逆らう愛、揺らぐ王座
大妃殿は、息さえも飲み込めないほどの静寂に包まれていた。
白檀の香がほのかに漂い、
瓦を撫でる風だけが、
ときおり障子をわずかに揺らしていた。
肅宗は、端正に座していた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、
指先にまで緊張と覚悟を秘めて。
王として、
だが今日だけは、
一人の女のために、
世界の秩序さえも覆そうとする男として。
「いかなる御用にて、この母を急ぎ呼ばれましたか、主上。」
大妃が先に口を開いた。
柔らかいが、その奥には隠しきれない冷ややかな警戒が滲んでいた。
肅宗は静かに顔を上げた。
その眼差しは澄み、深かった。
すでにすべての決意が、
そこに確かに宿っていた。
「張尚宮を、中宮に迎えたいと存じます。」
淡々と落とされた一言。
部屋の空気が、鋭く切り裂かれた。
白檀の香りすら息を潜め、
絹糸のように細い緊張が部屋中を覆った。
大妃はゆっくりと扇子を閉じた。
細い指先に力が入り、
その震えがかすかに現れた。
「主上。」
肅宗は頷いた。
毅然として、静かに。
「すでに、心はとうに決まっております。」
大妃の目が細められた。
表情は穏やかに見えたが、
その奥には抑えきれない感情が揺れていた。
「主上。」
再び、静かで重みある声音が続いた。
「中宮の座は、私情で満たせるものではございません。
王室を築き、国を支える根幹——
それが中宮の務めでございます。」
肅宗は、静かに息を飲んだ。
「承知しております。」
低く、揺るがぬ声。
「されど、わたくしは中宮を、民に示す名のみにて選びはしませぬ。」
大妃は、そっと指先を握りしめた。
「閔氏の家門、西人の重臣たち、
そしてこの母すら……
そなたは見捨てるというのですか。」
部屋の中に、厳しい声が響いた。
大妃は額に手を当て、しばし瞑目した後、
再び肅宗を真っすぐ見つめた。
「主上。」
声が低く沈んだ。
「国が揺らぎます。
すべての大臣が立ち上がるでしょう。
その混乱を、どう収めるおつもりですか。」
肅宗は一度、目を閉じ、再び開いた。
そして、明瞭に言葉を紡いだ。
「朕は、そのすべてを受け入れる所存です。
張尚宮を守るためならば、
この座すら惜しみませぬ。」
大妃は、静かに扇子を机の上に置いた。
手の甲に、青白く浮かぶ血管。
「主上……!」
押し殺していた声が、堰を切ったように響いた。
「なぜ……
この母が、ここに至るまでに流した涙の数を知っていながら……
たった一人の女のために、
この母と朝鮮までも崩すおつもりなのですか。」
肅宗は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳で、大妃の奥底までも見据えるように。
「朝鮮を支えるものは、
朕の座ではなく、民の息でございます。
朕は張尚宮と共に、その息を抱きしめたいと存じます。」
その言葉に、大妃は息を呑んだ。
指先が微かに震えた。
部屋は、呼吸すら許さぬ静けさに包まれた。
肅宗は、ゆっくりと立ち上がった。
整然と礼を取った。
「たとえ母上が怒りをお持ちでも、——もう退くつもりはございません。」
深く頭を下げ、
静かに背を向けた。
扉へと向かう途中、
肅宗はわずかな気配を感じ取った。
扉の隙間に、淡い翡翠色の唐衣の裾。
俯いたまま、かすかに震える小さな肩。
閔昭儀だった。
肅宗は、彼女をそっと見下ろした。
その瞳に浮かぶ野心と、絶望。
しかし、彼は一切、気に留めなかった。
そのまま扉を開け、足を踏み出した。
朱に染まる空の下、
肅宗の歩みは、重く、揺るぎなかった。
彼が向かうその道は、
朝鮮の秩序を揺るがす嵐の始まり。
だがそれは同時に、
“愛”という名の、
たった一つを守るための、
最も熱く、純粋な反逆でもあった。