紅の決断
陽は、静かに沈みかけていた。
応香閣の軒先に差し込んだ夕陽が、
瓦の上を伝って、ゆっくりと流れ落ちていく。
朱に染まった光は、部屋の奥まで静かに滲み込み、
息を潜めたように、そこにとどまっていた。
私は窓辺に座っていた。
冷めた茶碗を両手で包み込むように持ちながら、
そっと、呼吸すら押し殺すように。
風が障子をかすめるたび、
絹のように柔らかな音が耳を撫でた。
冷たい空気。
空っぽの胸。
そして、言葉にならぬ不安な予感。
いつからか、胸の片隅が小さく縮こまっていた。
「ママ。」
戸口に控えていた金尚宮が、慎ましく声をかけた。
私は、ゆっくりと顔を向けた。
「婚姻禁止令が下されました。」
小さな声だった。
だが、その一言で、部屋の空気が切り裂かれた。
「……婚姻禁止令。」
呆然と、繰り返す。
金尚宮は深く頭を垂れながら続けた。
「本日、大妃様が揀擇をお命じになられました。
まもなく処女名簿が提出され、中宮が決まるとのことです。」
手にしていた茶碗を、机の上にそっと置いた。
木の机に当たって、カン、と響いた。
その音が、妙に鮮やかに耳に残った。
揀擇。
中宮揀擇。
瞬時に、思考が澄み渡った。
……そう。
歴史は、元の道を歩むのだ。
私は心の中で、そっと誓った。
無闇に出しゃばるのはやめよう。
口を閉ざし、呼吸さえも慎もう。
承恩尚宮として静かに残り、
予定通り、綺麗に毒薬エンドで幕を引けばいい。
私は思いを定め、冷めた茶碗をぎゅっと両手で包んだ。
そっと、目を閉じた。
そのときだった。
───
扉が開いた。
部屋を満たしていた夕陽が、
その隙間から静かに差し込んだ。
私は、なんの気なしに顔を上げた。
そして、
心臓が、ドンと沈んだ。
扉の間からゆっくりと歩み寄る人影。
夕陽を背に、
慎重で、確固たる足取りで近づいてくる人。
肅宗。
彼が……来た。
息を呑む間もなく、
私はその場で凍りついた。
彼は崩れる寸前のような気配をまといながらも、
一糸乱れぬ姿勢で私のもとへと歩いてきた。
抑えきれぬ呼吸の音が、微かに響いた。
その全身には、今にも崩れ落ちそうな緊張が漂っていた。
私は立ち上がろうとした。
だが、肅宗が先に私の前で立ち止まった。
目が合った。
その眼差し。
深く、
濃く、
どこか遥かな光を湛えた瞳。
私は息を呑んだ。
鼓動が激しく脈打ち、
指先が、自然と震えた。
肅宗は一瞬だけ息を整え、
そして、強く、静かな声で私を呼んだ。
「玉貞や。」
その名を呼ぶ声は、
まるで一つの時代を越えて届いた祈りのようだった。
「……はい、殿下……」
気圧され、唇が自然と動いた。
肅宗は、熱くも毅然とした瞳で私を見つめ、
そして言った。
「おまえに……嬪の座を授けよう。」
一瞬、
部屋の中のすべての気配が止まった。
私は、凍りついたまま彼を見つめていた。
頭の中が真っ白に染まり、思考が消えていく。
胸の奥は、締め付けられるように痛んだ。
肅宗は、一歩、近づいた。
そっと、
だが確かに。
その指先が、私の手に触れた。
小さな接触。
けれど、その中にすべての決意が込められていた。
私は震える呼吸を整え、彼を見上げた。
紅に染まった部屋の中で、
互いの息が、そっと交わる。
どこにも逃げ場のない、ひととき。
こうして、
私は彼の運命へと染まっていくのだった。