ラストノート
あの公園を覚えていますか。
私たちが初めて出会った……と少なくともあなたは思っている場所です。
うちで飼っていたポチがあなたにじゃれようとしたことを覚えていますか。
まあ、あなたにとっては忘れられないとは思いますが。
「ここはいい場所だね、ポチ。 広い公園だし、空気はおいしいし。 ちょっと遠いけど、お休みの日に来るのはいいかもしれないね」
少女が公園のランニングコースを犬のポチと散歩している。
少女らの眼前には青いベンチがあった。
木々に囲まれた中では色味的に浮いているが、少女は少し座って休むには好都合だと思った。
「あ、もう人が座ってるや」
ところがベンチに近づくにつれ、既に先客がいることに気づいた。
スーツを着ている男だ。
顔は酷くやつれていて年齢を重ねているように見えるが、スーツは真新しい風だ。
若い男性が、スーツを着ていて、疲れている顔をしている。
少女はただ事ではないことを察した。
「でも、どうすればいいんだろう。 普通に疲れているだけかもしれないし……。 ん!? ポチ、どうし……きゃあっ!」
少女が声をかけるかどうか悩んでいると、突然ポチが男に向かって走りだした。
いきなりリードを強く引っ張られた少女は、思わずそれを離してしまう。
「うわっ、ちょ、え、なになになに!?」
虚ろだった男の目が丸くなる。
ポチは男の足に体を擦り始めた。
「すみませーん!」
「あ、あなたの犬さんですか!? あ、あの、俺、犬さんだめなんです!」
「い、犬さん……?」
少女は犬さんという呼び方に少し引っかかりを覚えたが、男はそれどころではなかった。
「ああ、ごめんなさい! ポチ、こっち!」
少女はリードをつかんで、自分の方に強く引っ張る。
ポチはそれだけでわかったように、名残惜しそうな声を出して少女の足元に寄った。
「あ、ありがとうございます。 助かりました」
「いえいえ、お兄さんがお礼をおっしゃることなんて。 むしろ私のしつけが……あれ?」
少女は正面から男の顔を見つめると、そこでようやく気が付いた。
「どうしました? 俺の顔になにか付いてます?」
「い、いえ! なんでもありません!」
これが男にとっては初めての少女との出会いだった。
実は私たちが出会ったのは、あのときが初めてではありません。
私たちは幼い頃に出会ったことがあります。
恐らく、あなたは覚えていないでしょう。
私もあのときには忘れかけていましたから。
確か、同じようにどこかの公園だったと思います。
あのときのような森林公園ではなく、近所の子が遊ぶような小さな公園です。
そこで、私はあなたに救われました。
逆だったんです。
幼い頃は、あなたが私を犬から助けてくれたんです。
あなたは「犬さん、あっちに行け!」と言って追い払っていました。
森林公園でも、あなたはポチのことを犬さんと言っていましたね。
それで思い出しました。
運命だと思いました。
私は名前も知らないあなたのことをずっと想っていたのです。
だから、あれからあなたにアプローチを続けました。
お弁当を作ったり、休日の日には積極的に会いに行ったり。
とても楽しくて甘い時間でした。
――私に病気が見つかるまでは。
あのときは急に倒れた私を介抱してくださって、ありがとうございました。
お医者さんに言われましたが、あの時点で救急車を呼んでいないと、既に亡くなっていたそうです。
わずかな時間ではありましたが、それでもあなたと過ごす猶予が生まれました。
私が入院したあとに、香水の話をしたことを覚えていますか?
あの話はあなたへの思いを込めていました。
届いてくれていたら嬉しいです。
「ラストノートってご存じですか?」
女性は真っ白な病室の窓際で呟いた。
もう声に気力など宿ってはいない。
それでも男に精一杯聞こえるようにと声を張っている。
「香水って、時間で香りが変わるんです。 つけてすぐの香りがトップノート。 つけてちょっと経った香りがミドルノート。 そして、数時間後からの香りがラストノートです」
「そうなのか。 香水って付けたことないから、知らなかった」
「ものにもよりますが、ラストノートは半日くらい続きます。 最後の香りが最も長い時間香り続けるなんて、なんだか不思議です」
女性は棚に飾ってある写真立てに目線を移した。
そこには二つの写真がある。
ひとつは家族の写真。
もうひとつは少女とポチと男の写真だった。
「でも、ポチが亡くなったあとにわかったんです。 最期がいちばん印象に強いのは当たり前のことなんだって」
女性は悲しげに続ける。
「楽しかったことを思い出そうとする度に、その最後に苦しそうだったポチを思い出してしまうんです」
男は女性の手を握る。
女性はまた男に目線を戻した。
「私が亡くなったら、きっとあなたも苦しんでいる私のことを思い出してしまうでしょう。 だからあなたに魔法……いえ、香水を付けました。 あなたは苦しんでいる私と一緒に、必ず今日のことも思い出します。 ラストノートの話をした私を思い出します。 そして、気が付くんです。 悲しいことを思い出してしまうのは、悲しいことばかりだったからじゃない。 当たり前のことなんだって」
男の手が震える。
涙目で、それでも俯かずに女性を見つめている。
「私とポチにとっては死の間際がラストノートですけど、私とあなたにとっては今日の話がラストノートです。 必ず思い出してくださいね。 約束です」
女性が亡くなったあと、女性の両親から男に封筒が渡された。
それは、女性が男に向けて残した最期の手紙だった。
書き出しは「あの公園を覚えていますか」と、男と女性の出会いから記されたダイジェストのようなものだった。
思い出のほとんどがこの手紙に記されていた。
そして、一番最後に書かれていたのは香水の話だった。
男はラストノートのことを思い出し、零れ続ける涙を拭った。