第九話 静かなる仲間
バーの厨房に立って、五日が経った頃。店に、一人の物静かな男が入ってきた。
年の頃は三十代半ばだろうか。彼はカウンターの隅に座ると、ただ黙ってバーボンを呷る。
誰かが話しかけても、二言、三言、必要最低限の言葉を返すだけで、まるで気配を消すかのように、ひっそりと佇んでいた。
その日、痺れを切らしたママが、少し強めに声をかけた。
「ねえ、あんた。さっきから黙ってないで、少しは喋ったらどうなのよ」
すると男は、驚いたように肩をびくりと震わせ、グラスに残っていたバーボンを一気に飲み干すと、そそくさと代金を置いて帰ってしまった。
「なんなのよ、感じ悪い!」
とママは怒っていたが、その男は、あくる日も、その次の日も、同じ時間にやってきては、同じようにバーボンを飲んで話しかけると帰っていくのだった。
最初は誰も気にしていなかったが、さすがにこう毎日続くと、店のみんなが気になり始めてしまった。目立たないようにしているつもりが、かえって悪目立ちしている。
しかし、誰かが話しかけると、やはりすぐに帰ってしまう。
ある日、龍也は気になって、店を出た男の後を追いかけてみた。
「あの、すみません!どうして毎日来るのに、すぐに帰ってしまうんですか?」
声をかけると、男はまたしてもビクリと肩を震わせ、今度は全力で路地裏へと逃げ出してしまった。
あっという間にその姿は見えなくなる。
「なんだ、あいつは……」
訳が分からず、首を捻るしかなかった。店に戻り、みんなで話し合った結果、
「もう放っておこう」
という結論に至った。
それからも、男は三日連続でやってきた。しかし、誰も彼に話しかけなくなった。するとどうだろう。男は、初めて閉店時間まで店にいるようになったのだ。
相変わらず口数は少なかったが、店の喧騒を、どこか心地よさそうに聞いているようにも見えた。
それからさらに二日後。龍也は昼間の買い出しの途中、街であの男の姿を見かけた。
思わず、後をつけてみることにした。
男は繁華街を抜け、町外れの、古びた民家が立ち並ぶエリアへと入っていく。
そして、ある角を曲がったところで、ふっと姿を見失ってしまった。
しばらく探してみたが、どこにもいない。
諦めて帰ろうとした、その時だった。
見失ったあたりの民家、その庭先から、あの男がまるで猫のように、塀を飛び越えて現れたのだ。
「変だな?家から出るなら、普通は玄関からだろうに」
そう思ったのも束の間、男は辺りを警戒しながら、今度はまた別の家の裏手へと、音もなく侵入していった。
その瞬間、頭の中で、全てのピースがはまった。
(あいつ……泥棒だ!)
その夜、男はいつものように、バーに飲みにやってきた。
龍也はマッチョマンに目配せをし、店の入口を固めてもらう。
そして、静かに男の隣に座ると、そっと耳元で囁いた。
「こんばんは、泥棒さん」
男の身体が、氷のように固まった。驚きのあまり目を見開き、すぐにでも逃げ出そうとする。
その肩をそっと押さえた。
「逃げるなよ。話がしたいだけだ。捕まえたりはしない」
観念したのか、男は力なく椅子に座り直した。
男の素性を静かに聞き出した。
男は三十代の独身。十年前に夢を見て、田舎からこの新宿へやってきたが挫折。
すごすごと実家に戻り、代々続くという『泥棒稼業』の跡を継いだ。
しかし、田舎ではすぐに足がつき、再びこの大都会へ戻ってきたのが、二週間前のことだったという。
話を聞いていたママが、興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「へえ、泥棒!素敵じゃないの!ねえ、どんな手口なの?今までで一番すごかった仕事は?最近の家のセキュリティ対策って、どうなってるのよ?」
根掘り葉掘り聞かれ、男はタジタジになっている。
「そういえば、なんで話しかけられると、すぐに逃げてたのよ?」
ママが核心を突いた質問をすると、男は顔を真っ赤にして、俯きながら答えた。
「……方言で、出身地がバレるのが、怖がったんだ」
その言葉は、隠しようもない、強い訛りを帯びていた。
「なんだべ、秋田弁だべな」
誰かがそう呟くと、店はどっと笑いに包まれた。男は、恥ずかしそうに顔を伏せるばかりだった。
秋田から来たその男は、「じんた」と名乗った。本名なのか偽名なのか、誰も気にしなかった。
彼がこのバーに通っていた理由は、単純明快だった。田舎から出てきて、ただ人恋しかったのだ。
一人でいるのが寂しく、誰かがいるこの空間に身を置いているだけで、その寂しさが紛れるらしかった。
その健気な理由を知ったママは、お節介にもほどがあるという勢いで、じんたの肩をバンと叩いた。
「なによ、寂しいならそうと言いなさいよ!ちょうど、たつやんも仲間を探してるんだから、あんたたち、とりあえず友達から始めてみたらどうなのよ!」
「いや、ママ、そんな急に……」
謙遜して断ろうとしたが、当のじんたの方が、その提案に目を輝かせていた。
「ほ、本当だか!」
その目は、捨てられた子犬が飼い主を見つけた時のように、潤んでいる。もはや断れる雰囲気ではなかった。
こうして、中年料理人の龍也と、秋田訛りの泥棒じんたという、奇妙なコンビの交流が始まった。
バーの仕事が終わると、二人はカウンターで酒を酌み交わす時間が増えた。
お互いのことを、少しずつ知り始めていく。
龍也は、自分がアバラを折り、内臓に疾患を抱えていること、そして生活のためにこのバーで働き始めたことを話した。じんたは、泥棒稼業の苦労や、都会での孤独を訥々と語った。
「俺も、最初はそうだったんだ」
龍也は、熱燗をちびりとやりながら、ぽつりと漏らした。
「生活費さえ稼げれば、討伐なんてほどほどで、この街で安定して暮らせれば、それでいい。そう考えていたはずなんだ。……それなのに」
自分の心の中に芽生えた、奇妙な感情に気づいていた。
「やってるうちに、なんだか……いつの間にか、その先にいるっていう『魔王』を、倒す気になっちまってる自分がいるんだ。おかしいだろ?ただのしがないおっさんが。どこで勘違いしちまったのか、自分でも思い出せないんだがな」
自嘲気味にそう笑った龍也の言葉に、しかし、じんたは全く違う反応を見せた。
彼の目が、少年のような好奇心と憧れで、キラキラと輝き始めたのだ。
「魔王……!やっぱり、いたんだな、魔王!なあ、タツさん!おらも、おらも一緒に、退治しに行きてえ!」
「いや、だから、それは俺の勘違いで……。俺は安定した生活が……」
龍也が慌てて訂正しようとするが、もはやじんたの耳には届いていなかった。
彼の頭の中では、すでに龍也と共に魔王へ挑む、壮大な冒険の物語が始まっている。
「おら、泥棒の技で、どんな城にも忍び込んでみせるど!タツさんは、正面から敵をなぎ倒す!最高のコンビだべ!」
人の話を全く聞かず、勝手に夢を見始めているじんた。
その瞳は、初めてこの新宿に来た十年前と同じように、希望に満ち溢れていた。
そんな彼を呆れながらも、どこか羨ましく思うのだった。
そして、自分自身も、その「勘違い」から、もう後戻りはできないのかもしれないと、予感していた。