締め付ける時間
月明かりが、静まり返った交泰殿の障子を斜めに撫でる。
一日の喧騒が全て眠りについた夜、静寂が深々と降り積もった。
頬をくすぐる風は、いよいよ冷たい気配を帯び始めている。
中宮殿の窓から外を眺めるたびに感じる、胸の奥を締め付けられるような息苦しさ。
何か、みぞおちの辺りを強く押さえつけられているような感覚。
もしかしたら、就善堂にいた頃の方が、ずっと幸せだったのかもしれない…
殿下は常に変わらず一途な姿で私を愛し、抱きしめてくださったけれど、
就善堂で感じた、あのくすぐったいような幸福感を、ここでは感じ取ることができなかった。
中宮殿という重みと、時が経つにつれ首を絞めてくる歴史の現実は、
同時に私を突き放しているように思えた。
もしかすると、この場所は私のものではないという気持ちが、私自身を引きずり降ろしているのかも。
未来を知っているということは… それは薬なのだろうか、それとも毒なのだろうか。
あまりにも深く思考に囚われていたせいだろうか。
不意に、背後から抱きしめられた殿下の馴染みの匂いが、鼻先をくすぐる。
「何をそんなに考え込んでいる」
彼の温もりが、私を優しく包み込んだ。
回された手の上に、自分の手を重ねて微笑む。
「本日は少々、お戻りが遅くなりましたわ、殿下」
意外だというように私を振り返らせ、丸くなった瞳でじっと見つめてくる殿下の姿に、
私はまた、思わず笑いがこぼれてしまった。
彼は少し不貞腐れたように私を見つめ、そっと私の頬に手を添える。
「待たせてしまったか?」
「私はいつだって殿下をお待ちしております」
抱き寄せられた手から、彼の体温が伝わってくる。
暖かく、そして愛おしいその温もり。私をこの世の全てから引き離し、夢中にさせた人。
彼の手のひらに顔をそっと擦りつけると、彼は満足そうな表情で私を見つめ返した。
そんな彼の顔を見るのが好きだった。
全てを手に入れたかのような満ち足りた表情が、彼の人生にとって私の存在がどれほど大きいかを改めて教えてくれたから。
いつも、過ぎるほどに私を愛してくださる彼の心が感じられた。
「道中、あの子に会った」
一瞬、心臓が「ドクン」と音を立てて沈んだ。
誰のことなのか、わざわざ確認しなくても分かってしまう。
瞬く間に強張った私の表情は、無理にでも笑みを繕おうとする私の心を、頑なに拒否した。
彼はまた言葉を続けた。
「私の立場がこのようなものだから、お前も不安に思うだろう。
だが中殿、いや、玉貞。私の生涯において、初めての女もお前、最後の一人もお前だけだ。
お前以外の女を抱く気も、そうするつもりも全く起きないほどに、私はお前に夢中なのだ。
少し… 愚かに見えるかもしれぬが、これからもずっと、私を信じてくれるか」
落ち着いた声が耳元をかすめた。
あまりにも真摯に迫ってくる彼の物言いや行動に、私の頭は思考を停止し、真っ白になってしまった。
胸の奥から込み上げてきた熱い何かが、ついに頬を伝って流れ落ちた。
私の心をあまりにも深く察してくださる彼が有難く、その心がとても温かかった。
私は無言で静かに進み出て、彼の胸に抱きついた。
強く抱きしめてくれるその懐がとても暖かくて、それがとても心地よくて、そして感謝でいっぱいになって、
これほどまでに真心を尽くしてくれるこの人が好きで狂いそうになるからこそ、
逆に不安でたまらなかった。
あなたがいない人生を、私は生きられるだろうか、と。
感情が堰を切ったように溢れ出し、私はすすり泣いた。
何か心の中で行き場を失い、渦巻いていた感情が、一気に爆発した瞬間だった。
「時間が止まってくれたらいいのに… ずっと長く、あなたの傍にいられるなら、
そうできるのなら、歴史なんて変わってしまっても、もう構わないわ」
頭が思考を拒否し、心が理性を拒否した。
思わず口をついて出てしまった言葉に、ハッと驚いた私は、慌てて彼の胸から身を離した。
今の言葉を聞いたのか、聞いていないのか、判然としない表情で私を見つめる彼を見て、私は急いで袂で涙を拭った。
「も…申し訳ございません、殿下。わたくしはただ… 殿下とご一緒するこの時間が、長く残ってほしいと願っただけで…」
「残ってほしい、だと…?」
彼は低く沈んだ眼差しで私を見つめた。
「その… 後世においても歴史に残り、忘れ去られずにいてほしいという意でございました。
殿下がこれほどまでにわたくしを愛してくださったことを、世の全ての人々が知ってくださるようにと…」
一瞬、彼が微かに息を詰めるのが分かった。
部屋を照らす月明かりが、彼の鋭い瞳をかすめた。
ああ… やってしまった…。




