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第二話 地図と現実

 この世界に来て数日、龍也の心にふと家族の顔がよぎった。妻や子供たちはどうしているだろうか。いや、それ以上に、自分のこの奇妙なアルバイト生活をどう説明すればいいのか。一度、家に帰って様子を見るべきかもしれない。


 休憩所でくつろいでいた田中を見つけ、思い切って尋ねてみた。

「田中さん、ここから家に帰る方法ってあるんですかね?」

田中は面倒くさそうに顔を上げ、休憩所の隅にある、古めかしい電話ボックスのような個室を指さした。始まりの小屋だった。

「あそこだよ。三十円払えば、自宅の自分の部屋に戻れる。まあ、俺はもう何年も帰ってねえがな」


 三十円は今の龍也にとって決して安い金額ではなかったが、背に腹は代えられない。彼はなけなしの小銭を投入し、狭いボックスの中に入った。途端に視界がホワイトアウトし、次の瞬間、見慣れた自室のパソコンの前に座っていた。


 そっと部屋を出てリビングを覗くと、妻がテレビを見ながら菓子を食べている。妻は龍也の存在にまるで気づいていない。

「ただいま」

声をかけても、「ああ」という気のない返事が返ってくるだけ。数日間家を空けていたことなど、微塵も気にしていない様子だった。


 関心がない。その事実が、龍也の胸にチクリと刺さった。だが、同時にどこか吹っ切れたような気持ちにもなった。誰も俺に期待していない。ならば、誰に気兼ねすることなく、あの世界で稼いでやろうじゃないか。


 龍也は黙って自室に戻ると、決意を新たにパソコンのモニターに表示されたメールのURLを、今度は迷うことなくクリックした。


 再び中間空間へ「出勤」した龍也は、まだ午前中だったため、すぐにフィールドへ向かった。スライム討伐と薬草採取、両方をこなせば効率がいいだろうと考えたのだ。しかし、現実は甘くなかった。薬草を探すのに夢中になっているとスライムを見逃し、スライムを追いかければ薬草の群生地を見過ごしてしまう。結局、その日の成果はスライム2匹と薬草25株という、なんとも中途半端な結果に終わった。


「どうも効率が悪いな……」

それに、スライムは思った以上に数が少なく、薬草も良いポイントは既に他の誰かに刈り取られた後だった。競争率が高いのだ。


 休憩所でため息をついていると、また田中と顔を合わせた。

「田中さん、この辺りの地図みたいなものはないんですか?」

「ああ?売店で売ってるだろ。十円だ」

(そんな重要なものがあるなら早く教えてくれ)、と心の中で毒づきながら売店へ走り、一枚の羊皮紙のような地図を手に入れた。それは、この休憩所周辺の簡単な見取り図に過ぎなかったが、彼にとっては大きな一歩だった。


 その日から、討伐や採取から戻るたびに、地図に情報を書き込んでいった。どこでスライムと遭遇したか、どのあたりに薬草が群生していたか。居酒屋で在庫管理や売上分析をしていた経験が、こんなところで役立つとは思わなかった。少しずつ情報で埋まっていく自分だけの地図を眺めるのは、ささやかな楽しみとなった。地図にはまだ、広大な未知のエリアが広がっている。だが、今の新聞紙の防具とただの棒では、これ以上奥へ進むのは自殺行為に等しいことも、彼は理解していた。


 翌日から、朝食は無料の黒いパンと水だけにした。食費を切り詰め、ひたすらSAFETYエリア周辺での討伐と採取を繰り返す日々。それを、二週間続けた。


 さすがに要領を覚え、スライム相手に怪我をすることはほとんどなくなった。それでも最初の頃は何度かヘマをし、そのたびに診療所のドS看護師に世話になった。

「またかい!少しは学習しな!その腹の脂肪は飾りか!」

そんな罵声を浴びせられながらも、彼女の的確な治療と激励(?)のおかげで、立ち直ることができた。


 だが、生活は一向に楽にならない。日々の食事代や、たまの贅沢で飲んでしまうビール代。なんだかんだと浪費してしまい、二週間がむしゃらに働いて、貯蓄は未だ三百円にも満たなかった。


 武器も防具も、驚くほど高い。売店に並ぶ商品リストを見ては、龍也はため息をつくしかなかった。

武器は、初期装備の木の棒の次が「ホーキの柄」、そして「突っ張り棒」、「物干しざお」と続き、その値段は三百五十円からどんどん上がっていく。まだ刃物すらリストにはない。

防具も、今着ているTシャツの次は「布の服」が五百円、「皮の服」に至っては三千円もする。盾も「鍋の蓋」が三百円、「フライパンの蓋」が八百円と、とても手が出せる金額ではなかった。


「これじゃ、いつまで経ってもスライムと薬草採りから抜け出せないじゃないか……」


自分だけの情報が書き込まれた地図と、雀の涙ほどの貯金。厳しい現実を前に、立ち尽くすしかなかった。


 このままでは埒が明かない。黒パンをかじりながら、作戦を練ることにした。居酒屋時代、彼は店長として売上管理や仕入れの効率化を徹底的に叩き込まれた。あの経験が、この世界で役立たないはずがない。


「そうだ、狩りじゃなくて養殖だ」


 闇雲に探しまわるから効率が悪いのだ。薬草を安定供給できる場所、つまり「畑」を作れないか。スライムも、一匹ず相手にするから時間がかかる。まとめておびき寄せる「罠」は作れないだろうか。


 なけなしの金から二百円を投資した。まずは売店で丈夫な麻袋と、穴を掘るための小さなシャベルを購入。そして数日かけて、エリアの境界線ギリギリの、誰も寄り付かないような岩場の陰に、自分だけの「秘密の庭」を作り始めた。採取してきた月見草の根を丁寧に植え、水をやる。幸い、この世界の植物は生命力が強いらしく、数日で根付き始めた。


 次にスライムホイホイの製作だ。スライムの習性を観察し続けた。そして、彼らが月見草の放つ微かな香りに引き寄せられることに気づいた。これだ。彼は通り道にいくつか落とし穴を掘り、その底に砕いた月見草を餌として仕掛けた。まさにゴキブリホイホイならぬ、スライムホイホイである。


 成果が出るまでの一ヶ月は、これまで以上に切り詰めた生活を送った。朝は黒パン、昼は抜き、夜も黒パン。ひたすら地道にスライムを木の棒で殴り、薬草を探し回る日々。しかし、希望があるだけ、以前のような絶望感はなかった。


 そして一ヶ月後、龍也の目論見は現実のものとなった。秘密の庭に植えた月見草は、驚くほどの繁殖力で青々と茂っていた。そして、仕掛けたスライムホイホイの穴という穴が、半透明のプルプルとした塊で満たされている。


 しかも、思わぬ副産物もあった。罠にかかったスライムを討伐していると、10匹に1匹くらいの割合で、倒した後に月見草をポトリと落とすことが判明したのだ。餌にした薬草が、そのまま餌を呼び込む。完璧なサイクルが完成した瞬間だった。


 この日から、龍也の収入は劇的に安定した。日に三百円は固い。月に換算すれば九千円。これでようやくまともな装備が買える。そう胸を膨らませた龍也だったが、月末に渡された給与明細を見て愕然とした。


 収入九千円。そこから「会社手数料十%」として九百円が引かれ、さらに「所得税」「住民税」「中間空間維持費」など、よくわからない名目でごっそりと天引きされている。会社に問い合わせたところ収入が五千円超えると税金が発生するそうだ。最終的に、現実の口座に振り込まれたのは、わずか二千円程度だった。


「……世知辛いのは、どこも一緒かよ」


 がっくりと肩を落とす龍也に、いつものように田中が声をかけてきた。彼は秘密の庭の噂をどこからか聞きつけたらしい。

「おい新人。お前、楽して稼いでるらしいな。だが、そんなことしてても体力はつかねえぞ。この先、もっと強いモンスターが出るエリアには、今のままじゃ絶対に進めねえ。ここで一生、スライムと薬草相手に終わるつもりか?」


 田中の言葉は、龍也の痛いところを突いていた。確かに、収入は安定したが、戦闘経験はほとんど積めていない。これではジリ貧だ。


「……人を雇うか」


 またしても、サラリーマン時代の発想が頭をもたげた。栽培の管理は、誰かに任せればいい。自分は討伐に専念し、体を鍛える。これぞ業務委託だ。


龍也は早速、休憩所の掲示板に募集の張り紙を出した。


「【急募】薬草栽培の管理人。安全な作業です。討伐に疲れた隠居の方、歓迎。報酬:収穫高の十%」


 すると、三人の老人が応募してきた。龍也はその中から、一番物静かで、地味な作業を好みそうで、そして何よりしばらくは死にそうにない頑健そうな老婆、「梅ばあさん」を雇うことに決めた。


「よろしく頼むよ、梅ばあさん」

「へいへい。任せときなんし」


 こうして、龍也は栽培管理という安定収入源を梅ばあさんに任せ、自らは再び木の棒を手に、スライム討伐に精を出す日々に戻った。収入はかなり減ったが、心は軽かった。今はただひたすらに、己の肉体を鍛え、次なるステップへ進むことだけを考えていた。


 再びスライム討伐に明け暮れる日々に戻った。目的は一つ、己の肉体を鍛え上げること。以前のように金のためだけにスライムを狩るのではない。一振り一振りに体重を乗せ、効率的な足の運びを意識する。居酒屋の厨房で重いフライパンを振り、一日中立ちっぱなしで鍛えた足腰は、まだ錆びついてはいなかった。


 ひたすらスライムを叩き続けること、二週間。

龍也の身体には、目に見えて変化が現れていた。Tシャツの上からでも分かるほどに腕の筋肉は盛り上がり、腹の贅肉は少しずつ削ぎ落とされていく。木の棒を振るスピードも、始めた頃とは比べ物にならないほど鋭くなっていた。


 しかし、同時に焦りも感じ始めていた。スライム相手では、もはや手応えがない。これ以上の成長は見込めないのではないか。そんな思いが頭をもたげたある日、ふと、いつも引き返していた討伐エリアの境界線の、さらに奥へと足を向けてみたくなった。


 森を抜けると、視界が開けた。目の前には大きな川が流れている。そして、その向こう岸には、これまで見たこともないような鬱蒼とした森が広がり、時折、獣のような咆哮が聞こえてきた。木々の合間を、明らかにスライムとは違う、色の違うスライムや俊敏な魔物が動いているのが見えた。


 川には古びた石の橋が一本だけ架かっており、その手前と向こう岸には、それぞれに堅牢な門が設置されている。ここが、次のエリアへの入り口なのだろう。


 川べりまで近づき、水面を覗き込んだ。すると、鎧のような硬質の鱗に覆われた、とてつもなく巨大な魚が、何匹も悠然と泳いでいるのが見えた。しばらく川を眺めていると、水を飲みに来たらしいゴブリンの一匹が、不用意に川へ足を踏み入れた。その瞬間、水面が爆ぜた。巨大な魚が恐ろしいスピードでゴブリンに食らいつき、一瞬のうちに水の中へと引きずり込んでしまったのだ。後に残ったのは、わずかに赤く染まった水面だけ。川沿いにいた他の魔物たちも、その光景に恐れをなして蜘蛛の子を散らすように逃げていく。この川は、天然の要塞であり、生半可な実力では渡ることすら許されない死の領域なのだと悟った。


 背筋に冷たい汗が流れるのを感じながら、橋の手前にある門へと向かった。

門の脇には、鎧姿の門番が微動だにせず立っている。

「すみません、この橋を渡るにはどうすれば?」

門番は龍也を一瞥すると、無感情な声で答えた。

「そこにいる練習用シャドーを倒せばいい」

門番が指さした先には、以前龍也が初日に戦った黒い人影が立っていた。だが、以前のものより一回り大きく、禍々しいオーラを放っている。

「ただし、今のあんたが相手にしてるスライム用のシャドーより、少し強いぞ。それと、通行料として五十円かかる」


「また金かよ……」


 世の中、どこまで行っても金が付きまとう。龍也は思わず嘆息した。

だが、門番の言葉はそれで終わりではなかった。


「忠告しておくが、この門は日が暮れると固く閉ざす。向こう岸の門も同様だ。そして、この先、次の宿場があるセーフティエリアまでは、健脚な若者でも野営を挟んで丸二日はかかる。道中には、夜行性の強いモンスターもうろついている。生半可な覚悟で渡るな」


 宿もない。暗くなれば門も閉まる。強い敵がうろつく危険な道中を、二日間も生き延びなければならない。

その過酷な現実を想像した瞬間、龍也の心は完全に折れた。今の自分では、橋を渡り切ることすら怪しい。もし渡れたとしても、その先で野垂れ死にするのが関の山だろう。


 「……怖い」

素直な感情だった。中年男のプライドなど、命の危険の前では何の役にも立たない。


 「……また、出直します」

門番に力なくそう告げると、すごすごとその場を立ち去った。

自分の実力不足と、この世界の底知れない厳しさを改めて痛感しながら。

今はまだ、川の向こう岸は、あまりにも遠い場所だった。

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