香に溺れる人(かおりにおぼれるひと)
凝香閣。
その名はどこか冷たく、切なさを孕んでいた。
香りが留まる殿。
この世に長く留まれぬ何かを、連想させる響きだった。
その美しい空間の真ん中。
金糸の刺繍が施された絹の上に、そっと座っていた。
桃色の茶碗を手に、
障子越しに差し込む陽射しをぼんやりと見つめ、
指先を合わせる。
陽は暖かく柔らかかった。
でも、心の中は荒れていた。
……バカみたい。
毒を賜る運命のはずの私が、
今、朝鮮で一番の寵愛を受けている。
これも歴史の流れ通りなのか、
それとも、自分というバグのせいで狂った世界なのか。
承恩尚宮。
凝香閣の下賜。
宮中の視線と寵愛、すべてが私に注がれていた。
頭が回らなかった。
心がぐらぐらと揺れていた。
これ……本当に歴史通りに進んでる?
私は毒を飲みに来た人間で、
寵愛なんて……最後までいってすらないのに。
最後までいってない……のに。
あの夜が。
思い出してしまう。
あの目。
荒れた吐息。
獣のように覆いかぶさってきたあの口づけ。
冷たい指先が、そっと顎を包んだあの感触。
……はぁ。
私は勢いよく布団を被った。
「うああああああああ!」
凝香閣の一室で、絹の布団が情けなく揺れた。
「殿下、その口……ほんとズルい……っ
ていうか……あんなの……反則でしょ……!」
その時、外からそっと顔を覗かせたのは、
「ママ様……ご無事でしょうか……?」
恩英だった。
一緒に宮に入った、最も信頼できる女官。
私は布団から顔だけ出して、恩英を見た。
「……恩英、私……ちょっと……おかしくなったかも……」
彼女は黙って部屋に入り、私の前で静かに膝をついた。
「この数日、ママ様はよく独り言をおっしゃいます」
「……そんなこと言ってた?」
「昨夜は『その手、危険』と仰って、布団を抱えておられました」
「……!?」
「そして……『毒薬を……』と」
私はそのまま布団の中に埋もれた。
ああああああ! 本当に毒、誰かください……
恥ずかしすぎて、死にたい。
またしても布団をぐしゃぐしゃに蹴飛ばし、
顔が桃のように真っ赤になった。
「もう……帰れないかもしれない……」
私は立ち上がり、書簡を広げた。
《毒フラグ発動計画・その一》
──どうすれば、うまく嫌われるだろうか。
ペンを持つ手がぶるぶると震える。
頭はもう、完全にショートしていた。
──
その頃、殿の外。
恩英は心配そうな顔で金尚宮を訪ねていた。
「ママ様が……最近ずっと独り言を……毒とか、唇とか……」
金尚宮は静かに茶碗を置き、うなずいた。
「……そのままにしておきなさい」
「それでは、御医を呼んだ方が──」
「薬を使えば、かえって悪化するわ。
これは薬で治る病じゃない」
徐羅人がそっと口を開いた。
「もしかして……恋の病では……」
金尚宮は深くため息をつき、頷いた。
「恋という薬は……時に毒よりも苦いものさ」
三人は静かに視線を交わし合った。
梅の香が微かに漂う回廊の向こう、
誰よりも孤独な凝香閣の小さな部屋の中で、
私は──
愛という名の、苦い薬に静かに染まっていた。
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物語はここからさらに盛り上がっていきますので、どうか次話も楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。
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