第一四九話 広島道中記 旅立ちは誓い、再会は約束編 アナザーストーリー:神域の誓い
二階にリフォームされた、食堂に集まり、朝食をとった。
食堂と言っても、殺風景なのではなく、家庭的な内装で椅子もテーブルも、無機質な物ではない。
食後のコーヒーを飲みながら、ゆっくり、龍也が、話始めた。
「皆、一月、おつかれさん。元はと言えば、俺が倒れたせいで、申し訳ない」
「龍也のせいでねくてな、おらだち、自分でやりてくて、行ってきたんだべや」
「そうだ、お前の事ではなく、これからの事を、考えた行動だ」
シンジも、咎めた。
「そうか、ありがとう……」その言葉が、嬉しかった。ウルっとしてる所を、
「そんじゃ、話でも、聞こうかのぅ、な、シンジ」ゆうこが、かぶせて、聞いた。
「ああ、わかった……レン、俺が話していいか?」
「どうぞ」
朝の霧がまだ社の屋根に残り、石畳の上を白く漂っていた。
その中を、二人の影がゆっくりと進んでいく。
シンジとレン。
喜多方から長い道を歩き詰めた彼らは、
ついに、泰源の神社へと辿り着いた。
境内には、既に数人の門下生が竹刀を振るっており、
静寂の中に、一定の間隔で打ち込まれる音が響いていた。
*パン、パン、パン――。*
空気が、張り詰めている。
「……ここが、泰源さんの、神域か。」
レンが息をつく。
「気ぃ抜くなよ。稽古場ってのは、戦場みたいなもんだ」
シンジは短く答え、拝殿の奥を見据えた。
その先に、泰源がいた。
白装束に浅葱色の袴。
日差しを背に受け、まるで風そのもののような気配を纏っていた。
「お久しぶりです、泰源殿!」
シンジの声が境内に響く。
「おお、君たちか。まさか、またここまで来るとは思わなかった」
泰源は微笑みながらも、視線を鋭くした。
「修行を、つけていただきたい」
レンが深く頭を下げる。
「……修行、とな?」
「ああ、お願いしたい」
シンジも続けた。
「俺たち、前にあんたと出会って、あの時、痛感したんです。あんな迷いのない一撃……自分にも、いつかあれを掴みたい」
泰源は、静かに目を閉じた。
「悪いが、うちの修行は誰でもできるもんじゃない。半端な気持ちで来たなら、すぐに潰れる」
「半端な気持ちじゃありません!」
レンが一歩踏み出し、拳を握った。
「俺たちは、命を賭けてでも学びたい。あの一太刀に、意味を見つけたいんです!」
泰源の周囲の空気が、すっと変わった。
門下生たちが木刀を止め、静まり返る。
「……ほう」
泰源の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「では、試すとしよう。言葉でなく、剣で語れ」
泰観が奥から現れた。老いた瞳が、すべてを見透かしているようだった。
「泰源、あまり手荒にするでないぞ」
「心得ております」
境内中央。 空気が沈む。 木刀が二本、二人に手渡された。
地面には白線。風が止み、静寂になる。
泰源は鞘を持たずに、腰を落とした。
その構えには、隙が一切なかった。
「始め!」
泰観の声が響いた瞬間、シンジが踏み込む。
速い----しかし泰源の体は、すでに風下に回り込んでいた。
木刀が空を裂き、カンッと澄んだ音が鳴る。
「ぐっ……!」
「迷いがある」
泰源の声が低く響く。
「迷えば、一太刀は鈍る」
続けざま、レンが前に出た。
両手で木刀を構え、真っ直ぐに踏み込む。
「はぁぁっ!」
泰源の目が光った。
瞬間、二人の視界が白くはじけ、気がつけば木刀がレンの喉元を止めていた。
「……参りました」
レンが膝をつく。
だが、息を荒げながらも、その目には一点の曇りもない。
シンジも肩で息をしながら、木刀を地に突き立てた。
「俺ら、まだまだ未熟です。でも、逃げません。今の一撃、あの理合を、この目で見たんです……あれを、俺らの中に、刻みたい!」
泰源は二人を見つめ、やがて木刀を静かに下ろした。
「……あの時と、変わっておらんな。いや、あの時より、澄んでおるか」
「泰源!」、泰観が口を開く。
「どう見る」
「合格です」
「ほう……?」
「剣はまだ未熟ですが、志に一点の濁りなし。迷いのない心を求めて来た----それなら、教える価値がある」
泰源が木刀を肩に担ぎ、二人に微笑んだ。
「歓迎します。今日から、門下として修行に励んでもらいます」
「ありがとうございます!」
二人は同時に頭を下げた。
その瞬間、門下生たちが一斉に木刀を掲げ「押忍!」と声を上げた。
境内の空気が、再び動き出す。
風が吹き抜け、朝の霧がゆっくりと消えていった。
シンジとレンは、門下生十人と共に、早朝四時に起床し、まずは冷たい井戸水で身を清めた。
それが一日の始まりだった。
まだ朝靄の立つ中、泰源の掛け声が響く。
「構え、始めッ!」
境内の石畳に、木刀が打ち鳴らされる音が次々と連なる。
リズムも呼吸も乱れない。だが、泰源の一撃は、一人ひとりの心を試すように鋭く、重い。
シンジの腕に汗が滴り、木刀がぶつかる度に手の皮が裂ける。
だが彼は声を上げなかった。
レンもまた、無言で木刀を握り直し、泰源の動きを見逃すまいと、眼を細めた。
日が沈むまで、彼らは何度も何度も、基本を繰り返した。
型を覚えるより、心を整える時間のほうが長い。
夜になると、泰観が現れる。
白い袴に身を包み、手に一本の蝋燭を持っていた。
「今宵は、“内”を鍛えます。目を閉じ、己の念と向き合いなさい」
泰観の声は柔らかいが、境内の空気を張り詰めさせるほどに力を持っていた。
門下生たちは正座し、息を整える。
蝋燭の火が揺れるたびに、影が壁を這った。
「“強さ”とは、腕でも、速さでもない。“心の濁り”を断ち切ること。それが一太刀を真に通すのです」
静寂の中、シンジの胸が微かに熱くなる。
泰観の言葉が、まるで心の奥を覗き込むように響いた。
「……おれ、まだ迷ってるのかもしれねぇ……」
シンジが小さく呟いた。
隣で座っていたレンが目を閉じたまま、短く答える。
「迷うのは悪いことじゃない。抜け出そうとしなければ、永遠にそこにいるだけだ」
泰観が頷いた。
「よい。その言葉もまた“理”です。明日も同じように、己を見つめなさい」
翌朝、再び夜明け前。鐘の音が響く。
そして、また木刀の音が鳴り始める。
時間はわずか一月。
だが、その一月が、彼らにとって“己と向き合う一生分の旅”となっていくのだった。
― レンの心 ―
夜が、境内を包み込んでいた。
月明かりが砂利の上に細く落ち、そこを一陣の風が通り抜ける。
泰観の声が、ゆっくりと響いた。
「呼吸を感じなさい。心を一点に、留めようとしてはいけません。流れのままに…」
門下生たちは、整列して座り、瞑想に入っている。
その中で、レンだけが、微かに眉を寄せていた。
心の中に、剣の軌跡のように過去の光景がよぎる。 戦場の音。
誰かを守れなかった後悔。
そして、今も消えぬ「自分は本当に戦っていいのか」という迷い。
(強くなりたい……けど、俺が強くなるほど、何かを壊してしまう気がする)
そんな想いが、胸の奥を重くする。 その迷いを断とうとするたびに、心がざわついた。
そこへ、泰観の声がふたたび落ちる。
「若き者よ、“力”を恐れてはならぬ。恐れは、使い方を誤る者の中に生まれる。だが、お前の中の力は、“守るため”に芽吹いておる。抑えず、認めなさい」
レンはゆっくりと目を開け、泰観の方を見た。その瞳に、炎のような光が宿っていた。
「……俺は、怖かったんです。誰かを傷つけるのが」
泰観は静かに頷いた。
「怖れを知る者こそ、真に刀を抜く資格がある。恐れを持たぬ剣は、人を守れぬ」
その言葉は、レンの心にすっと沁み込んでいった。
彼は深く息を吐いた。 胸の奥に滞っていた濁りが、静かに流れ出していく。
(俺は、守るために強くなる。迷いも、痛みも、すべて力に変えていく)
そう心に決めると、不思議と身体が軽くなった。 風が頬を撫でる。
夜空の月が、彼の瞳を優しく照らしていた。
その夜の終わり、泰観は微笑んで告げた。
「今夜、お前の“念”は静まり返っておった。明日からの型は、きっと変わるぞ」
レンは、軽く一礼した。
その表情はもう、あの迷いの影を残していなかった。
木刀を握る指先に、確かな自信と、静かな炎が宿っていた。
夜が明けると同時に、境内は凍るような冷気に包まれた。
朝霧の中、泰源が木刀を構える。
その正面には、レンとシンジが立っていた。
「よし、今朝は“型”ではなく、“心の間合い”を試す」
泰源の声が響くと、門下生たちの視線が二人に集まる。
レンは無言でうなずき、ゆっくり木刀を構えた。
昨日までと違う。肩に余計な力がない。
呼吸も整っている。
泰観の教えが、身体の奥に染み込んでいた。
シンジが構える。
泰源が軽く頷いた瞬間、二人の木刀が火花のようにぶつかった。
ガッ!
音が境内に響く。それはただの打撃音ではなかった。
心と心がぶつかる音。
シンジが押し込む。
だがレンは退かない。
その瞳は静かに燃えていた。
「……迷いがねぇな、レン」
シンジが小さく笑う。
「昨日、お前が一晩中座ってた理由が、今わかったよ」
レンは息を整えながら答えた。
「俺は、守るために振るう……それだけ、だ」
その瞬間、泰源の眼が光った。
「――来たな、覚悟の刃」
レンが踏み込む。
無駄のない動き、流れるような一撃。
泰源がそれを木刀で受け止めた瞬間、風が巻き上がった。
木刀同士がぶつかるはずの衝撃が、柔らかく吸い込まれたように消える。
それは、『力の制御』、力を抑え、心で導く剣。
泰源がわずかに口角を上げた。
「……ようやく、『型』を越えたな。剣は力ではなく、『想い』で振るうものだ」
レンは木刀を静かに下ろし、息を整えた。
門下生たちがざわめく。
泰観はその様子を少し離れた柱の影から見て、静かに微笑んでいた。
「迷いを超えた心は、もう揺るがぬ。これよりが『本当の修行』だ」
朝日が昇る。 境内の空気が、金色に染まっていった。
レンの背中は、確かに一歩、前へ進んでいた。
―シンジ、 意志を研ぐ ―
朝霧が境内を覆い、木々の葉に露が凍る。
シンジは木刀を手に、泰観の前に立った。
呼吸を整える。心も、体も、まだ眠りの名残を残している。
「シンジ、お前は昨日の夜、何を思った?」
泰観の声は静かだが、全身を通して迫る重みがあった。
「……強く、なりたい、と……」
シンジの言葉に迷いはない。
ただし、胸の奥に漠然とした不安もあった。
それは、力を求める者すべてが抱くものだ。
「力だけでは人を守れぬ。心を研ぐのだ」
泰観は木刀を掲げ、ゆっくりと前に進む。
シンジは木刀で迎え撃つ。
カンッ、カンッ
衝撃音は小さいが、緊張の糸は全身に張り詰める。
泰観が一歩踏み込み、木刀を受ける手をわずかに緩める。
シンジはその瞬間を感じ取り、体重を乗せずに一撃を返した。
「……おお、やっと心で打てるようになったか」
泰観の目に小さな笑みが浮かぶ。
シンジは気づいた。
力任せに振るうのではなく、相手の呼吸、心の流れを読み、剣を導くこと。
それこそが、護るための剣であり、揺るがぬ意志の証であると。
深呼吸と共に、シンジは木刀を下ろした。
体が軽く、心が澄み、全身の血が整った感覚があった。
「……迷いを捨てれば、剣は応えるんだな」
小さくつぶやき、シンジは泰観に一礼した。
泰観は頷き、静かに言った。
「これよりが、真の鍛錬だ。体だけでなく、意志も磨け。心が揺らげば、剣も揺れる」
朝日が静かに昇る中、シンジの背筋はぴんと伸び、覚悟が全身に満ちた。
この日から、彼の剣と心は、確かに一段、進んだのだった。
夜稽古 ― 心を試す ―
月明かりが境内を銀色に照らす。
梢から落ちる葉の音だけが、静寂を破る。
シンジとレンは、本堂前に座り、泰観の前に正座した。
シンジは目を閉じ、呼吸を整える。
昨日の自分の未熟さ、迷い、恐れ、それらが、心の中で波のように押し寄せる。
「恐れるな、心を鎮め、思考の波を見よ」
泰観がそう告げると、夜風が境内を抜け、冷たく頬を打った。
目を閉じたまま、シンジは心の中の『自分』と対話する。
弱さを責めず、否定せず、ただ観察する。
波が静まる瞬間、心が澄み、身体の感覚が研ぎ澄まされる。
「己の内に答えはある。剣も、力も、導かれるべきものは自ら見つけるのだ」
泰観の声が、夜の静寂に溶けていく。
シンジの胸に、熱い決意が芽生える。
昨日よりも確かに、自分は一歩前に進んでいる、そう、心の奥底で感じた。
小さく息を吐き、目を開けると、レンも静かに微笑んでいた。
二人の間に、言葉はなくとも、互いの覚悟が通じ合う。
「この心の強さが、明日の戦いを支える」
泰観はそう言い、夜の稽古を締めくくる。
月明かりの中、シンジは木刀を軽く握り、明日への決意を固めた。
― 修行の成果 ―
シンジとレンは、疲労の残る体を整え、泰源の前に立った。
「さあ、最後の試練だ」
泰源は静かに告げる。その目には、二人の成長を測る鋭い光が宿っていた。
「では、試してみせよ、シンジ」
泰源の声は穏やかだが、その眼光は鋭く、全てを見透かすようだった。
木刀を構え、二人は一歩ずつ間合いを詰める。
初撃、打ち合い、払い、踏み込み。刃が空気を切る音が鋭く響く。
シンジは泰源の太刀筋を読み取り、受け、反撃を試みる。
だが泰源の一撃一撃は無駄なく正確で、簡単には攻めきれない。
「くっ…!」シンジは息を整え、鍛えた体幹と技をフルに使い、攻撃を重ねる。
跳躍、捻り、刃の角度を変え、間合いを崩す。しかし泰源は微動だにせず、迎撃し、誘い込む。
数度の打ち合いの後、シンジの眼に閃きが走る。
胸中で、技を解放する瞬間を待ち、心を一点に集中させた。
そして、突如として放たれる力に泰源は動きを止めた。
「…これは…負けたな」
泰源の口から、静かに認める声が漏れる。
シンジは息を切らしながらも、確かな手応えを感じた。
続いてレンの番。泰源は微笑を浮かべ、同じく木刀を構える。
「お前も全力で来い、レン」
レンは無言で応じ、一歩を踏み込む。
刃と刃が激しくぶつかり合い、回転、踏み込み、斬り返し、互いの間合いを測る。
泰源の太刀筋は完璧だが、レンの動きも無駄がなく、全てが理にかなった攻防だった。
長い打ち合いの後、レンもまた、自分の体得した技を解放する。
泰源は一瞬、予想外の力に防御の間合いを乱され、身をひるがえす。
「…こ、これは…負けた」
泰源は認めざるを得ず、深く息を吐く。
「……見事だ」
泰源は一歩下がり、柔和な笑みを浮かべた。
「君たちの心と技は、十分に磨かれた。免許皆伝だ」
二人は深く頭を下げる。体中に力が満ち、同時にこれまでの苦行の疲れが心地よく抜けていく。
レンは刀を下ろし、達成感と安堵に満ちた表情を浮かべた。
「ありがとうございます、師匠!」
「ありがとうございました!」
門下生たちも拍手を送り、二人の成長を祝福する。
帰路 ― 喜多方へ
荷物をまとめ、境内を後にする。
朝の空気は清々しく、神社の木々の間を抜ける風が二人の頬を撫でる。
「いやあ、しかし、ほんとに辛かったな。でも、得たものは大きい」
レンは笑顔で話す。
「おう、確かに。でも、楽しかったのも事実だな」
シンジも同意する。
門前で泰源が立ち、二人を見送る。
「喜多方に帰っても、技を磨き続けろ。だが、またいつでも戻ってこい」
二人は振り返り、笑いながら会釈する。
「ありがとう、師匠、また来ます!」
「必ず!」
泰源は木刀を肩に担ぎ、冗談めかして言った。
「おっと、手加減はなしだぞ、次に会う時はもっと強くなっていなければならん」
シンジとレンは笑い声を上げ、互いに拳を軽くぶつけ合う。
別れ際の空気は、修行の厳しさを知るからこその、温かく楽しい友情で満ちていた。
こうして二人は、喜多方へと戻る。
その心には、泰源との絆、共に戦った門下生たちとの友情、そして修行で得た力と自信が深く刻まれていた。
「と、まあ、こんな、感じだ」
そう言って、コーヒーをゆっくり、飲んだ。