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一. 奇術師の女


 帝の宮に奇術師が現れたのは、傾き始めた陽が外壁を紅く染める夕暮れ時であった。


 気が遠くなりそうなほど長い絨毯の上をゆっくりと歩いたのち、足を止める。


「頭を上げよ」

 拱手し顔を伏せていた奇術師は、素直に頭を上げた。

 奇術師は名を梓琳(ズーリン)という。

 

「久方ぶりだな。息災であったか」

「ええ、お陰様で。主上もお変わりないようで、安心いたしました」


 その返答がどうも帝のお気に召さなかったらしく、眉間に皺が寄る。


「お主は随分と変わったようだな。二十年前とはまるで別人だ」

「左様で」


 その通りだろう。かつて色白だった梓琳の肌はこんがりと日焼けし、風通しの良い麻の服を纏っている。明らかに宮廷人とは程遠い。


 

 帝が何か言いたげな顔をしているが、梓琳の知ったことではない。呼び出しには「奇術を披露しろ」とだけ記されていた。ならば梓琳は、それに従うまでだ。


 懐から一枚、白い紙を取り出す。掌に収まるくらいの小さな紙には、細工も何もないことを示すように、梓琳は高く掲げる。帝が頷いたのを見て、梓琳はそのまま右手で勢いよく紙を握りつぶした。


 刹那、右手から溢れんばかりの蝶が飛び出した。ひらひら舞う蝶は宮の中を自由に往来し、あちらこちらへと羽を広げる。


「ほほう」


 その内の一羽がふいに帝の膝の上に降り立った。見れば、蝶を模したただの紙きれである。


「本物ではないのか…」


 やや落胆を含んだ声色で帝は言う。

 その反応を横目に梓琳は無言で左手を徐に掲げると、どこからともなく松明を掲げた。


「……!」


 赤々と燃え盛る炎。そこへ光に焦がれた蝶たちが次々に集まってくる。奔放な蝶が、妖しい光におびき寄せられたように。

 紙が焦げる臭い。

 先程まで飛び交っていた紙の蝶たちは一瞬にして、灰となった。

 驚いて固まる彼の君(かのきみ)をよそに、奇術師は灰になった紙屑を掬い上げる。


「この通り、()()()()()()()()()()()()


 その言葉でようやく正気を取り戻したように、帝は改めて玉座に座り直した。


「腕を上げたな」

「恐縮でございます」


 梓琳は静かに微笑む。


「お付きの侍女や護衛を、宮の外で待機させてくださって誠に幸運でした」

「どういう意味だ?」

「ここへ入る前、侍女たちに身包み剥がされましたゆえ、彼女たちの前で『種も仕掛けもない』など堂々と宣うことはできませんから。そもそも、奇術師の種を事前に明かすのは御法度だと思いますがね」


 これには帝も声をあげて笑った。梓琳は相変わらず微笑みを浮かべたままである。

 とうに夕暮れ時は過ぎ、辺りを包むのは夜の静寂と、扉の前にいるであろう護衛の気配のみになった。


「奇術師殿よ」

「如何なさいましたか」

「なぜ、かほどまでに他人行儀なのだ。お主と朕がかつて兄弟のように育ったことを、まさか忘れたわけではあるまい」


 まだ三十代のはずだが、やつれたその(かんばせ)は初老といっても差し支えないほど年老いて見えた。


「無論覚えておりますとも。しかし、どうして今や唯の旅芸人である私が、我が国の帝にあらせられる貴方様と親しくお話できましょう。不敬罪に処されるではありませんか」


 また眉間の皺が深くなる。

 帝はまだ気付かない。梓琳の態度の理由を分かっていない。気付かないならそれで良い、と梓琳は思う。


「朕が許す」

 短く言が発せられる。しかし奇術師は黙って拱手したままだ。

 微かに鈴虫の鳴く声がした。窓の外では、もう秋の夜長が幕を開けたところだった。

 


 突然何を思ったか、帝は咳払いをして改めて梓琳を正面から捉えた。

 


「なあ梓琳よ、先程からこっそり()の顔の皺を見ているのは分かっているんだぞ。なんだ、老けたとでもいいたいのか」


 梓琳は貼り付けていた愛想笑いを脱ぎ捨てる。

 代わりに、手を下ろしてにやりと笑いながらもう一歩前に進み出た。

 

「やっと気付いたか。遅いぞ」


 梓琳は帝の友ではない。だから彼が帝である限り、彼女は平民として振る舞わねばならない。


「先日二十年ぶりに故郷(ここ)に行き着いたら、急に呼び出しを喰らったもんだから驚いたよ。あまり長居する気はなかったのに」


「そう責めんでくれ。昔の友を呼ぶくらい、別にいいだろう」


 口調とは裏腹に、帝は、いや彼は楽しそうに言った。


「随分と人が入れ替わっているようだが、宮の者たちは元気か?」

「ああ。皆、病気もなく元気だぞ。林杏(リンシン)も七十はとうに過ぎたが、未だに現役だ」

「林杏…、よく世話になったな。何度ふたりで怒られたことか」


 梓琳の顔が引き攣る。大人になった今でも、名前を聞くだけで背筋が伸びてしまう。林杏は、例え相手が東宮であろうと容赦しない侍女だ。


「怒られる原因の大半は梓琳だっただろう。かくれんぼで桃の木に登っては枝を折ったり、奇術の練習と称しては広間を水浸しにしたり」

 

「いいや、広間の冠水は主におまえのせいだっただろうが。全部を私のせいにしてくれるな」

 

 確かめようのない過去の真偽を巡る不毛な争いがだらだらと続く。幼い頃、梓琳は父に連れられてよく宮で遊んでいたものだ。思い返せばたくさん危ないことをした気もするが、歳の近い友達も居なかった彼にとって、梓琳との遊びは刺激的だったに違いない。



「林杏といえば、お主に息女として相応しい品格を身につけさせようと躍起になっていたな。その努力は全く功をなさなかったようだが」


 梓琳はぎりりと苦虫を噛み潰したような顔になる。


「言うな。おまえは知らないかもしれないが、一時はもっとお淑やかな口調で喋らされていたんだぞ。その上動きずらい装飾の服まで着せられて、私は着せ替え人形か何かかと思ったものだ」


 確か八つか九つの、反抗期真っ盛りの時分だ。今の梓琳を見れば、林杏は卒倒してしまうかもしれない。

 

 ふと、まだ桃の木の枝を折ったことを謝っていなかったことを思い出した。さすがに覚えていないだろうが、顔を合わせない内に退散したい。



 まずいな、と遠い目で頷いていた梓琳の意識は、調子外れな貧乏ゆすりの音で引き戻された。

 不格好な音の主は不機嫌そうな顔で睨んでくる。

 

「おい、そろそろ俺のことを名前で呼んでくれないか。こちらはちゃんと梓琳と呼んでいるのに、お主ときたら『おまえ』としか呼んでくれない」

「やめてくれ、帝の名前なんて口にしたら不敬になるだろう。牢獄には行きたくないんだ」

「安心しろ。その物言いが先程から十分に不敬だ」


 帝の名を呼べとは随分無茶な頼みをしてくるものである。勿論渾名を忘れたわけではないが、そう容易く言えるものでもない。

 困ってしまった。

 考え込む時の癖で、梓琳の左手が無意識に奇術の種を求めて袖口へ伸びようとした。 


「なあ梓琳、そろそろ教えてくれないか。なぜ二十年前、突然ここを出て行ったのか」


 ぴたり、と手が止まる。

 あの夜。彼にひとり、別れを告げた日である。

 口を開く前に、彼はまた言葉を紡いだ。


「俺は……見捨てられたのかと思った。帝位を継いでもお主だけは、ずっと友であってくれると、そう思っていた」

 梓琳はすっと目を逸らした。


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