染みついた記憶と、笑う兄の刃
陽の光がやさしく差し込むある朝。
ヒジェは無言で茶を啜っていた。
澄んだ茶碗から、ほのかな湯気が立ちのぼる。
部屋の中には、茶碗を置く音以外に、何も響いていなかった。
気怠い午後だった。
その頃、駆け込んできた下男が戸口でひざまずき、荒い息を整えた。
「旦那様、アガシが……頭を打たれたとのことで……」
ヒジェの指先が止まった。
茶碗を静かに置き、短く息を吸う。
「どうして怪我を?」
「詳しい事情はまだですが、意識は戻られたようです」
ヒジェは一瞬、窓の外を見やった。
だが、下男は口ごもるように続けた。
「ただ……皆の話では、アガシが以前よりもずっと……愛らしくなったとか」
ヒジェの眉間が、ゆっくりと寄った。
「……それは、どういう意味だ?」
低くつぶやく声。
彼はすぐにかぶりを振り、ゆっくりと席を立った。
「支度を。今日は宮に用がある。ついでに、オクジョンの顔を見に行こう」
ヒジェが去った部屋には、湯気をまとった茶碗だけが、静かに残っていた。
——
ヒジェが動いたという話は、すぐに宮中を駆け巡った。
「ヒジェ様が!? 本当に!?」
「一度だけでいい、あのお顔を拝んでみたいものだわ……」
「微笑一つで、宮女が三人同時に倒れたって話よ」
——
チャン・ヒジェ。
チャン・オクジョンの兄。
端正で礼儀正しく、それでいてどこか気の抜けた遊び人のような男。
誰が見てもチャン・オクジョンの兄と納得するほどの、
人を惹きつける容貌と、計算された余裕を持つ者だった。
馬を駆って宮門に到着した彼は、
絹の道袍を軽くはたいて、馬を下りた。
無数の視線が一斉に彼に注がれたが、
ヒジェはそれを意にも介さない。
いつものように自然に手綱を渡し、ゆったりと歩き出す。
風に揺れる道袍の裾さえも、計算されたように滑らかだった。
——
オクジョンの寝所の前で、ヒジェは足を止めた。
通りかかった宮女が慌てて駆け込み、
しばらくして——
花の香がほのかに漂う廊の向こうから、
オクジョンが現れた。
ヒジェは一歩、前へ出た。
笑顔を浮かべていたが、その目はほんのわずかに揺れていた。
妙だった。
外見は以前と変わらない。
だが、どこかが確かに違っていた。
昔のオクジョンは、真っ直ぐで整っていた。
凛とした品格、乱れのない姿勢。
けれど今は——
柔らかく崩れたような、かすかな違和感。
ヒジェは歩み寄りながら、微笑んだ。
「これはこれは……昔ながらの堅物なオクジョンじゃないか」
——そうだった。
この人が、兄だった。
笑みの奥から滲み出す記憶の気配に、
私は思わず顔をしかめた。
……なにそれ、冗談でしょ。
兄貴、何でそんなに顔が良いの。
遺伝子、バグじゃない?
ヒジェは私の隣に腰を下ろし、さらりと言った。
「前は張りつめすぎてたよ。今のほうが、人間らしい」
私は口ごもりながら、なんとか言葉を絞り出した。
「オラボニ……私は今、体調もよくなくて……
記憶も、まだはっきりしていなくて……」
ヒジェはくすりと笑った。
そして、まるで何事もないように続けた。
「だからこそ、いいんだ。
今の君は、宮中で一番輝いてる」
そう言いながら、そっと私の髪に触れる。
その手は優しかったが、
言葉には冷ややかさがあった。
「この調子で行こう。
殿下も、かなり夢中のようだし——今こそしっかり手綱を取らなきゃね」
その一線を越えるような言葉に、
私は思わず声を荒げた。
「何を仰るんですか! 私は——」
……もう、毒をください……
なぜ、兄までそんな目で見てくるの。
ヒジェは私をからかうように笑った。
「そう、それでいい。
困惑した瞳、分からないふり——
そのまま、そっと微笑んでみな。
殿下が、全部してくれるさ」
見抜かれていた。
無垢な顔の裏に、
鋭い刃を持つ者だとわかっていたけど。
私は全部、演じていると思っていたのに——
この兄だけは、まっすぐに見透かしていた。
やっぱり、兄妹なんだ。
積み重ねた年月の感覚は、そう簡単にごまかせない。
ヒジェは最後に、窓の外へ目を向けた。
「それに——
お前の行く手に邪魔があるなら、俺が片付けてやる」
何それ。
この遊び人が……。
私は心の中で毒づきながらも、
呼吸を整え、気持ちを沈めた。
その時だった。
ヒジェが静かに、けれどはっきりと私を見つめて言った。
「なあ、オクジョン。
今のほうが、
ずっと綺麗だ」
……この人、
味方かと思ったら、静かに刺してくる。
遊び人みたいな顔をした、
静かなヴィランみたいな、私の兄。
私は呆れて、思わず笑ってしまった。
風が、障子をそっと鳴らした。
ヒジェの穏やかな笑みが、
その色あせた風の中に、静かに溶けていった。