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日常の小さな幸せ

 私は飼い猫だ。飼い主はメガネをかけたごく普通のどこにでもいるような一般男性。スーツを着て仕事に出かける。大きな荷物をもって出かける日は夜になっても家に帰ってこない。次の日やまたその次の日に帰ってくることもあった。それは仕事や、友人の家に泊まったり、旅行だったりする。玄関があいて私が廊下から玄関に向かいながら声を出すと、彼はとたんに顔がゆるむ。

「ただいま」

 彼は優しい声を発して、靴を脱ぐと私の頭から背中をなでてくれる。1年前くらいからか、彼は出かける時には必ず白いマスクをするようになった。そして、帰宅後すぐに私をなでてはくれず、洗面台へ直行し、手洗いやうがいをするようになった。時にはお風呂に入ってシャワーをしてから、私を膝の上にのせてなでるようになった。世間では感染症が蔓延しているようだ。テレビやラジオから流れてくるニュースで知った。白いマスクをすること。こまめに手を洗うこと。うがいをすること。消毒液を持ち歩くなど、彼も感染症には気をつけているようだった。

 私をなでてくれる彼の手は、細くすらっと伸びた指と深爪だけどきちんと爪の手入れがされている。一般男性にしてはきれいな手をしている彼は、鼻歌を歌いながら私をなでる。そして、ビールを片手にテレビをみたり、ゲームをしたり、本を読んだりしている。私は彼の声が好きだ。電話をしている彼の声を聞いている。仕事用の神経質な声、友人と話すときの少しフランクな声、そして私には優しい声で話しかけてくる。

「どうしたの?」

「ご飯だよ」

「お前はあたたかいね」

 そんな彼の声を聞くと私の心はなぜかあたたかくなる。私も声をだして彼の手に体をあてる。彼は険しい目で書類とにらめっこをしている日もある。あとは、体の具合が悪いときはつらそうだ。寝ている時、苦しそうな時がたまにあって、そんなときは私はだまってそばにいることにしている。彼のうなされている声はあまり好きではない。どうにかしてあげたいが、私にできることはない。お腹がすいたら、彼を呼ぶときもあるが自らキッチンへ行きご飯を探すときもある。自分の歯で開けられれば食べるし、彼のそばまで持っていき、開けてもらってから食べるようにしている。私が彼の飼い猫になってから、とても静かな時間が流れる。私は彼と過ごすこの空間がとても落ち着く。

 ある日、彼は大きな荷物をもって私に話しかけた。

「しばらく帰ってこられないけれど、大丈夫だからね。母がきてご飯をくれるから。元気でいるんだよ」

 大きな荷物を持ってるということは、何日も帰ってこないということだけはわかった。彼の声が少し震えているように聞こえた。私は彼の足元をぐるぐるして声をだす。彼は私を持ち上げて顔をお腹にあてた。

「大丈夫、ちゃんと帰ってくるからな。いいこでいるんだぞ」

 彼の手が震えていた。顔もいつもよりこわばっている。私も彼に大丈夫よと声をだした。そして玄関がしまるまでずっと彼を見つめていた。

 数日後、彼の母が玄関の鍵を開けて部屋に入ってきた。私は小さく声をだす。

「あら、一人でお留守番していてえらいわね。大丈夫よ。あの子はちゃんと帰ってくるから」

 彼の母も彼と同じやわらかい口調で私に話しかけてくれる。彼の手とは少し違うが、この人のなでる手も気持ちが良い。私達は彼の帰りを待っていた。季節は冬から春に変わっていた。

 ある晴れたお昼時、いつもなら母がくる時間になっていたが、玄関が開く音がしなかった。2、3日こない日があってもご飯は用意してくれているので心配はないが、やはり一人の空間は寒く感じた。彼がこの部屋からいなくなってどれくらいたっただろうか。私は少し諦め始めていた。帰らぬ彼の部屋で私はこれからも一人で過ごしていくのだろうか。

 その時、玄関の方からドサッと、大きな荷物が置かれた音がした。鍵を開けようとカチャカチャと音がする。この鍵を開ける音に聞き覚えがあった。そう、彼だ。彼がこの家の鍵を開ける音だ。

「ただいま」

 久しぶりに聞く彼の声だった。彼は帰ってきたのだ。以前のように玄関までの廊下で声をだす。そして彼を見上げた。顔がやつれていたが、私に向ける顔はかわらずやさしい顔をしていた。この部屋の掃除や私にご飯をくれた彼の母は、彼が手術をするため病院に入院することになったことを私をなでながら話してくれた。彼の手術が成功したことを電話で父親や会社の人に伝えている時、彼の母は泣いていた。しばらくは通院するようだが、仕事も休んで体が回復するまでこの部屋で療養生活を送るようだった。日常生活は支障なくできると思いきや手術後で体力が衰えているのか、移動もつらそうだった。食事するにも、トイレにいくにも、一つ一つの動作がとてもゆっくりになっていた。私は彼が抱っこしてくれるのをまっていたが、彼は私をなでるだけで抱っこはしてくれなかった。

 夜中、傷口が痛むのか苦しそうに寝ている日が続いていた。私は声をだして祈った。彼の痛みが治まるように。

「ありがとう」

 真っ暗闇の部屋の中で、彼はつぶやいた。私の声が聞こえたのだろうか。大丈夫、よくなるわと私は彼の手の位置に体を寄せて小さく声を出した。

「お前は優しいな」

 彼の声の方が優しいのにと思いながら、私は彼の隣で眠りにつく。また彼に抱っこしてなでてもらえるように。彼の体が良くなるように祈りながら。

 あれから五年たった。彼はすっかり元気になっていた。毎日少しずつ体力が戻り、以前のように日常生活ができるようになっていた。食生活や睡眠もきちんととるようになっていた。そして私は以前よりも食欲もなくなり、体も動きも重くなってきた。それは私も年をとってきたということだと理解している。彼はそんな私を抱き上げて膝に乗せて背中をなでてくれる。私も時々病院で検査をしている。彼も定期的に病院に行っているようで、病院の匂いをさせて帰宅することが少しだけ心配になるけれど、私は彼とこの部屋で過ごすなんでもない日常を幸せだと感じ、大切に今日も生きることにする。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 種族は違っても、お互いを思いやる一人と一匹は素晴らしいですね。『私』が少しでも長生きして、大好きな『彼』と末永く幸せに暮らせるといいなと思いました。
[一言] 不幸の数を数えない 目の前の当たり前が幸せなんだと気付くのは難しい
[良い点] 主人公の猫ちゃんと飼い主である彼、 お互いを想いやっているところが良かったです。
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