覚醒、そして新たな道
漆黒の闇の中。
光さえも届かぬ深淵は、
呼吸すらも、静かに、深く沈ませていた。
体が、どこまでも下へ、下へ──
終わりなく沈んでいくような、奇妙な感覚に襲われる。
水でもなく、大地でもない、
重さのない、まったく見知らぬ空間。
周囲は、まるで霧のようにぼんやりと霞んでおり、
どこからともなく、ごく微かな風が、頬の端をそっと撫で、くすぐる。
ほのかに香る花の匂い、そして、遥か遠くの沈黙。
形も、色も、すべてが曖昧に溶け合い、
まるで忘れ去られた記憶の奥底を、たった一人で歩いているような、不思議な心持ちだった。
一歩、
足元を確かめるように、用心深く、足を踏み出した。
地面を踏みしめる感触はなかったけれど、確かに大地の上を歩くように、
そうして、ゆっくりと、ゆっくりと、前へ進む。
どれほど歩き続けたのだろうか、
その暗闇に、次第に目が慣れ始めた頃、
遥か遠方に、ぼやけた人影が、かすかな霧のように、ふわと広がってきた。
近づくにつれて、その影の周りで、風に衣の裾が、はらりと揺らめくのが見える。
何かに導かれるように、ゆっくりと、その影に吸い寄せられていく。
一歩、また一歩と…。
人影は、次第に輪郭を帯び、真っ白に輝きを増していく。
やがて、白い閃光が、まるで爆発でもしたかのように弾け飛び、
無数の光の粒となって、雪のように、はらはらと舞い散った。
そして、その光が消え去った場所には
そこに、まぎれもなく、過去の私が立っていた。
ごくり、と。
息をのんだ。
喉元が、ゆっくりと震えながら、深い感情と共に沈み込んでいく。
‘そなたが、この生を終わらせなければ、私は、もとの世界へは戻れないのだ。’
幽かに、しかしはっきりと聞こえたその声。
霧のようにふわりと散り、
しかし、私の胸の奥深く、どこか核心に、静かに、そして深く突き刺さった。
頭の中は、まるで真っ白になったかのように、ぼんやりとしていた。
「……私が…死ななければ、ならないと…?」
声とは呼べぬ、かすかな息遣いのように、
震える唇の隙間から、その言葉が、か細く漏れ出た。
そして
その瞬間──
目の前が、眩いばかりの光と共に、パッと、真っ白に弾け飛んだ。
すべてが粉々に砕け散るかのような、激しい閃光とともに。
───
「ママ様!!ママ様!!どうか、お気を確かに!!」
耳を劈くような、悲鳴にも似た声。
まるで世界がひっくり返ったかのように、体が激しく揺さぶられる。
「あ…痛い…金尚宮…もう少し、優しくして…。」
重い瞼をこじ開けると、金尚宮が、血相を変えて、必死な顔で私を揺さぶっていた。
金尚宮は、今にも大粒の涙をこぼしそうな顔で、叫ぶように問いかける。
「ママ様!本当に、ご無事なのでございますか!?」
かろうじて、乱れた呼吸を整えながら、私はかすれた声で答えた。
「…ええ、どうやら、まだ生きているようだよ。」
指先に残っているのは、辛くも死の淵から生還した、そんな感覚。
ソ尚宮が、嗚咽を漏らしながら、切羽詰まった声で告げた。
「ママ様!殿下が…殿下が、ママ様をお守りくださったのでございます、ママ様!」
……殿下…?
まさか…
ぼんやりとした顔で、ゆっくりと周囲を見回した。
足元の床は、しっとりと柔らかな絹。
障子の向こうからは、穏やかで優しい陽光が差し込んでいる。
ここは、宮殿ではなかった。
途切れ途切れの記憶を辿ってみる。
大妃ママ様の命を受けて宮殿を出た途中…見知らぬ道で…突然、男たちが飛び出してきて…。
あっ!私…誘拐されたのね!!
布団を勢いよく蹴飛ばし、がばっと身を起こした。
金尚宮の肩を掴み、典内の腕を捕まえ、そしてソ尚宮の顔まで、心配そうに覗き込んだ。
「みんな…怪我はない?ねぇ、本当に大丈夫なの?」
指先が、自分の意思とは関係なくガタガタと震える。
だって、少し前まで…
完全に死んだかのような、絶望的な状況だったのだから…。
「ここは……どこなの?」
私が、焦りに満ちた声で尋ねると、金尚宮は、何かを思い出したように目を輝かせ、堰を切ったように言葉を紡ぎ出した。
「詳しいことは、わたくしどもには分かりかねますが、ママ様が誘拐された後、
わたくしどもも、そのままこちらへ移されました。聞くところによりますと、殿下の私邸であるようですが、
詳しい内幕は、わたくしどもも、まだ何も聞いておりませぬ…」
典内も、こくりと頷きながら、付け加える。
「大妃ママ様も、朝廷も…皆様、ママ様が、いずこかへ消えられたとばかり思っておられますゆえ。」
私は、ただ、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
……ちょっと待って、つまり──
これは、一体、何の話なのだ…
まるで、映画のような、まさかの急展開ではないか?
混乱でぐちゃぐちゃになる頭の中にも、
夢の中で聞こえた、あの言葉が、なぜか鮮明に、繰り返し響いていた。
‘死ななければ、もとの世界へは戻れない。’
胸の奥で、静かに、しかし確かに、熱く脈打つ心臓の音。
窓から差し込む陽光は、眩しいほどに澄み渡っていたけれど、
このあまりにも非現実的な状況を、すぐには受け入れられずにいた。
つまり…結局…。
私が、殿下の私邸にいるということは…。
胸の奥に、じんわりと温かいものが込み上げてきた。
何か、はっきりと分かるようでいて、掴みきれない、不思議な感覚。
そうして、
私の心は、窓から優しく差し込む陽光のように、
静かな、そして揺るぎない決意に、ゆっくりと染まり始めていた。
今、この場所。
ここが…。
そうだ、
生きよう。
生き抜こう。
あの人のために、
そして、もとの世界へ帰るために、
あの人と…
この愛を、何よりも大切に、守り抜くためにも。
第1幕の終わりに差し掛かったこともあり、お付き合いいただいている読者の皆様のためにも、少しずつペースを調整していきたいと思っております。本日もご一緒いただき、心より感謝申し上げます。いつも幸せな日々でありますように!