アンダルシアの蛙
気が付いたら空を見上げていた。
靄のような薄い雲以外何もない空はどこまでも青く高く見えた。これが井の中の蛙の気持ちであろうかと思ったが隣でカラカラと音を立てて回るバイクの前輪を見て私はここが井戸の底でないことを再確認した。乾燥した地中海特有の乾いた暑さにどこまでも平坦な風景。わずかな緑はドングリの木かオリーブだ。安いCGのような絵づらに飽きを感じたのが三時間ほど前で、眠気に襲われたのはいつだろうか。まったく記憶にないがバイクにまたがりながら眠った私はいま、大地と一つになっている。
日光が強く目を閉じるとこのまま眠れそうな気がするが、ひどい砂ぼこりが肺に悪い気もする。そんなことを考えていると地面がわずかに震えるのが分かった。そして、ドロドロと内燃機関を緩慢に廻す音が聞こえた。音は私の五メートルほど手前で止まった。
「新手の強盗ならわしはなにも持ってないぞ」
しわがれた声に目を向けると旧式のトラクタに乗った老人がいかにも疑い深そうな目をこちらに向けていた。私はよろよろと立ち上がるとパンパンと上着やスカートについた砂埃を払う。腕や足にいくつかのすり傷を見つけたが大したことはなさそうだった。
「強盗がでますか?」
「出るな」
老人は必要最小限だけ口を開くとふん、と鼻を鳴らした。
「それは困りました。東へ行きたいのに」
「……東か。あんたは転移派なのかい?」
八年前、世界は崩壊した。人類のエネルギー問題を解決すると言われた反物質が各地で漏洩し、対消滅による大規模災害は世界の枠組みを大きく破壊した。いま世界は地球を捨てて外宇宙へ優れた人間を送り出そうという脱出派。空間転移という未知の技術にすがり多くの人間を救おうとする転移派。そして、人類社会の崩壊を受け入れこのまま滅びを待とうという黄昏派の三つに分かれている。
「そんなに頭よさそうな人間に見えます?」
私が訊ねると老人は顔をしかめて「見えんな」とつぶやくと「なら難民かい?」と訊ねた。
「難しいところです。根無し草という意味ではそうですし、別に難儀しているわけではないのでそうじゃない。しいて言うなら巡礼者ですかね」
「巡礼ね……。久しく聞かない言葉だ。昔はそれをするものが多くこの海を渡ったが、いまは誰もいない」
「流行りが終わりましたか」
「あの大災害のあとでも信仰を持てる者は幸せだ。いまは信仰よりもこっちが神様になったからな」
老人はトラクタの荷台に積み上げられていたオリーブを左手でつまむと私に投げた。深い緑色のオリーブは滑らかで美しいカーブを描いていた。なんだかその形が蛙に似ていて私は微笑んだ。
「現物主義ですか」
「ああ、現物があれば交換ができる。神と金はもう信用がないからな」
「いろいろなものが信用を無くしました。ちなみに私への信用はどうです? 強盗から格下げされて顔見知りくらいになりました? できたら隣に置いてある銃をしまってほしいなぁ、と思うんですけど」
老人は助手席の猟銃に置いた右手を動かすことはなかった。
「逆に聞くが、わしにこのまま脅迫されて捕まるとか売られるとは思わんのかね?」
「それはまぁ思いますけど、どちらもただじゃすまないってなれば思いとどまってもらえるかなって」
私は上着のなかに吊るしている小さな銃を老人に見せる。旅人としてはささやかな武装であるが、私が老人のような大きな銃を使えるかと言えば難しい。人には人に見合った能力しか許されないのだ。身の丈を越えた能力はいつも悲惨だ。
「そんなもんを見せるのは背後に敵がいないことを確認してからにするべきだったな」
老人が人の悪そうな笑みを浮かべる。私は慌てて背後を振り向いて銃を握りしめるがそこには退屈な風景が広がるだけでだった。背後では老人の笑い声が聞こえる。どうやら私は一杯食わされたらしい。両手を挙げて老人のほうに身体を向ける。
「素人だな。言われて後ろを振り向くくらいならわしに撃ちかかるべきだ」
「人が悪いって言われませんか?」
「老人は性格が悪いもんだ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだ」
しばらくの沈黙のあと老人はトラクタから降りると私のバイクをおこしてくれた。礼を言うと老人はつまらなさそうな顔をしたが「では、オリーブをおろすのを手伝ってもらおうか」と一方的な要求を口にした。とくに手伝うような義理もなかったが、眠気の覚める会話を楽しませてもらったお礼だと思って老人に従うことにした。
バイクのキックスターターに乗るようにして二度三度踏み込むとバイクは息を吹き返した。
「フォー・リンです」
老人に改めて自己紹介をしたが、バイクの音にかき消されて分からなかったのか。興味がなかったのか「ああ!」とうなずくと老人は再びトラクタの操縦に戻った。私はトラクタという乗り物は大した速度が出ないと思っていたのだが、そうではないらしい。
整地と荒れ地が続く大地を老人はこちらが置いて行かれるのではないかと思うような速さで駆けていく。荷台からポロポロとオリーブが零れ落ちるが老人は細かいことなどどうでもいいというように進み続ける。かつての主要道路から枝道へ。枝道から老人だけが走っていると思われる酷道を抜けると目的地と思われる建物にたどり着いた。
この辺りでよく見かける真っ白な箱のような家に強引に取り付けたような木製の納屋が目の覚めるようなグリーンで塗られている。およそ、調和がとれた美しい建築物とは思えなかったが老人は、そんなこと気にしないようだった。
納屋の前にトラクタを止めると老人は指で納屋の中にいれる、と指示を出すと自分はさきに納屋の中に入ると中から電動シャッタを開けてくれた。緩慢な動きで巻き上げられたシャッタの奥には油圧式の搾油機が置かれていた。
私はトラクタの荷台に置かれているオリーブの入ったカゴを何度も往復しながら納屋に運んだ。老人も同じように往復をしたが、腰が痛むのか何度か立ち止まると腰をゴンゴンと叩いていた。すべてのオリーブをしまい終わると老人はにこりともせずに「茶にするぞ」と言って真っ白な家のほうへ勝手に進んでいった。
茶と言っても紅茶はもとよりコーヒーだっていまでは貴重品である。せいぜいがハーブティーだろうと思っていると本物のコーヒーが出てきたので私は驚いた。
「良いんですか?」
「嫌なら飲まなくていいぞ」
「嫌じゃないです」
そう言って久々のコーヒーをすする。香りのよさに驚くと老人は「まぁまぁだろ」と自慢げに言った。
「ここにはお一人で?」
「ああ、息子たちはオルレアンでドンパチだ。宇宙だ。なんだ言われてもわしにはピンとこない。それよりはここでいる方がよほどいい。ここならたまにジブラルタルからコーヒーが手に入るからな」
「では、ジブラルタルはまだ船が出ているんですか?」
大陸間の移動は大災害のあとほぼ聞いたことがなかったがあるところはまだあるらしい。
「ジブラルタルは最も狭い地中海だ。交易をするならここを選ぶほかない」
神話の時代にヘラクレスが巨大な山を真っ二つにして生まれたのがジブラルタル海峡だという。現在なら反物質炉事故でジャクソンビルが吹き飛んでフロリダ半島がフロリダ島になったのと同じだろう。私が知らないだけで大災害で大幅に地形が変わっている場所もあるに違いない。
「バイク旅ですから海はちょっと」
「なら、このまま海沿いを東に行くのか」
老人は少し考え込むような顔をした。
「なにか問題が?」
「一つは盗賊が出る。まぁ、これはどこでもそうだろうからどうでもいい。二つ目はバルセロナだ。あのあたりは例の災害できれいさっぱり吹き飛んでる。おかげでピレネー山脈を越えるか。進路をもっと北に変えるかだな」
「ハンニバルはピレネーを越えてガリアに入ったそうですから同じ道を行きますよ。幸い私は戦象を率いているわけじゃありませんし」
「ずいぶん頼りのない将軍だな」
「きっと将軍だってアルプスを越えるまではこんなもんでしたよ。旅が変えたんです」
「まぶしいことを言う」
老人は目を細める。それが何かに対するあこがれなのか。何かを成せなかったのことへの後悔なのか。私には分からなかった。だが、老人は少し笑っていた。若者の無謀を嘲笑したものにしては熱があるその顔に私は悪い印象を持たなかった。
コーヒーを飲み干す。
少しだけ砂糖の甘みが恋しかったがそれはあまりにも望みすぎに違いない。老人のほうもカップが空になったのに気づいたらしく、やや悩んだ表情をしたあと「手紙を頼んでもいいか」と苦い顔をした。
「いいですけど、こんなご時世ですよ。届かなくても恨まないでくださいね」
「強盗みたいなことを言うな」
「強盗から格下げされた記憶がないもので」
「茶飲み友達だとおもったんだがね」
老人は照れくさそうな顔をしたのが面白くて私は少しだけ笑った。
「茶飲み友達の頼みなら聞かないわけにはいきませんね」
「すまんな」
短く言った老人は奥の部屋から封筒に入れた手紙をとってくると私に渡した。あて名は『不肖の息子ディアス・アルシラ』となっていた。
「オルレアンの?」
「ああ、そうだ。なかには帰ってくるな。と書いてある」
「ほかには書かないんですか? 愛してるとか。自慢の息子よとか」
「馬鹿。そんなこっぱずかしいこと書くか。とにかくあんたは手紙を届けれくれればいいんだ」
老人はそっぽをむいたが、手紙が書かれたのはかなり前のようだった。だとすれば、彼はずっと東に向かう人間をここで待っていたのだろうか。信用できる相手がくればすぐに渡せるように準備をして。だとすれば、息子はずいぶんと愛されていることだろう。
「分かりました。では、この小ハンニバルにお任せください」
「頼りない。ハンニバルだ」
そう言って老人は手紙を私に手渡した。
その手紙を上着のポケットにしまい込むと私は老人の元を去った。また、眠くなりそうな単調な景色が続くのだと思うと気が滅入ったが、コーヒーのおかげか目は冴えている。