第二八話 眠れぬ夜と市場の朝
初めての『我が家』での夜。
さぞ、ぐっすり眠れるだろう。誰もが、そう思っていた。しかし、現実は、そうではなかった。
じんたは、嬉しすぎて興奮し、全く眠れない。
自分の部屋の畳の上を、意味もなく、ゴロゴロと転げ回っている。
ゆうこも、どこか落ち着きがない。新しい環境に、まだ、身体が馴染んでいないのだろう。
シンジは、布団の上で、静かに目をつぶってはいるが、その引き締まった身体は、常に警戒を解いておらず、深い眠りにはつけていないようだった。
そして、龍也は、明日からのことを、あれこれと考えていた。
まだ、買わなければならないものは、たくさんある。だが、浪費ばかりはしていられない。
稼がなければ。討伐にも、行かなければ。借金の返済も……。
結局、四人とも、それぞれの思いを胸に、眠れぬ夜を過ごしていた。
そして、いつの間にか、うとうとと、寝落ちしていたらしい。
朝。家の前の小さな庭で、日課の太極拳を終えた頃、ゆうこが、あくびをしながら家から出てきた。
「おはようさん」
「ああ、おはよう」
まだ、朝は、始まったばかりだ。
「なあ、タツヤ。ちょっと、散歩に行かんか?」
ゆうこの提案に、龍也も頷いた。
この、まだまだ全体像が掴めない、巨大な街を、少しでも知っておきたかったし、何より、昨日見た、あの不思議な建物も、気になっていた。
街は、まだ眠っている。人通りもまばらで、静かだ。
その時、ゆうこが、「あそこに行きたい」と、ある方向を指さした。
早朝から、活気のある声が聞こえてくる、市場だった。
「市場か。いいな」
市場の雰囲気は、嫌いではない。居酒屋時代を、思い出す。
二人がやってきたのは『浦和卸売市場』と書かれた、巨大な市場だった。
そこは、街の静けさが嘘のように、大勢の人でごった返し、活気に満ち溢れていた。
新鮮な野菜や、獲れたての魚介類が、所狭しと並べられている。まさに、食材の宝庫だ。
「うわー!ええ野菜が、ぎょうさんあるわい!」
ゆうこが、目を輝かせながら、いくつかの野菜を買い求める。
ついでに、龍也も、威勢のいい魚屋の店先で、一本の、見事な魚を仕入れた。
丸々と太り、脂がのった、極上のブリだ。
(……よし。帰ったら、これを解体して、朝飯と、夜の、とっておきの一品に、仕込むとするか)
龍也の頭の中には、すでに、今日の献立が、具体的に描き始められていた。
二人は、新鮮な食材を手に、満足げな顔で、自分たちの『我が家』へと帰路についた。
眠れぬ夜の後の、清々しい、一日の始まりだった。
龍也とゆうこが家に帰り着くと、ちょうど、じんたとシンジも、眠そうな顔で起きてきたところだった。龍也が抱える、大きな発泡スチロールの箱に、じんたが興味津々といった様子で駆け寄ってくる。
「タツヤ!何、買ったんだべか?」
龍也が、箱の蓋を開けて見せる。
中には、氷に詰められた、丸々と太ったブリと、新鮮な野菜類が、ぎっしりと詰まっていた。
その光景に、じんたは目を輝かせ、
「うまそうだべー!」
と、その場でぴょんぴょんと跳ね始めた。
いつもはクールなシンジも、心なしか、口元が緩み、ニコニコしているように見える。
朝飯の支度が始まった。慣れた手つきで、まずは夜の分のブリを仕込み始める。
その流れるような包丁さばきは、もはや芸術の域だ。
朝の献立。炊飯器などという文明の利器はないため、大きな鍋で米を炊く。
そして、炊き立てのご飯と共に、食卓に並んだのは、新鮮なブリの刺身、野菜の煮浸し、そして、ブリのアラから、丁寧に出汁を取った、極上のアラ汁だった。
ゆうこの、心の底からの嬉しそうな顔。それを見ているだけで、龍也の心は、じんわりと癒されていく。
「ぶちうめぇのぉ!」
黙って食べていれば、本当に、いい女なのだが。
じんたは、子供のように、何度もご飯をおかわりし、シンジも珍しく、箸を止める間もないほど、夢中で料理を平らげていく。これぞ、料理人冥利に尽きるというものだ。
さて、最高の朝食で、腹ごしらえを済ませた後。龍也は、ミーティングを始めた。
「これからのことについて、少し、話し合っておきたい」
まず、現状の厳しい経済状況を説明した。梅さんから借りた、多額の借金。
日々の生活費。そして、これから、さらに良い装備を揃えるための資金。
「そこで、提案なんだが。日中は、これまで通り全員で討伐に出る。そして、夜。毎日とは言わんが、全員で何か、バイトをしないか」
それぞれが、何をするのかは、まだ分からない。しかし、これも、全ては生活のためだ。
その提案に、拒む者はいなかった。
「それで、だな」
龍也は、一呼吸置くと、衝撃的なことを提案した。
その一言に、部屋の空気が凍りついた。
一同の驚きは、ここしばらくで、一番のものだったかもしれない。
ゆうこは、目を開き。じんたは、開いた口が塞がらない。
そして、シンジも、さすがに、その驚きを隠せず、目を見開いていた。
それは、これからの旅を、根底から覆しかねない、あまりにも、唐突で、そして、重大な提案だった。