰を下ろすと、単刀直入に切り出した。

「あなた、会社に言われるがまま、正直に税金を納めていませんか?」

「え?まあ、そうですけど……」

「馬鹿正直ですな。この世界でも『経費』という概念は存在するんですよ。例えば、討伐に使う武器の購入費や修繕費、討伐エリアまでの『交通費』と称した食費、情報収集のための地図代。これらはすべて、収入から差し引いて申告できるんです」


 三井は懐から一枚の紙を取り出し、さらさらとペンを走らせる。そこには、龍也が今まで考えたこともなかったような申告方法が、分かりやすく記されていた。これによると、今まで五十%近く払っていた税金やら手数料やらが、やり方次第で二十五%近くまで圧縮できる可能性があるという。


「こ、これは……!」

まさに目から鱗だった。こんなやり方があったとは。これなら、手元に残る金が倍近くになるかもしれない。

「ありがとうございます、三井さん!本当に助かります!」

龍也が心からの感謝を述べると、三井はにこやかな笑みを浮かべたまま、すっと右手を差し出してきた。


「いえいえ。ところで龍也さん、今回の経営コンサルティング料ですが」


その手のひらの上で、人差し指がくいっと曲げられる。


「伝授料として、百円ほど頂けますかな?」


 一瞬、時が止まった。龍也は差し出された手と三井の笑顔を交互に見つめる。結局、この世界で人の優しさをタダで受け取ることはできないのだ。龍也は小さくため息をつくと、ポケットからなけなしの小銭を取り出し、その皺くちゃの掌に百円を乗せた。人の善意を素直に受け止めることが、少しだけ怖くなった瞬間だった。

どこの世も、三井はちゃっかりしてる。

 複雑な気持ちで手に入れた節税のノウハウ。しかし、落ち込んでばかりもいられない。龍也は気を取り直し、休憩所の自室に戻ると、改めて今後の方針を立て直すことにした。目の前に広げたのは、情報が書き込まれ、少し薄汚れた自分だけの地図だ。


 まず、最終目標を「橋の向こう岸へ渡り、新たなエリアで活動できるようになること」に設定する。

そのためには、いくつかの段階を踏む必要がある。


 第一段階:橋の向こうの偵察。

いきなり二日間の野営は無謀だ。まずは、門が開いている日中に橋を渡り、向こう岸のエリアを少しだけ探索する。そして、日が暮れる前に必ずこちらの門まで引き返してくる。これを繰り返し、向こう岸の地形やモンスターの生態を少しずつ把握する。


 第二段階:体力向上。

偵察を繰り返す中で、より長く、より遠くまで動けるだけの体力をつける。これは日々の討伐と、梅ばあさんに勧められた太極拳を取り入れることで達成を目指す。


 第三段階:資金確保。

これが最も重要だ。三井に教わった方法で、まずは手元に残る金を増やす。


 第四段階:装備の強化。

確保した資金で、武器と防具を一段階上のものに買い替える。最低でも、武器は「物干しざお」、防具は「布の服」と「鍋の蓋」は揃えたい。


「よし、これで行こう」


計画は立った。あとは実行あるのみだ。しかし、龍也はそこで重大な問題に気づいた。


「そもそも、確定申告ってどこでするんだ?」


 三井は節税の方法は教えてくれたが、具体的な手続き場所までは教えてくれなかった。この中間空間に、税務署や役場のような施設があるのだろうか。


 休憩所の中を探し回った。依頼掲示板の隅、購買部の片隅、診療所の受付。どこを見ても、それらしき案内は見当たらない。途方に暮れて食堂の椅子に座り込んでいると、皿を片付けに来た食堂のおばちゃんが、不思議そうな顔で龍也に声をかけた。


「あんた、さっきから何をウロウロしてるんだい?」

「あ、いや……確定申告をしたいんですけど、どこで手続きすればいいか分からなくて」

その言葉を聞いた瞬間、おばちゃんは「ああ、それなら」とこともなげに言った。

「あんたたちが最初に送り込まれてきた、あの小屋だよ。普段は無人だけど、月末の三日間だけ『出張所』が開くんだよ。みんな、そこで手続きしてるさね」


 なんと、全ての始まりであったあの謎の小屋が、行政手続きの窓口も兼ねていたのだ。灯台下暗しとはこのことか。


「ありがとうございます!」

深々と頭を下げた。これで、計画を実行するための最後のピースがはまった。月末はもうすぐだ。まずは、この一ヶ月で稼いだ収入を正しく(そして、抜け目なく)申告し、装備を整えるための軍資金を確保する。


 目標が定まったことで、龍也の心に再び火が灯った。ただ漠然とスライムを狩っていた昨日までとは違う。一振り一振りが、橋の向こう岸へ続く確かな一歩になる。彼は木の棒を強く握りしめ、新たな決意を胸に、再び討伐エリアへと向かうのだった。

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