第二章 第一話〜前編〜『まだ剣を持たぬ者』
「おぎゃあ……」
――と、この世界で泣いたのは初めてだった。
生まれてから三ヶ月、ずっと泣かず、瞬きすら少なかった赤子は、この日、初めて涙をこぼした。
父と母はそれを“感情が育ち始めた証”だと思い、村の人々は安堵の息を漏らした。
だが真実は違う。
我が魂、眠っていた記憶が、この世界の“理”に順応を始めただけのこと。
(見えてきた……我が肉体の制限、五感のずれ、この世界の地引く力、気配……)
我――宮本武蔵は、いま、異世界の幼子として再び産声を上げ、
剣を持たず、語を成さずとも、この世界をすでに“観”ていた。
「ふぇぇぇ……こ、こらタケ! また竹刀を持ち出して、そんな危ない真似をして……!」
裏山で聞こえる子供たちの喧騒に、我の耳が敏感に反応する。
幼子の身体では起き上がることもままならぬ。だが、ただの赤子ではない。
我は……首を振り、体の芯を意識し、今日も寝返りの修練を行うのだ。
(……一歩目だ。千の型は、その一歩より始まる)
この地「ヒナガ国」は、我がかつて住まった日ノ本に似ている。
が、非なるもの。
里山、神域、霊気をまとう自然、妖異の伝承。
そこには未だ知らぬ“敵”と“力”が蠢いている気配があった。
(所望する。この世界のすべてを)
ある日、我は這いずりながら、納屋の隅に転がっていた一本の棒きれにたどり着いた。
小指ほどの長さしかないが、それは“剣”の代わりに握れる、我にとっての“初めての武器”だった。
握った瞬間、呼吸が整う。風が止む。
手のひらの感触が、戦の記憶を呼び覚ます。
(……足りぬ。この身ではまだ“型”を起こせぬ)
悔しさなどない。ただ、所望する。
すべてを、再び己が手で掴むことを。
だが、そんな我に、ある日ひとりの老翁が話しかけた。
彼は村の神職にして、風変わりな「祓い師」だった。
「不思議な赤子じゃ。まるで魂に、剣が宿っておるような……」
その目は、他の大人たちとは違った。恐れでも好奇でもない。
純粋な“見極め”の目。
「その棒切れ、離さぬのか。……ふふ、名をつけようかの。“影抜き”とでも」
“影抜き”。――我の最初の剣の名である。
影のように寄り添い、誰にも気づかれずに“間”を抜き、核心を突く。
名に意味が宿る世界ならば、それもまた道の始まりとなろう。
(――ならば、我が“所望”を貫く名でもあろう)
幼子はただ、風に揺れる木漏れ日の下、
棒きれを天に向けて突き出した。
まるでこの世界に、再びその名を刻まんとするように――
「…………」
言葉にはならぬ声で、しかしその心はすでに叫んでいた。
「これより我、再び剣をとる者なり」
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後編へつづくーー