静けさに溶ける鼓動
凝香閣の前にたどり着いたとき、
彼女の居所を守っていた金尚宮と女官たちは、驚いたように深く頭を下げた。
俺はそっと唇に指を当てた。
「し……」
静かに後ずさる彼女たちの足音だけが、微かに残った。
ゆっくりと扉を開け、中へ入る。
かすかに揺れる灯り、淡く漂う香の気配。
その小さな部屋の中に、彼女はいた。
俯いたまま、何かを一心に書きつけている。
小さな肩、真剣な横顔。
ただ眺めているだけで、自然と微笑みがこぼれそうだった。
静かに近づき、ふと目に入ったのは、彼女の筆先が残した文字。
「毒薬フラグ①……あまりにも致命的キス、恥死のフラグオープン」
……何だこれは。
その文字を見下ろす俺の気配に気づいたのか、
彼女がそろりと顔を上げた。
大きな瞳が俺を見つけ、丸く見開かれる。
「で……殿下?」
慌てたように両手で紙を隠す姿に、思わず笑みを堪えた。
「随分と熱心だったようだから、邪魔はすまいと思ってな」
穏やかに笑いながら、彼女の傍らに静かに座った。
絹の衣が擦れ、静けさを破る。
彼女は筆を強く握り、うつむいた。
「……たいしたことではありません」
俺は何気ないふりをして、そっと問いかけた。
「もしかして、私に毒を請う文でもしたためていたのか」
彼女は驚いたように、ぱっと顔を上げた。
その表情に、つい口元が緩む。
「ど……どうして、それを」
彼女の髪を、そっと指先で撫でた。
艶やかな髪が、するりと手を滑った。
「玉貞。お前の瞳が、すべてを語っていたよ」
静かに、優しくささやいた。
「こんなにも美しい者が、毒などと……
聞かされる私の方が、よほど息が詰まる」
彼女は顔を布団に埋めるように身を縮めた。
震える吐息が、そっと伝わる。
少しだけ、彼女の側に身体を寄せた。
耳元に俺の息がかかると、彼女の肩が小さく震えた。
「私が口づけをすれば……また逃げてしまうのか?」
そっと、軽く。
彼女の唇に口づけた。
ほんの一瞬。けれど、心が深く揺れた。
彼女が息をのんで、小さく囁いた。
「鼓動が……うるさいです、殿下」
俺は静かに笑った。
「お前の前で静かな心などあったとすれば、それこそ奇妙だ」
彼女は顔を赤らめ、窓の外へと視線を逸らした。
その姿が、あまりにも愛おしかった。
そっと言葉を重ねる。
「玉貞。お前が変わったこと、気づいている」
彼女はそっと息を呑んだ。
「笑顔も、ひとりごとも、毒という言葉の裏で視線を逸らす仕草も……」
深く息を吐いて、笑みを浮かべた。
「そんなお前が、愛おしくて仕方がない」
彼女はまばたきしながら俺を見つめた。
その澄んだ瞳に、隠しきれない震えが滲む。
俺は、そっと彼女の手を取った。
彼女も、静かに俺の手を握り返した。
指先に伝わるぬくもりに、胸が優しく震えた。
もう一度、彼女の唇を求めた。
今度は、少し長く。
触れ合う呼吸のように、唇を重ねた。
唇に落ちる温もりが、ゆっくりと胸に染みていく。
彼女は息を殺したまま、そっと目を閉じた。
唇を離さぬまま、耳元へ顔を寄せる。
柔らかな耳たぶに唇を触れさせると、彼女は細く震えた。
そして、小さな声が漏れた。
「……くすぐったいです、殿下」
堪えきれず、柔らかく笑った。
彼女の髪を指に絡め、優しく囁いた。
「私の心は、お前の前では静まれぬ」
彼女を、そっと抱き寄せた。
すべての喧騒が遠のいていく。
残ったのは、彼女と──俺だけだった。