月光と運命の狭間で
春の終わり、
応香閣の障子の隙間から差し込んだ月明かりが、静かに縁側を伝って流れていた。
遠くでは花の香りが風に乗って、細く、静かに広がっていった。
私は、ぼんやりと縁側の端に座っていた。
冷めた茶碗を両手で包みながら、
ひとつ、はかない溜息を長く吐いた。
……今ごろなら。
コンビニでカップラーメンを買って、冷房の効いた部屋でドラマを見てたんだろうな。
お母さんの作る辛いキムチチゲの匂い。
友達とのカカオ通知が止まらなかった、あの普通の夜たち。
夜更かししてテレビの前に座ってた、あの馴染みの時間。
その全部が、
もう、手の届かない遠い場所にあった。
私は顎を膝にのせて、
月光に濡れる庭を静かに見つめた。
どうして、こんなことになったのだろう。
あの人を好きになってしまったから?
それとも、張玉貞の運命までも背負ってしまったから?
いや、もともとの歴史でも、ふたりは愛し合ってたって——
はあ。
ため息が、息のように長くこぼれ落ちた。
──その時だった。
ガラガラガッ!!
まさに「ガラガラッ!」という音とともに、扉が勢いよく開いた。
静寂を引き裂くように、暴風のように駆け込んできたのは、全羅内人。
「ママ!ママーー!!」
私は反射的に目をぎゅっと閉じた。
「……また、今度は何事じゃ。」
全羅内人は汗でぐっしょり、顔は蒼白。
そして、叫んだ。
「殿下が!!大妃様の前で!!ママを中宮にすると宣言なさいました!!」
……あ。
これは、本当に大ごとだ。
「本当なんですってば!!今、宮中が全部ひっくり返ってます!!朝廷も、大妃様も、大混乱です!!」
無言で首を垂れた。
そばにいた金尚宮も、黙って同じく首を垂れた。
そして、次の瞬間——
ドスン。
並んで縁側にへたり込み、
額を床につけて崩れ落ちた。
出た、
歴史崩壊フラグ……
閔氏が中宮にならなければならないはずの、順理。
このタイミングで、私が中宮だなんて……
全羅内人は隣でわたわたと飛び跳ねていた。
「ママ!息して!呼吸を!!」
「……息はしておる……」
金尚宮、明らかに息してない目だったけど?
私は力なく天井を見上げて、呟いた。
障子越しに吹き込む風に、
草の苦い香りが混じっていた。
その匂いに包まれて、
胸の奥も静かに流されていった。
これ、本当に帰れなくなるんじゃない?
毒薬ルートどころか、
このままじゃ朝鮮版・宮廷バトルの最前線に放り込まれるかも。
頭の中で、歴史の教科書が破れる音が聞こえた気がした。
そして——
すべての不安を押しのけて、
ふいに込み上げてきた、たったひとつの感情。
……殿下。
なんだか、胸がドンと沈んだ。
もし、朝廷が反発したら、
大妃様が激怒したら、
もし、彼に何か起きたら——
私は頭を抱えながら、縁側をポンポンと叩いた。
「……ああ、ほんと……オクチョンよ、おまえ、自分の心配をしなさいって……」
全羅内人はおずおずと尋ねてきた。
「ママ……これから、どうなさいますか……?」
私は力なく、どさりと座り込んだ。
空っぽの空を仰ぎ見た。
月光が、障子に掛かって流れていた。
「……わからぬ。本当に、何もわからぬ……」
縁側に体を預け、息を整えながら、
静かに、かすかに呟いた。
順理に従うべきか。それとも……あの人についていくべきか。
月の光は、冷たいままだった。
けれど、胸のどこかには、
どうしようもなく熱いぬくもりが、少しずつ広がっていた。