夜の王の独白
扉を出た。
喉元に、呼吸が詰まって降りてこなかった。
凝香閣の奥に、長く続く暗い廊下が伸びていた。
冷たい夜風が肌を撫でる。
さっきまで燃えるように熱かった身体から、
熱が少しずつ引いていく。
胸を締め付けていた息が、
顎先で止まった。
内官たちが静かに後ろをついてきたが、
手を上げて全員を下がらせた。
誰も傍に置きたくなかった。
ただひとり、
震える鼓動を抱えたまま、
空っぽの廊下を歩いた。
唇にも、指先にも、
まだ彼女が残っていた。
どれほど求めていたか。
どれほど近づいたのか。
その一歩が、崖の端だったと、
今さら気づいた。
息を吐いた。
胸の中に溜まった彼女を、吐き出すように。
頬を撫でた熱、
濡れた唇、
指先に残る震え。
部屋いっぱいに漂っていた彼女の香りと息遣い。
すべてが、まだ身体の内で燃えていた。
歩みを止めた。
胸が、押しつぶされそうだった。
「……玉貞」
吐息のように、けれど甘くこぼれたその名。
たった一言で、
自分の内側すべてが崩れ落ちていく。
彼女が腕の中で身を預けた瞬間、
吐息が絡んだ瞬間、
指先が肌をなぞった瞬間──
確信した。
もう、抜け出せないと。
彼女が、自分のすべてになってしまったと。
目を閉じた。
止めることも、逃げることもできなかった。
欲と愛が絡み合い、
互いを呑み込んでいた。
もし、あと少し許していたら、
彼女のすべてを奪っていた。
かろうじて耐えた。
最後の理性ひとすじで。
ふらつく足で歩き出す。
呼吸は荒れ、心臓が張り裂けそうだった。
寝殿に着くや否や、
壁に背を預けて崩れ落ちた。
手が震えていた。
息が喉まで迫っていた。
胸に残る彼女の体温、
腰に触れた細い手、
唇を伝った甘い息。
そのすべてが、自分を狂わせた。
額に手を当てた。
「……狂っているな」
笑いとも、溜息ともつかない吐息が漏れる。
肌の上に感じた彼女のぬくもり、
声を震わせて囁いた言葉。
『殿下が大好きです』
『愛したくなかったのに、どうしても会いたくなる』
その囁きが、
胸を切り裂くように突き刺さった。
彼女は、今まで出会った誰よりも──
致命的だった。
どんな酒よりも、どんな快楽よりも、
深く酔わせる。
玉貞。
その名ひとつで、
世界が揺れた。
けれど──
唇を強く噛みしめた。
彼女は、ただの女ではない。
朝鮮の中宮となるべき人。
唯一無二の、
真の中宮として迎えるために。
彼女を守るには、
今は退かなければならなかった。
喉が渇いていた。
心臓が狂ったように跳ねていた。
目を閉じて、呼吸を飲み込んだ。
幼いころから、世子としての道を歩んできた。
日々、経書を暗唱し、
節制と忍耐を胸に刻んで生きてきた。
ひとつの感情すら揺らいではならぬと。
そう教えられてきた。
そう生きてきた。
だが、そのすべての王道が、
まさか今宵、このために使われるとは思わなかった。
指先に残る震え、
絹越しに伝わった熱、
彼女の残り香。
心は、とっくに崩れていた。
それでも、彼女を守るために、
自分は、再び“王”でなければならなかった。
あの夜、
俺は全身で、耐えた。
いちばん熱く、
いちばん切なく、
そして、いちばん純粋に。
彼女を──愛していた。