プロローグ〜薔薇は彼女の悲鳴だった〜
女性が使うにはシンプル過ぎる白い封筒の裏側に、薔薇の花が描かれ始めたのは何時からだろう。
本来領主ならば領土に腰を下ろし領民の為に切磋琢磨すべきだが、皇太子の乳兄弟として育ち、補佐という政治的ポジションを持ってしまった以上帝都で暮らすしかなく。
けれど帝都の空気が合わず身体の弱い妻は領土で暮らし、弟夫妻にも助力を願った。
実家に帰れるのは数か月に一度、数日だけ。結婚して四年経つが、忙しさのあまり妻には寂しい思いをさせている。
そんな時だ。そろそろ跡継ぎをという話をされてもそんな暇がない。話を出すなら時間をくれと不敬も忘れて皇太子に言ってしまった。半年前に婚約者だった公爵令嬢と結婚し、新婚という幸せの真っ只中にいる彼は自分達の子供の遊び相手が欲しいつもりで口にしたのだろう。
好きで仕事人間をしている訳ではない。親が決めた相手とはいえ幼い頃から見ていたのだから多少なりとも愛情は向く。
何はともあれ二か月だが長期休暇を得られた。子供がそう簡単に出来ない事は解っているので、どちらかと言えば妻と過ごす為の時間だ。
しかし明日から休みという訳には行かず、半月以内に一時的な引継ぎを終えなくてはならない。
「ああ、そうだ。今日は手紙が来る日か」
数週間に一度だけ領地での些細な出来事などが綴られた手紙が朝に届く。今日はその日だとペンを置いて立ち上がった。
返事の中に二か月間の休みを得られたと書こう。昔から皇太子を優先していたので許嫁になってからも長期間一緒に居られた事はない。
何をしようか。彼女が好きな事をしよう。川辺を散歩したり、領地に下りて買い物も良い。
そんな事を考えながら手紙が置かれた机を見ると、相変わらずな白い封筒が置かれていた。
カサリと異物の音と共に手紙の厚さを感じ取る。きっと押し花の栞だろう、以前も栞やハンカチなど手紙と同封されていた事があった。
公爵夫人が使うには聊かシンプル過ぎるものだが、裏には妻が描いた薔薇の花が描かれているので逆に味わい深い。しかし今回は描かれておらず、書き忘れだろうかと少しばかり寂しい気持ちになった。
「―――旦那様、旦那様! いらっしゃいますでしょうか!」
「フィリップ? どうした、そんなに慌てて」
封を開けようとしたタイミングで執事長のフィリップが慌ただしく扉を叩く。
如何なる時も冷静沈着で物事も素早く熟す男の様子に急いで扉を開ける。そこには老いて皴の増えた顔を真っ青にし、くしゃりと手紙を握り締めたフィリップがいた。
呼吸は荒く脂汗を滲ませつつ、フィリップはくしゃりと顔に皺を増やして口を開く。
「奥様が、奥様がお亡くなりに……!」
「リーゼが?! そんな馬鹿なッ!」
突然の言葉に思わず否定する。
血相を変えたフィリップは首を何度も左右に振り、しわくちゃの手紙を差し出した。それは領地から早馬が持って来た手紙。魔法の発達したこの国でも遠くに居る相手と連絡を取る道具を持つのは王族だけが持ち、貴族だろうと平民だろうと連絡手段は馬と人の脚である。
その手紙を恐る恐る受け取ると、そこには信じられない文章が書かれていた。
「……リーゼが、自殺………?」
弟が書いたであろう手紙には簡潔に妻の死亡について書かれていた。
今朝方メイドが起こしに行ったところ、ベッドの上で息絶えていた事。そしてベッド横の棚には彼女の為に薬師が用意した薬の瓶が空になって置かれていたと。
とても受け入れがたい内容に、嘘だと空を切った声が出る。
自殺なんてする筈がない。今日だっていつもの手紙が届き、その中身だって相変わらず子豚が産まれたやら花が綺麗だったやらそんな、些細な。
荒くなる呼吸を殺し、まだ見ていない手紙へと再度手を伸ばす。そしてゆっくり開けば赤い花弁が数枚床に落ちる。
中身は珍しくカードだった。ところどころ皴のある不思議な模様のそれには一言だけ妻からのメッセージが書かれていた。
―――さようなら、旦那様。