第二章 第十話『木刀と対話せし者』
タケ九歳。
木刀とは――ただの木片ではない。
そう口にしたとき、老人たちは笑った。
村の子どもたちも、鍛冶屋の親方も、口々に「子どもが粋がるな」と眉をひそめた。
しかし、それでもタケは言葉を翻さなかった。
「我が握るは、たかが木。されど、命を預ける“我が刀”よ」
森の奥に入り、響霊石を帯びたまま、彼は一心に“木”と対話する。
触れ、削り、叩き、割り、また組む。その所作はまるで木と語らい、相槌を打ち、やがて“形”へと収束していく行。
――あの晩、謎の老人に投げ渡された風鈴。
それは、風を読む者への手向けであり、試練の証であった。
「この木は、風を孕んでおるな」
少年の手に握られたのは、ただの倒木ではない。幾星霜を超えて屹立していた、風を知る老木。
その断面は年輪が詰まり、刃を弾くほどの密度を秘めていた。
「……おぬし、名はあるか?」
無論、返事はない。だがタケは、名を刻む覚悟でその木に刃を入れる。
削り出されたのは、かつてない異様な形状――湾曲し、しなるその木刀は、まるで風を裂く“羽”のようだった。
「我が新しき相棒……“風輪”と名付けよう」
そして夜が明ける。
タケのもとに現れたのは、例の“風見爺”ではなく、村にある剣塾の高弟。
「聞いたぞ。おまえが森で“霊木”を奪ったと」
「奪った覚えはない。我は、所望した」
「……小童が、威勢のいい」
高弟の名は猿渡刃蔵。十七歳にして流派を三つ極めたという英傑。彼が持つ真剣は、かの名鍛冶“火ノ岳の綱光”の打ったものとされる。
「その木刀、試させてもらう。所詮は木。鋼に敵うと思うなかれ」
対峙した瞬間、森の空気が張り詰める。
タケは「風輪」を腰に戻し、静かに目を伏せた。
「動かぬが、極意なり」
刃蔵が踏み込んだ瞬間、風が鳴いた。
――
剣塾の高弟・猿渡刃蔵が踏み込んだその瞬間、木々の葉がざわめき、風が森を切り裂いた。
真剣の刃が突き出される。
十七の男が振るう速さは、老練な職人の如く無駄がなかった。
斜めの袈裟斬りから、返し、上段、連続三手――これが「三段斬り」、刃蔵の得意技。
しかし、タケは一歩も動かない。
「……なに?」
刃蔵の眉間に皺が寄る。
狙いは確か、剣速は鋭利。
だが、その“刃”はすべてタケの間合いに触れることなく、風の壁に阻まれたかのように空を裂いて終わっていた。
「足を……わずかに動かしている、だと?」
刃蔵の目が捉えた。
タケはほんの数寸、右足の角度を変えた。左足はわずかに地を押し、腰を斜めに構え直した。
それだけ――だがその結果、すべての斬撃が逸れた。
「我が構えは“静”、されど、動きは常に“予兆”の先をゆく」
風輪が腰から抜かれた瞬間、刃蔵の身体が硬直した。
――剣気が、風を裂いている?
木刀が空をなぞる。
木の枝が斬れ、葉が宙に舞い、鳥たちが一斉に飛び立つ。
空間そのものが撫で斬りにされたかのような衝撃。
「……嘘だ。木刀で、なぜそこまで――」
「風よ。刃に非ずとも、断ち切れるものは多い」
次の一手で勝負は決まった。風輪の刃先が刃蔵の真剣を弾き、鍔迫り合いすら拒んだまま――タケは、静かに一歩踏み出す。
その瞬間、風が舞い上がり、刃蔵の髪が逆巻いた。
「……参った。これが……“風の木刀”か」
膝をついた刃蔵の肩に、タケがそっと風輪を乗せた。斬らぬ意思。敗者を傷つけぬ武の在り方。
「刀に名を与えるなら、使い手にも覚悟が要る。我が“風輪”も、試されておったのだ」
静けさが森に戻る。
だが――その静寂の裏で、別の視線が蠢いていた。
深い竹林の影から、古びた羅紗の装束を纏った謎の男が、風輪の一振りをじっと見据えていた。
「……“風の相”を宿す木刀か。面白い……やはり、現れたな、“剣聖の魂”」
風がまた、ざわめいた。
――
竹林のざわめきはやがて止み、風は静まり返った。
だが、タケ――否、宮本武蔵の魂を継ぐこの少年の足元には、ただならぬ気配が漂っていた。
猿渡刃蔵は、地に膝をついたまましばらく動けずにいた。
額から流れる汗と、心の中で巻き起こる動揺がそのまま表情に出ていた。
「タケ……お前は一体、何者なんだ」
問いかけに、少年は答えない。
ただ、腰の風輪をそっと木の根元に戻すように収めた。鞘はない。
木刀は常に肌で感じ、風と共にあってこそ本来の呼吸を宿す。それが彼の流儀だった。
「我は……未だ道半ばなる者よ」
タケの声は静かだった。
だがその一言には、長き旅路の果てを見据えた者だけが持ち得る重みがあった。
「我が道を定めしは、ただ一つ。真の“勝ち”を求めることに他ならぬ」
刃蔵はゆっくりと立ち上がり、苦笑した。
真剣を背に戻しながら、ぽつりと呟く。
「こりゃあ、剣塾の誰が相手しても勝てねぇわけだ……その木刀、ただの木じゃねえ。何かが宿ってる」
その言葉に、タケはわずかに頷いた。
「風輪は選ばれた。神木の中でも“風の芯”を宿した霊木より削り出された一柱。ゆえに、試すのは常に我自身」
そして、彼の視線がぴたりと森の奥へと向いた。
「出よ」
声は静かだったが、その場の空気が一変した。竹林の影から、ぬるりと人影が現れる。装束の下に隠されたのは、かつて神域の守り手であった者――だが今は、堕ちた者の姿だった。
「よく気づいたな。さすがは“転生せし剣聖”よ……」
「名を名乗れ」
「名など要らぬ。私はただ、“あの木刀”の行方を見届けに来た。風の芯は、千年前に封じられたはず……なぜ今、目覚めたか」
タケは答えず、風輪を再び腰より抜いた。音もなく、しかし森が震えた。
「風は封ぜられず。ただ、眠っておっただけだ。されば、今この刃と共に目覚めよ――」
その瞬間、風が唸りを上げた。まるで何かが“呼応”したかのように。
風輪が空を斬るたびに、見えぬ流れが敵を飲み込む。
かつて神に仕えし者は、一太刀で地に伏した。
そして、森に再び静寂が戻る。
少年の手には、ただ一本の木刀。それは剣であって剣にあらず。風そのものであり、呼吸し、語り、選び、導く“魂の道具”――
タケ九歳、風輪を得て、その道を一歩進めり。
その先に、どれほどの試練と、どれほどの勝負が待ち受けるのか。
「我が求めるは、勝利に非ず。真なる“道理”なり」
風が答えた。
つづく――