第二六話 中年、心に巣食うもの
大都市『浦和』その圧倒的な光景を前に、仲間たちが興奮に沸き立つ中、龍也だけは、一人静かに、そして、真剣にあることを考えていた。
(……ここで、リタイアするのも、一つの手かもしれない)
それは、彼が、板橋あたりから、密かに、ずっと心に抱えてきた想いだった。
年も、もう五七歳になろうとしている。たまに、ふと思うのだ。
なぜ、自分は、この異世界で、命を懸けて戦っているのだろうか、と。
現実には、家庭がある。どんなに冷え切っていても、そこには、妻がいて子供がいる。家庭がある。
「在宅勤務で、一念発起して、新たな仕事に飛び込んでみれば、異世界でモンスターと戦う」
まるで、出来の悪い冗談のようだ。
学生の頃、夢中になっていた、あのゲームの世界に、今自分はいる。
梅さんのおかげで、収入は、驚くほどに安定している。
おそらく、今、家に帰っても、口座に給料さえ振り込まれていれば、自分の存在など、誰も気にしないだろう。
それは、分かっている。分かっては…いる。帰れば、あの息の詰まるような、窮屈な日常が待っている。
一方、ここでは、常に危険と隣り合わせだ。
しかし、その危険に、共に向き合ってくれる、かけがえのない仲間たちがいる。
だが、この身体が、いつまで持つのか。
この世界のシステムは、戦うごとに、レベルアップしていく。
それは、若く、柔軟な肉体と精神があればこその、成長だ。
この、もうすぐ還暦を迎えようとしている、おっさんの身体は、違う。
戦いの経験を積み、スキルや、対処法のレベルは上がっても、根本的な「体力」がこれ以上、上がることは、もうないだろう。
ゴードンに鍛えられ、その辺の同年代よりは、少しばかり、身体が引き締まって、体力がある。
ただ、それだけのことなのだ。
幸い、この『浦和』は、何でもある大都市だ。
ここで、仲間たちと別れ、静かに、余生を送るのも、悪くない選択ではないか。
しかし、龍也の脳裏に、仲間たちの顔が、次々と浮かんでくる。
故郷の『秋田』を目指し、今は、亡き父のライバルに、必死で食らいついている、純朴な、じんた。
亡き恋人の想いを胸に、復讐という呪縛から解き放たれ、新たな恋を、その不器用な心に募らせている、シンジ。
そして、彼女にも、きっと、何か、この旅に同行する、大きな目的があるはずだ。そのために、今まで、文句一つ言わず、ついてきてくれている、ゆうこ。
そして、それぞれの街で、自分たちの帰りを、待ってくれている人たちがいる。
(……ここで、終わらせるわけには、いかないか)
龍也は、心の中で、小さく、ため息をついた。
まだ、旅は、終われない。終わらせては、いけないのだ。
彼は、その、心に巣食う、弱気を振り払うように、仲間たちに向かって、声をかけた。
「……とりあえず、長居することを前提に、まずは、腰を落ち着けられる、宿を探そう」
その声は、いつもと、何も変わらない、このパーティの、頼れるリーダーの声だった。
さすがは、大都市『浦和』宿の数も、これまでの街とは比較にならなかった。
ランクも、設備も、まさにピンからキリまで。しかし、今回は、長居を覚悟している。
あまり、金はかけられない。
かといって、大人四人、しかも女性もいるのだ。
あまりに安すぎる、治安の悪い宿というわけにもいかないが、予算は、限られている。
(……また、夜、どこかでバイトでも探すか)
龍也が、真剣にそう考え始めた、その時だった。
四人で、宿を探して散策していると、一軒の不動産屋が、目に留まった。
窓に張り出された物件情報には、信じられないような値段が並んでいる。
「賃貸ワンルーム、月千円」
「2LDK、月千五百円」
「一軒家、5LDK、月三千円」
「……これ、安いかもな」
龍也は、思わず、その店の中に、吸い込まれるように入ってしまった。
受付の男に、一軒家を借りたいと伝えると、残念ながら、窓の物件は、すでに予約済みだという。
しかし、他にも物件はあると、色々と紹介してくれた。
その中で、一つの物件が、龍也の目に留まった。
「5LDK、月二千五百円。……築、百二十年」
築年数は、もはや文化財レベルだが、何年も住むわけではない。
とりあえず、物件を見に行きたいとお願いした。
その家は、街の中心から、「魔車(魔物が引く馬車)」に乗って、三十分ほどの場所にあった。
ちなみに、ゴーレムの歩く速度は、あまりにも遅く、普通の人間が歩けば、二十分で着く距離だ。
一行は、乗って途中でその事実に気づいたが、黙々と働くゴーレムが、なんだか可哀想に思えて、結局、最後まで我慢して乗ることにした。
(帰りは、絶対に歩こう)
全員が、心にそう誓った。
家は、なかなか風情があり、思ったよりも、ボロボロではなかった。
龍也は、壁や屋根に穴が開き、床は歩いただけで抜ける、くらいの状態を想像していたため、妙に、まともに思えてしまった。これなら、十分だ。
不動産屋に戻り、借りたい旨を伝えると、男から、矢継ぎ早に、質問を浴びせられた。
「皆さんは、旅の方ですか?」「滞在期間は、どのくらいを?」「今の、実力のほどは?」「一日に、最高で、いくら稼いだことがありますか?」「過去に、死にかけたことは?」「もし、万が一、お亡くなりになった場合、家賃の支払いは、どうなさるおつもりで?」
なかなか、現実社会では聞かれないような、シビアな内容だった。
しかし、貸す側からすれば、当然の心配だろう。
そして、全ての討伐パーティには、「保証人」「敷金」「礼金」「仲介手数料」、そして「前家賃二ヶ月分」が必要だ、と告げられた。
その、あまりにも高いハードルに、龍也は、役所へと走り、一台の電話を探した。
頼れるのは、あそこしかない。
「……梅さん、俺です。お願いがあります。身元保証人と、契約費用を、貸していただけないでしょうか」
電話の向こうで、梅さんは、かかかと、陽気に笑った。
「いいよ。ただし、『トイチ(十日で一割の利息)』でなら、貸してやろう。保証人も、なってやる」
トイチ。なんと恐ろしい響きだろうか。さすがは、経営のプロ。メリットのないことは、一切しない。
そして、彼女が保証人になるということは、
「絶対に裏切らない」
という、無言の圧力でもある。
藁にもすがる思いだったが、これから、厳しい返済に追われることになりそうだ。
しかし、何はともあれ、これで家は借りられる。
不動産屋に戻り、
「保証人は、所沢の梅さんです」
と告げた、その瞬間。
男の態度は、百八十度変わった。
「は、はあ!あの、梅ばあ様が!かしこまりました!すぐに、手続きを!」
もはや、梅さんの名は、この遠い『浦和』の街まで、いや、経済界にまで、轟いているらしい。
そのうち、自叙伝でも出版しそうな勢いである。
こうして、一行は、多くの人の(特に、梅さんの)助けを借りて、『浦和』での、新たな『我が家』を、手に入れるのだった。