名分の下、欲の影
対比は静かに茶碗を置いた。
澄んだ茶の香りが、音もなく室内に満ちていく。
障子の隙間から、風がかすめた。
指先すら揺るがないその姿は、これ以上なく整然として冷ややかだった。
向かいには、朝鮮の大司憲・閔維重が重く立っている。
その隣には、花のように楚々とした閔昭儀が、礼を尽くして座していた。
固く閉じた唇と、襟元から漏れる焦りの気配。
すべてが切迫していた。
「張氏が承恩尚宮に冊封されたと、承りました」
閔維重の声音は沈み、礼を重ねていた。
対比は湯飲みに唇を寄せたまま、応えなかった。
室内の空気が、一段と重くなる。
「このまま、見過ごされるおつもりでしょうか」
低く抑えた声。
その刹那、対比は盃を置き、静かに顔を上げた。
「たかが承恩尚宮ひとり。なにを慌てておるのだ」
淡々とした口調の奥、冷ややかな嘲笑が滲む。
閔維重は息を呑み、まっすぐ立ち直る。
「殿下の寵愛は一時のものに過ぎませぬ。
されど、朝鮮の名分は一度崩れれば、戻ることは叶いませぬ。
張玉貞は中人の血。帝の傍を穢すこと、断じて許されませぬ」
しばし、対比は彼を見つめた。
細く目尻が揺れたが、それは氷のような微笑だった。
「名分とは、この国を動かす装い。
だが所詮、人の欲を包む衣にすぎぬ」
閔維重の呼吸が、また深くなった。
「張玉貞が中宮殿に入れば、朝廷は再び血に濡れましょう」
それを聞いて、対比はただ静かに笑んだ。
氷雨のように冷たい笑み。
「記憶を失ったというが、
笑みひとつで宮を動かす手並み。
侮るには、あまりに危うい女よ」
閔維重は一歩、前へ出る。
「たとえ殿下が張氏を愛そうと、
朝鮮の礎までは崩せませぬ。
中宮擇立をお行いください。
張氏を退け、新たな国母をお立ていただきとう存じます」
対比は盃を回す。
澄んだ茶がゆっくりと渦を描いた。
「それで──」
ようやく唇を開いた。
「今日、連れてきた閔氏の娘が、その中宮というわけか」
閔維重は迷いなく頭を下げた。
「御存じのとおり、家門も確かにして、
徳行もまた申し分ありませぬ」
対比は静かに、その目を閔昭儀へ向けた。
彼女は微動だにせず座していた。
だが、その指先がわずかに震えている。
風が再び障子を撫で、灯火が細く揺らいだ。
「たとえ中宮になろうとも、
主上が素直に従うと思うか」
対比の声が、冷たく空間を裂いた。
閔維重はさらに深く頭を下げる。
「その道を開けるのは、ただ対比様のお決断のみ。
王室の安寧と朝鮮の正しき姿のため、
どうか御明察を賜りたく存じます」
対比の表情が、氷のように張りつめた。
その裏に、誰にも読めぬ苦悩の影がよぎっていた。
閔維重と閔昭儀が退出したあと、
室内は再び、深く沈んだ静寂に包まれる。
──
茶碗を空にした対比は、そっと目を閉じた。
澄んだ茶の香りが、淡く滲み広がる。
(張玉貞。
どこまで持ちこたえられるか──
まもなく分かるだろう)
細く笑みが唇に浮かぶ。
「主上が、おまえをどこまで庇いきれるのか……
私も、それが知りたくなってきたよ」
その微笑みは、一口の茶とともに、苦く飲み下された。
障子の外には、薄く墨を溶かしたような雲が流れ始めていた。
“朝鮮”という名の、大きな風が、
静かに、その向きを変えようとしていた。
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