第三五話 女神の顔と新たな病
ほのぼのとした、穏やかな朝を迎えた。
日課の太極拳を終えると、早速台所に立つ。
昨日、仕込んでおいた食材を取り出す。ひんやりとした冷気が、食材の鮮度を保ってくれている。
その安心感が、たまらなく嬉しかった。
そこへ、ゆうこが起きてきた。彼女は、真っ先に、昨日手に入れたばかりの冷蔵庫を開ける。
そして、キンキンに冷えた水を、コップに注ぎ、一気に飲み干した。
「ぷはーっ!ぶちぃ!最高じゃあ!」
その、心からの歓喜の声、思わず笑みがこぼれる。
皆が起き出し、朝食を終える。
ゆうこが龍也の前に座り、その顔の包帯を、ゆっくりと解き始めた。
薬を丁寧に塗り直してくれる、その真剣な顔。
それは、いつも龍也の心をドキッとさせるほどに美しく、まるで女神のようだった。
(……いかんな)
時折、見せる、彼女の「女」の部分を、意識してしまう自分がいる。
その気持ちに、時々怖くなる。
何か一歩でも踏み出してしまえば、この最高に居心地のいい、仲間という関係を壊しかねない。
まるで、子供の頃の、初恋のような、もどかしい心境だ。
とはいえ、芽生え始めたこの気持ちを、いつまで隠し通せるだろうか。
(……しかも、俺の場合、不倫になるのか)
どんなに冷め切っていても、籍が抜けていない以上、けじめをつけなければ、それは不貞だ。
龍也は、その、勝手な妄想を、一瞬で頭の中から消し去った。
その、心の揺らぎを、気づかれない速さで、隠した・・・つもりだったが、幸い今は、顔中が火傷の痕だらけだ。誰も彼の、微妙な表情の変化には気づかなかった。
「よし。ガーゼだけ貼っとけば、もう、包帯はなしでええじゃろ。これなら討伐も行けるわい」
ゆうこの、許可が出た。
その日一行は、街へ買い出しに出かけた。
食材と、そして、龍也は、大きな「壺」を一つ買った。
「つぼ?」
ゆうこ
「なんだべか、それ」
不思議そうに尋ねるじんたに、にやりと笑って答える。
「床下の収納庫が、冷蔵庫のおかげで、空いただろう。あそこで、漬物を漬けるんだ」
その言葉に、皆の顔が、ぱあっと明るくなった。
全ての準備を終え、いよいよ討伐再開だ。
リハビリも兼ねて、近場の、慣れた魔物がいるエリアから体を慣らしていく。
龍也以外の三人の連携は、明らかに、以前よりも進歩していた。
怪我をする頻度も、格段に少なくなっている。
ただその分、龍也自身が、一歩後ろに下がっているような感覚があった。
これが、「おっさん」という立ち位置なのか。少しだけ寂しい気持ちになる。
日が暮れてきたので、その日は、早めに帰路についた。
そして夜。今日は皆がバイトの日だ。
その夜龍也が、顔にガーゼを貼った痛々しい姿で、バー『HEAVEN'S HELL』の厨房に入ったその瞬間。
店の奥から、ママの、甲高い悲鳴が響き渡った。
「いやああぁぁぁぁぁ!タツヤ!あんた、その顔、どうしたのよぉぉぉっ!!」
ママは、まるで悲劇のヒロインのように、龍也の元へと駆け寄ると、そのたくましい腕で、身体を、ぎゅううっと、抱きしめた。
「誰にやられたの!?どこの馬の骨よ!アタシが、そいつを、八つ裂きにしてやるわ!」
「いや、ママ、落ち着いて……。これは、魔物との戦いで……」
龍也が、弁解しようとするのを、他のオネエ様たちの、怒声が、かき消した。
「なんですって!?魔物ですって!?」
「なんてこと……!タツヤの、その、渋くて素敵なお顔に、なんてことを……!」
「許せない!絶対に、許せないわ!」
開店準備をしていたはずの、屈強なオネエ様たちが、次々と、龍也の周りに集まってくる。
一人は手を握りしめ、「痛かったでしょう……」と、涙ぐみ。
一人は、「私が、代わってあげたかった……」と、自分の頬を、ぺちぺちと叩き始め。
そして、一人は、なぜか、店の隅にあった、巨大な中華鍋を、振り上げている。
「こうしちゃいられないわ!今すぐ、そいつらを、この中華鍋で、ミンチにしてやる!」
「待って!待ってください!もう、その魔物は、倒しましたから!」
必死の制止も、彼女たちの耳には、届かない。
「ああ、かわいそうに、タツヤ……。こんなになるまで、無理しちゃって……。もう、今日の仕事は、いいから、アタシの膝の上で、ゆっくりお眠りなさいな……」
ママが、龍也の頭を、その、豊かな胸に、無理やり、埋めようとしてくる。
「いや、仕事はしますから!大丈夫ですから!」
「じゃあ、せめて、これを!」
そう言って、別のオネ-エ様が、差し出してきたのは、どこから持ってきたのか、キラキラと輝く、粘液状の、怪しげな塗り薬だった。
「これは、アタシ特製の、美肌スライムパックよ!これを塗れば、どんな火傷も、一晩で、つるっつるの、ベビースキンに、元通りよん!」
「絶対、嫌です!」
もはや、店内はカオス状態だ。
その、過剰すぎる、愛情と、心配と、そして、よく分からない、スライムパックの猛攻に、ただただ、圧倒されるしかなかった。
火傷の痛みよりも、この、迷惑千万な、優しさの方が、よっぽど身体にこたえる。
心の底から、
「早く、仕事が始まってくれ……」
と、願わずには、いられなかった。
そして、ママから、伝言を預かる。新宿の、あのママからだった。
「『お元気してんのー?たまには、電話くらい、ちょうだいよん』ですって。あんた、モテるわねえ」
朝方、へとへとになって、家に帰る。
翌日の昼前。
ゆうこ以外の三人が、リビングに集まった。
龍也が
「おかしいな?」
なかなか起きてこないゆうこをじんたが、様子を見に行き、慌てて、大声を上げた。
「大変だ!ゆうこの、様子が変だど!」
見に行くと、ゆうこは、すごい熱を出し、苦しそうにしていた。
氷を用意し、額を冷やす。意識はあるようだ。ただの風邪だろうか。
医者である、本人が寝込んでしまってはどうしようもない。
「……薬、取ってくれ……」
静かな、か細い声で、ゆうこが言う。
どれか分からない、と、じんたが、薬箱ごと持っていくと、そっと、一つの小瓶を指さした。
龍也が水を用意し、彼女の身体を起こして、薬を飲ませ再び寝かせる。
「……町医者を、呼んでくる」
シンジが、そう言うと家を飛び出していった。
いつもなら、すぐに効くはずの、ゆうこ特製の薬が、全く効いている様子がない。
「……すまんのう……」
弱々しく謝る。
やがて、シンジが、町医者を連れてきた。診察してもらうが、やはり原因は分からない。
ただ、「命に別状はないだろう」という言葉に、一行は、ひとまず胸をなでおろした。
「何か、身体が、熱い……」
ゆうこは、そう訴えるが、体温は、三八度ほど。
以前、未知の病にかかった時の、四〇度近い高熱に比べれば、まだ軽い方なのかもしれない。
とりあえず、身体を冷やし、消化のいいおかゆを作って食べさせた。食欲はあるようだ。
大丈夫そうではあるが、心配だ。一行は、交代でゆうこのそばに付き、看病することにしたのだった。