第三〇話 泥の魔物と恐ろしい縁
家に帰り、夕飯の支度を始める龍也。
明日の討伐用の弁当と、朝飯の仕込みをしながら、彼は、一人、考え事をしていた。
自分の「一般人」という職業は、まあ、いい。だが、ゆうこはどうなのだろうか。
医者のその先に、賢者への道があると言っていたが、彼女自身の夢は、何なのだろうか。
「なんじゃ、タツヤ。悩み事かいな?」
そんな龍也の様子に気づき、ゆうこが、心配そうに声をかけてきた。
「いや、なんでもない」と、曖昧に言葉を濁し、その場は、夕飯にした。
翌朝。軽く朝食を済ませ、一行は、久しぶりの本格的な討伐へと、出発した。
浦和の門を出て、二十分ほど歩いたあたりで、一行は、ぬかるんだ沼地にたどり着いた。
立て札には、『別所』と、書かれている。
さほど大きな沼ではないが、この世界では、初めて見る景色だった。
その時、近くの林から、一体の魔物が、ぬるりと姿を現した。これもまた、初めて見る種類の魔物だ。
シンジが、間合いを測りながら、相手の出方を見極めている。すると、魔物が動いた。
なんと、自身の体の一部であるらしい、泥を、こちらに向かって、投げつけてきたのだ。
「危ない!」
一行は、すかさずそれを避ける。
「先手必勝だ!」
龍也が、ヤリを振りかざし、魔物に斬り込んだ。
しかし、その身体は、全て泥でできているのか、ヤリが当たった部分に、亀裂のようなものは入るが、すぐに、まるで液体のように、修復してしまう。
その厄介な性質に、シンジも、なかなか、決定的な一撃を、踏み込めないでいた。
何度目かの、泥の攻撃。それが、ついに、龍也の身体を捉えてしまった。
意識はある。痺れているわけでもない。だが、身体が、全く、動かせないのだ。
当たった泥が、まるでセメントのように、急速に固まってしまったのだ。
シンジが、龍也をかばいながら、必死で応戦する。
その間に、ゆうこが、龍也を元に戻そうと、持っている薬を色々と試すが、全く、効果がない。
その時だった。
「タツヤ!大丈夫かー!」
じんたが、泣きながら、泥で固まった龍也に、抱きついてきた。
その、わずかな衝撃で、乾いた泥に、ピシッと、ひびが入った。
「ん?」
それに気づいた龍也が、叫ぶ。
「じんた!叩いてくれ!」
じんたは、言われるがまま、龍也の身体を、バンバンと叩いた。
すると、固まった泥は、意外なほど、あっさりと、砕け散っていった。
龍也が、動けるようになる。どうやら、外からの衝撃には、弱いらしい。
対処法が見つかった。あとは、どう、倒すかだ。泥は、土と水でできている。
「……そうか!」
ゆうこが、何かを思いついた。
「砂や、乾いた土をかければ、水分を吸うて、固まるんじゃ!」
彼女は、そう言うと、じんたに、地面の乾いた土を、魔物に向かって、投げつけるよう、指示した。
じんたが投げた土を浴び、魔物の動きが、みるみるうちに、鈍くなっていく。
そして、完全に、その場で固まってしまったところへ、シンジの、渾身の一撃が、叩き込まれた。
魔物は、石像のように、粉々に砕け散った。
出だしから、なかなかハードな戦いだったが、見事に、攻略することができた。
泥の魔物は、その後も、後から後からと、一体ずつ、現れた。なぜか、まとまって出てくることはない。かれこれ、二十体ほど倒したところで、一行は、少し、場所を変えることにした。全員の服が、泥だらけになってしまっていた。
近くの、小さな川に着くと、一行は、洋服のまま、川に入って、汚れを落とした。
ひざ下くらいの深さしかない、小さな小川だ。幸い、魔物の気配もない。
びしょぬれになった一行は、歩きながら、服を乾かすという、恐ろしく、原始的な方法を取る。
今、襲われたら、動きづらいこと、この上ないだろう。
幸い、辺りは見渡せる平原なので、不意を突かれる心配はないが、逆を言えば、こちらが見つかりやすい、という欠点でもあった。
案の定、何度か、魔物に襲われた。しかし、そこで、意外なものが、武器として、役に立った。
器用に動き回るじんたが、濡れた上着を、振り回したのだ。水をたっぷりと吸った服は、さながら、鞭のように、しなり、魔物に、強烈な打撃を与えた。
交代で昼休憩を取り、一行は、帰路につきながら、後半の討伐を終えた。
家に帰り着くと、一人ずつ、順番に、家の中に入っていく。
ゆうこが、先頭で風呂に入り、彼女が上がったら、また一人、と。
そうして、家の中に、順番に、清潔な人間が増えていく。
その、なんとも言えない、日常の光景に、龍也は、また一つ、この家での、ささやかな幸せを、感じるのだった。
夕飯の支度をしている時、じんたが、少しだけ、誇らしげな顔で言った。
「おら、今夜から、バイトに行ってくるべ」
あの酒場『GUILD』で、マジシャンとしての初仕事だ。
それを聞いて、龍也も、改めて思い出した。仲間探しと、そして、自分のバイト探し。
明日、酒場に行ってみよう。そう皆に告げ、その日は、夕飯を食べ終えた。
翌朝。討伐の準備を終え、一行がリビングに集まると、そこに、なんとも眠たげな顔のじんたが、ふらふらと起きてきた。深夜までのバイトは、やはり、きつかったらしい。
「……これじゃあ、討伐は無理だな」
龍也は、今後の討伐は、昼から夕刻までの短時間とし、夜は、バイトに行く、という新たなローテーションを提案した。じんたは、再び、眠りの世界へと落ちていく。
その間、ゆうことシンジは、自分たちのバイトを探しに、街へと出かけていった。
龍也は、一人、役所へ向かい、梅さんに電話をかけた。
トイチの支払いの件と、そして、薬代を少しでも節約するために、何かいい手はないかと、相談するためだ。
梅ばあさんは、浦和の街の様子や、規模について、詳しく龍也に尋ねた。
そして、「分かったよ」と言うと、今月の支払いは、待ってくれる、と約束してくれた。
無利子にしてくれるわけではないが、その優しさが、ありがたかった。
家に帰り、昼前に、じんたが起き、バイト探しに出ていた二人も、帰ってきた。
「決まったぞ、タツヤ!」
「わしもじゃ!」
なんと、ゆうこは、病院の夜間外来の非常勤。シンジは、施設の夜間警備。
二人とも、あっさりと、バイトを決めてきたのだ。さすが、と言うしかない。
梅さんの支払い延期のおかげで、今月の家計に、少しだけゆとりができたことを伝え、一行は、午後の討伐へと向かった。
昨日の経験を考慮し、龍也は、ゴミ袋を四枚、持参していた。
それに、頭と腕を出す穴を開ければ、簡易的な、泥よけの雨合羽の完成だ。
その効果は、テキメンだった。投げつけられた泥でさえ、手で払い落とせる。
昨日の倍以上の泥の魔物を倒し、一行は、夕方、きれいさっぱりとした姿で、じんたが働く酒場『GUILD』へと向かった。
カウンターでは、じんたが、覚えたてのマジックを、客に披露している。
龍也は、マスターに、バイトの件を聞いてみた。
「ああ、それなら、三軒隣のバーで、コックを探してるって、聞いたな」
帰りに行って見よう。そう思いながら、龍也は、本来の目的である、仲間探しを始めた。
魔法使い。しかし、見た目だけでは、誰がそうなのか、全く分からない。
店で、積極的に紹介してくれるわけでもなく、おのおの、自分で探すしかないようだ。
「……こりゃ、時間がかかりそうだな」
龍也は、後日、仲間募集の張り紙をさせてもらうことにして、その日は、店を出た。
帰りがてら、三軒隣のバーへと、向かう。『HEAVEN'S HELL』。なんだか、物騒な名前の店だった。
龍也だけが、中へ入り、面接だけでも、と頼もうとした、その瞬間。彼は、既視感に襲われた。
(……ここも、オカマバーかよ!)
またか、と思ったが、別に、嫌いではない。
龍也は、ママらしき人物に、雇ってもらえないかと頼み込み、なんとか、明日の開店前に、面接をしてもらえる約束を、こぎつけた。
翌朝。太極拳を終え、清々しい朝を満喫していると、じんたが、かなり酔っ払って、帰ってきた。
今から眠るのでは、今日の討伐は無理だろう。
起きてきた二人に、今日は討伐を休みにすることを伝え、自分の面接までの時間を、どう過ごすか、考えた。
銀行で、少し金をおろし、役所で、板橋の咲に電話をかける。
薬を、少し格安で、浦和に送ってもらえないか、と。
咲は、快諾してくれたが、
「そういえば、梅さんが、なんか、浦和がどうのこうのと、言ってましたよ」
と、はっきりしないことを言っていた。薬は、着払いで送ってもらえることになった。
午後、時間を持て余した一行のために、龍也は、普段は作らない、少し手の込んだランチを振る舞った。
そして、夕刻。じんたは今日休み。龍也は、一人面接へと向かった。
開店前のバーに入ると、そこでは、何人かの、見るからに屈強な「おっさん」たちが、開店準備をしている。そして、ママが、龍也を面接してくれた。
「何か、作ってみせなさいよ」
龍也は、簡単に、しかし、手際よく、かつて、新宿の『HEAVEN』で、大絶賛された、
あの「ニンニクたっぷりスタミナ野郎炒め」を作った。
その匂いに、準備をしていたおっさんたちが、わらわらと集まってくる。
そして、一口食べた瞬間、全員が、それに、がっついた。
「……この味、知ってるわ……」
ママが、ぽつりと、呟いた。
「新宿の、姉妹店で、食べた味に、そっくりよ」
姉妹店?まさか……。その店の名前を言ってみた
「もしかして『HEAVEN』ですか?」
その瞬間、龍也は、『家族』として、迎え入れられた。
店の中は、一気に、ウェルカムムードに包まれた。
この、広大な浦和の街で、まさか、こんな繋がりがあったとは。
新宿のママとは、盃を交わした仲なのだという。
かつての、オネエ様たちの話で、大盛り上がりし、開店前だというのに、飲み会が始まってしまっている。
まだ『おっさん』のままなのに。
店を出て、家に帰ると、じんたも起きていた。
龍也は、皆に無事、全員のバイトが決まったこと、そして、新宿との、恐ろしいまでの「縁」について、話した。
それを聞いたゆうこは、「今すぐ、そのバーに行くぞ!」と、目を輝かせている。
なんだか、この浦和の街が、一気に楽しくなってきた。龍也は、そう感じていた。