二. 宇という男
現帝から遡ること数世代、時の帝の弟は、何を思ったか巨籍降下を申し出たという。それ以降、帝の弟の子孫は代々皇族の側近として仕えてきた。先帝の側近、それが梓琳の父なのである。
「宇よ」
ためらいがちに名を呼ばれる。真名は宇琉だが、実のところ宇の真名は彼女も知らない。
「もし、即位した後も私が宇の隣にいたとしたら」
梓琳は静かに言う。
「私と友であってくれたか」
「当然だろう」
「なら問うが、妃にはしなかったか?」
宇は言葉に詰まった。
巨大な後宮をもつ帝が、妃でもない女と一緒にいることはできない。
宇が密かに梓琳を妃にしたがっていたことを、彼女は知っているのだろう。皇帝の縁戚という血筋を考えても、妃という座にふさわしい理由の一つにはなる。
だからこそ、ひとり宮を離れたのだ。宇と"友人"であり続けるために。
「……それが理由か」
「まあな」
「だが、そんなに妃になるのは嫌だったのか?食事に困ることはない。雨風にあたることもない。お主の性格上、厳しい作法は嫌いだっただろうが、それさえ我慢すれば、ずっといい生活ができる」
梓琳はまっすぐに宇の瞳を見つめ、ふっと息を吐き出した。
「国を出て旅がしたかったんだ」
ぽつり、ぽつりと紡ぐ言葉を、宇は黙って聞いている。
「この二十年間、ありとあらゆる地へ赴いた。色んな人々に出会った。文化を学んだ。思想を知った。この辺りにはいない植物、虫、動物に会った。どれほど衣食住が満たされようとも、後宮では決して得れなかった知見ばかりだ」
懐かしむように閉じられた瞼の裏には、宇の知り得ぬ景色が広がっているのだろう。
「我儘だと笑ってくれ。世間知らずのお子様の、愚かな夢だったんだ」
自虐的に笑って、梓琳は宇に近付いた。
「それから宇、最後に一つ」
なんだ、と問う前に、梓琳は懐から手拭いを取り出した。ぐしゃぐしゃに丸めた手拭いを宇の手に握らせる。
首を傾げながら宇は手拭いを広げてみるが、やはりただの手拭いだ。
「もう一回、丸めてみてくれ」
言われた通りに手のひらの上で丸めたのを確認して、梓琳は指をぱちんと弾いた。
「…?」
それを合図に、手のひらの上で手拭いがむくむくと動き出す。現れたのはーーー。
「うぉっ!?」
一羽の鳩であった。今度は本物である。驚き固まる宇を、梓琳は幼い子供のように手を叩いて笑う。
「おまえはいつも良い反応をしてくれる」
宇は思わず膨れ面になってしまった。
「本当に、人を驚かすのが好きだな」
「ああ。私の奇術で人が笑ってくれる瞬間が好きなんだ」
即位して十九年、己の判断に自信が持てたことは無かった。稲による飢饉を憂いて策を練れば杞憂だと官たちに苦言を呈され、無能だと陰で笑われた。正しい選択など、何一つわからなかった。
しかし。
「お主を後宮に入れなかったのは、正解だったな」
きょとんとした梓琳の、目尻に刻まれた笑い皺。彼女は今日までたくさんの出会いとともに笑ってきたんだろう。
「どうしたんだ、いきなり」
「いや、気にするでない。お主も年相応に老けたなと思っただけだ」
憎まれ口でも叩かれるだろうと思った。だが予想に反して、梓琳は返事も返さない。
椅子に腰掛けたままの宇の体はそのまま、大きな腕に抱きしめられていた。
「置き去りにして、悪かった」
「梓琳…?」
宇の頭上に、涙が一粒こぼれ落ちる。
「辛かっただろう。寂しかっただろう」
抱きしめられる指に力がこもった。
「ここを去ってから、たくさんの人に会って、笑顔を見てきた。出逢った笑顔の一つ一つを思い返せば、妃にならなかったことに何の後悔もない。
ただこの二十年間、お前の笑顔を見逃したことだけが唯一の心残りだよ」
宇は何も言わなかった。背中に回された腕を離さぬよう、しっかりと握りしめるだけだった。
潤んだ空に、雲隠れの月が登り始める。
あの日と同じく寒々しい空気を纏った夜は、一層静かに去りゆく時を思い起こさせる。
「じゃあな、宇」
宇の体から離れた梓琳は顔も見せないで、くるりと背を向けてしまう。ふたりの間に流れた湿っぽい余韻も一切残さずに、彼女は来た時と同じように絨毯の上を歩いていく。
「また、会いにきてくれるか」
扉まであと三歩、というところになって、ぴたりと梓琳の足が止まった。
「それは帝としての命か?」
「いや、旧友からの頼みだ」
少し戯けて、宇は言う。
「お主の手がしわくちゃになって器用に動かなくなる前に、俺にもう一度奇術を見せてくれ」
その言葉に梓琳は振り向く。笑顔だった。
その悪戯っぽい笑みは、どんな後宮の華々にも勝るほど美しかった。
「さあ、どうだかな。お前の目が黒いうちに戻れるかどうか…」
幼い頃から変わらない無邪気さと、強かな根性を備えた女は、気障ったらしく肩を竦めて言った。
宇は確信している。必ず梓琳はこの地に戻ってくると。目尻にもっと笑い皺を刻んで、宇に会いに来てくれると。
「それでは、失礼いたします」
肩に鳩を乗せて拱手した奇術師殿は、扉を開いて現れた侍女に囲まれてそそくさと退出した。一瞬肩が跳ね上がったように見えたのは、その眼に林杏の姿を認めたからであろう。清潔好きの林杏のことだ、梓琳を覚えていようがいまいが、鳩が部屋の中を飛んだことに立腹するに違いない。
林杏にそう怒るなと言ってやろう、と思ったときだった。
背中の辺りで何かが動き出す。
「なっ……!?」
宇の声が上がるが早いが、その何かは勢いを増して背中から出てきた。
先ほどの紙の蝶である。
「梓琳め、もう驚かんぞ」
背中に一羽残っていたのには驚いたが、もう所詮は紙であることを知っている。もう梓琳は居ないが、ひとりごちるように呟いた。
違う。火に吸い寄せられていった蝶の挙動とは明らかに違う。夢遊病の患者のようにふらふらと舞う一つの蝶は、やがて力尽きたように、形を保てずに潰れ落ちた。
「……?」
蝶を模していた紙を開く。粗い手触り。見れば、質が悪く日焼けした相当古い紙である。
そこに書かれてあったのは、梓琳ではない子供の拙い字だった。
『ひさしぶりに、いもがたべられました』
たった一文。それだけで、頬を伝った雫が文字を滲ませるのに十分だった。
十五年前、国を大きく揺るがした冷害。官たちには要らないだろうと笑われた芋の供給を、確かに受け取り、命の糧にしてくれた人がいる。
手先は器用なのに変なところで不器用な彼女は、ひょっとすると、宇の心配事を見抜いていたのかもしれない。要らぬ心配などするな、ということなのだろうか。
「莫迦者が」
気付けば口元が綻んでいた。
梓琳は知らないだろう。今のが二十年間で初めて、彼女が見逃した宇の笑顔だったことを。
息を圧するような闇が宮を包んでも、もう宇が夜を恐れることはない。
帝と奇術師。ただそれだけの関係であっても、宇が梓琳の友であるならば、彼女もまた、友であってくれると知ったから。
◯◯
時を待ち侘びていたように、月は宮の上で南中した。
夜を鮮やかに彩る術があるとすれば、それはきっと梓琳の奇術だろう。
そんなことを考えながら、とある大陸の帝は眠りについたという。