プロローグ
本作は、朝鮮王朝時代をモチーフにした架空の宮廷恋愛物語です。
歴史に詳しくない方でも楽しめるように、物語の中で少しずつ世界観が広がっていきます。
雨の降る夜だった。
トン、トン。
路地の地面を叩く雨音が、無情に響き渡る。
レポートの教科書を胸に抱え、息を切らして走っていた。
濡れた靴が滑るように地面を擦り、胸が張り裂けそうに高鳴る。
(なんで、こんな急に雨が…)
雨宿りをしようと、建物の軒下で立ち止まる。
濡れた服を払い終えると、雷が光る空が見えた。
無心に降り注ぐ雨を見ていると、何もかも投げ出してしまいたいほど、ひどく疲れてしまった。
学校に通いながら夜はアルバイト、週末もアルバイト。
学費は奨学金でどうにかなっても、ソウルでの暮らしは一筋縄ではいかない。
乏しい家計の中で、一人娘を立派に育てようと、つらい仕事を厭わず頑張ってくれた母を思うと、雨の降る今日が、さらに悲しく感じられた。
母と約束したんだ。必ず安定した仕事に就いて、幸せにすると…
もう一度、水滴を払い、走り出した。
はぁはぁと息を切らし、角を曲がろうとしたその時、
ピカッ───
白い閃光が視界を裂いた。
キーッ、ドカン!
タイヤの摩擦音と衝突音が絡み合い、体が宙に舞い上がる。
目眩がするような浮遊感。
からっぽの闇の中へ、真っ逆さまに吸い込まれていく。
目を閉じたが、雨の降る音だけは、鮮明に耳を打った。
体が、地面の下へ沈んでいくようだった。
濃く深い闇が肌を伝って染み込み、徐々に息の根を絞めてくる。
意識が、少しずつ沈み始めた。
その時だった。
─── 「どのような生を歩めば、戻ることができるのか。」
耳元を打った、奇妙で不気味な声。
冷たく濡れるような一言。
…戻るって? どこへ?
考える間もなかった。
世界が、崩れ落ちるように揺れる。
ぐるぐる、目の前が渦を巻いた。
胸を押し潰す恐怖。
息が詰まり、悲鳴が飛び出る。
「きゃああああ──!」
目を開けた。
息が荒く、激しく漏れる。
「はぁ、はぁ…」
不気味な声が、やけに現実感をもって感じられた。
悪夢…なのか…。
手で額を押さえる。
ふと、周りの気配が、見慣れないことに気づいた。
ゆっくりと辺りを見回す。
そして悟った。
ここは──
どこ?
鼻先を掠める、苦い漢方薬の匂い。
ひんやりと漂う空気。
ざらついた木目の天井。
韓紙の窓越しに染み入る雨音。
何もかもが、私が知っていた世界と違った。
指先をそっと床に触れてみる。
冷たく、ざらざらしていた。
「…ここ…どこなの…」
声が小さく震えた。
答えは返ってこない。
ここは、私がいた世界とは違うことを、悟り始めていた。
そして、
おぼろげに、
あの不気味な声が、再び耳元を掠めた。
─── 「定められた道から外れれば、戻ることはできない。」
胸が冷たくなった。
(…なにこれ、私…生きてるの?)
震える手を、そっと握りしめた。
雨音は、まだ窓を叩き続けていた。
そして、
全く予想もしなかった場所で、運命の歯車が
ゆっくりと、音もなく動き始めた。
第一章
雨は耳の中を静かに叩いた。
穏やかでもなく、激しくもなく。
まるで、どこか遠い昔から響いていた音のように。
耳を刺すように一定に広がる、奇妙なリズム。
がらんとした無彩色の感覚の狭間で、
ぼんやりと天井が目に映った。
荒々しく露出した木目、黄色みがかった障子、
木の柵の隙間から染み込む、じめっとした空気。
息を吸い込んだ。
カビの混じった埃の匂いが、鼻先を刺す。
額に手をかざす。
心臓は狂ったように鼓動を打ち、
耳の奥では、風のような耳鳴りが鳴り響いた。
うなじを掠めた空気は、ひんやりと冷たい。
指先は妙に軽く、奇妙なほど感覚が繊細だった。
だが、最も見慣れなかったのは──
その触感。
(…なに、これ。
…今、私生きてるの?)
あまりにも現実的な感覚に戸惑う。
指先に触れた、きめ細かな織物。
目の詰まった絹だった。
そして、見知らぬ手。
これは、私の手ではなかった。
見慣れない、長くて白い手の甲。
まるで時代劇に出てくる女性の手。
身震いするほど見知らぬ感覚が、現実を否定させた。
「…何よ、これ。」
無意識に漏れた独り言。
「チャン女官、気がついたの?」
見知らぬ女の、心配そうな声が聞こえた。
顔を上げると、見慣れない格好の女性が額に手を置こうとして、ぴたりと止まった。
頭の中が真っ白になった。
(チャン女官?)
「…今、なんて言いました?」
声が震えた。
「だから、誰が軒先にまで上れと言ったのよ。本当に大変なことになるところだったじゃないか。」
(軒先?)
その言葉と同時に、
昨夜の光景が、破片のように蘇った。
レポートの教科書を胸に抱え、
雨が降りしきる夜。
路地、街灯、急ブレーキ。
そして──
体が宙に浮き、
闇の中へ吸い込まれるように沈んでいった瞬間。
耳元を裂いた、あの声。
『定められた道から外れれば、戻ることはできない。』
ぞくり、と鳥肌が立った。
(…ここ、どこなの?
今、何がどうなってるの?)
体を捻り、かろうじて窓の外を見た。
灰青色の瓦。
塀の向こうに続く軒先。
電線も、街灯もなかった。
背景は考証に忠実だったが、
現実感はどこにもなかった。
民俗村でもないし、
私が知っている世界でないことは、確かだった。
「…ここ…どこ…」
言葉が終わる前に、
扉ががばっと開いた。
誰かが息を切らして飛び込んでくる。
「オクチョン!」
深く、低い声。
見慣れない呼び名。
男は道袍の裾を風のように靡かせ、
私の前にひざまずいた。
笠を被った顔。
びっしょり濡れた肩。
荒く息を吐くその眼差し。
「オクチョン、気がついたのか。」
彼が、私をそう呼んだ。
頭がぼうっとする。
周りの女たちが一斉に頭を下げた。
「殿下…!」
心臓がどきりと跳ねる。
(殿下?
王…?)
おそるおそる、唇を開いた。
「あ…あの…ど…なた…」
どうしても避けられなかった。
彼の手が私の手を包み込み、
現実と幻想が交差する境界を、打ち破った。
彼の体温が、
いつの間にか指先に伝わった。
訳の分からない感情が押し寄せる。
見慣れているような、
しかし全く知らない感覚。
(この人…誰なの?)
「オクチョン…よかった。本当に…」
視線を逸らした。
墨の香がかすかに染み渡る空間。
何もかもが真実のように生々しく、
同時にあまりにも非現実的だった。
(オクチョン?
…
チャン・オクチョン?)
(私が知ってる、あのチャン・オクチョン?)
頭をドスンと、鈍器で殴られたような感覚。
これは…現実じゃない。
そんなはずない。
だが、全てが現実感に溢れていた。
肌はひんやりと冷たく、頭の中ははっきりと冴えていた。
そして、私は悟った。
今、私は、
朝鮮にいた。
それも──
毒を賜って死ぬ、あの張玉貞として。
お読みいただきありがとうございます
朝鮮時代に転生したラブストーリー、まだまだ未熟ですが…
優しく見守ってくださると嬉しいです☺
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