選帝公女は婚約を破棄された①
「お前との婚約を破棄することを、此処で表明する」
唐突な――唐突すぎる宣言に周囲はざわつき、そして今婚約者から婚約破棄を突き付けられた当事者は麗しい花のかんばせを微かに顰めた。
自然、帝立貴族学院の卒業パーティーという華やかな会場の視線は渦中の三人へと向けられた。そう、二人ではなく三人だ。
婚約破棄を突き付けられたフォスティーヌ・ジャニーヌ・クロード・デュドネ公爵令嬢。
婚約破棄を突き付けたエドゥアール・アルフレッド・バルテレミー・ギェルマン皇太子殿下。
……そして、エドゥアール皇太子の腕に自らの腕を絡め、大粒の涙を浮かべた瞳でフォスティーヌ公爵令嬢を睨むモニク・ジュベル男爵令嬢。
この図だけで、三人に何が起こったか、この場の殆ど全ての人間が正確に把握した。
つまるところ、フォスティーヌは身分が遥かに劣るモニクに、婚約者を奪われたのだ。
「……」
音も無く開かれた扇子で、フォスティーヌは口元を覆う。彼女の瞳の色である濃紺の布地に、彼女の髪である白銀の飾りがついたそれは一級品で、芸術品とすら呼べる一品だ。
怒りも悲しみも表す事は無いフォスティーヌに、エドゥアールは苛立った表情を浮かべる。
「何か言ったらどうだ」
「では、失礼ながら申し上げます。殿下はその意味を、きちんとご理解なさっておいで?」
まるで観察するかのようなフォスティーヌの眼差しに虚仮にされていると感じ、そして理由すら尋ねず、ただそう問われた事にエドゥアールの頬に怒りでサッと赤が差した。
そんな彼に、あくまで冷静に再度フォスティーヌは問いかける。
「選帝公女である私との婚姻を破棄なさる意味を、本当にお分かり?」
「っ、お前はいつもいつも! そうやって私を虚仮にするっ! 無礼である!」
ヒステリックに叫んだエドゥアールに、周囲の引いた視線が突き刺さる。
その腕に縋るモニクが芝居掛かった猫撫で声を出した。
「エール様、フォスティーヌさんみたいな冷たい方はお傍に相応しくありませんわぁ」
皇室の、家族にしか許されない皇太子の愛称で彼を呼んだモニクがその豊かな胸を組んでいる皇太子の腕へと押し付ける。
……瞬間ぶわりと浮かんだ周囲の怒気になど、気付きもしない。
扇子の陰で嘆息したフォスティーヌは、その怒気の発生源にちらりと視線をやり、抑えるように促す。
彼等はモニクが皇太子を愛称で呼んだ事に反応した訳ではない。その無駄に脂肪の詰まった胸を、婚約者の目の前で皇太子に押し付ける愚行に怒った訳でも無い。
たかが男爵令嬢が、フォスティーヌ「さん」などと呼んだ事に怒っている。
胸を押し付けられて脂下がり、周囲の視線など気付きもせずにモニクといちゃつき始める皇太子の姿に、フォスティーヌは再度深々と溜息を吐き静かに答えた。
「――お気持ち、承りました。父公爵に伝えまして、陛下にお返事申し上げます」
そして、愚かな元婚約者と無礼な男爵令嬢に対し、それはそれは見事な別れのカーテシーをしてその場を立ち去った。
「……馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、あそこまで馬鹿だったとは……」
家の馬車に乗り込んだフォスティーヌは思わずこめかみを揉んだ。これからの事を思うと頭痛がしてくる。
あの様子では絶対に、元婚約者は選帝公女であるフォスティーヌとの婚約を破棄する意味など分かっていない。しかも、あれほど多くの人々の前で表明してしまったらもう撤回も出来ないだろう。ただでさえ地に落ちている現皇室の権威が地にめり込むレベルで失墜する。
小窓に映る、飛ぶように変わっていく王都の街並みに視線を向けながら、フォスティーヌは独り言ちた。
「……両陛下も、お気の毒に」
フォスティーヌ・ジャニーヌ・クロード・デュドネ「公爵令嬢」。
或いは、フォスティーヌ・ジャニーヌ・クロード・デュドネ「選帝公女」。
そして今の帝国の中で六割を占める旧王国派にとっては、フォスティーヌ・ジャニーヌ・クロード・デュドネ「第一王女殿下」。
自らの名にちらりと思いを馳せ、いっそ考える事すら無駄だとフォスティーヌは目を閉じた。
クレマンス帝国は、前身であるクレマンス王国時代から通算すると大陸でも指折りの旧い国だ。
しかし内実では王国から帝国になる際に相当な変化があり、同一の国と言うには変わりすぎていて通算することが正しいのかどうか、誰にも分からない。
帝国を名乗り始める際に、長年王国を治めていた王室デュドネ家から、武力を持ってその座を取り上げたギェルマン家に皇位が移った事もあり、一般には断絶したものとされている。
ギェルマン家は皇位を奪い取る際に、デュドネ家のメンバーの殆どを処刑した。残されたのは幼い姫君がただ一人。
姫君が残されたのは、長じた後に簒奪者であるギェルマン家の男に嫁がされる為だった。デュドネ家最期の血を取り込むことで、名実ともにギェルマン家はデュドネ家の「正統な後継者」であると示そうとしたのだ。
その目論見は、ギェルマン家の男達が次から次へと不審死した事により崩れ去る。
元々正妃の他にも複数の側妃を持つ事で多くの男児を得ていた筈のギェルマン家は相次ぐ子息の死により断絶の危機を迎えた。
焦った彼等は教会の巫女に原因を占うように頼み、そして返って来た返事はギェルマン家以外の全ての人間が納得するものだった。
『血を絶たれ、そして最後の一滴を汚そうとする事へのデュドネ家の怒り、祟りである』
焦った彼等はデュドネ家の姫君に女公爵の地位を与え、ギェルマン家とは縁のない名家より婿を迎えさせ存続させた。それにより、漸く続いた子息の不審死は収まった。
――そしてギェルマン家には、家訓が遺された。
皇室からデュドネ家への降嫁、婿入りはしないこと。
デュドネ家をけして粗末に扱わないこと。
デュドネ家に娘が生まれた時は、その一番上の娘を必ず皇族男子の妻とし、かの姫君を娶った者を次の皇帝とすること。
そしてデュドネ家の、皇后となるべき長女は特別な名前で呼ばれることになる。
帝を選ぶ公女――選帝公女、と。
皇帝、リシャール・ヴィルジール・ムーレヴリエ・バレルテレミー・ギェルマンはその夜、自身最愛の妻である皇后エレオノール・ベルナデット・レリア・ギェルマンと共に夕食後の寛いだ一時を過ごしていた。
今日は彼等の長男、皇太子エドゥアールが帝立貴族学院の卒業を迎えた日だ。
これで息子は晴れて一人前の成人皇族と看做され、名実共に時期皇帝、皇太子としての公務を開始する事になる。
「あちらは盛り上がっているでしょうか」
「だろうな。我等の時もそうだった」
ふ、と視線を窓の外、帝立貴族学院の方に向けた皇后は皇帝に微笑む。
皇帝と皇后は、学院の同窓生だった。
皇帝が若かりし頃にはデュドネ家には女子がおらず、選帝公女たるべき存在がいなかった為皇帝は自ら皇后を見出し、選んだ。ギェルマン家には数少ない恋愛結婚だ。
見出した相手が公爵家の姫君であった事も良かった。長女であったが弟がおり、実家家督相続も問題無かった事も幸いだった。
当代の皇太子の同世代にはデュドネ家に娘――即ち選帝公女がいたため、自らと同じように恋愛の自由を認める訳にはいかなかったが、旧き王室の血を体現する選帝公女フォスティーヌは美しくまた聡明で、これほど皇太子妃、次期皇后に相応しい姫君もいないだろうと皇帝と皇后は満足していた。
盟約通り婚約も整え、あとはもう一年ほど待って皇太子とフォスティーヌ嬢の結婚式を行うのみ。
これで次代も安泰だと、やるべきことをやり遂げた、そんな満足感と安堵感が皇帝夫妻に漂っていた。
漂っていたの、だが。
「……お休みの所、失礼いたします陛下」
「む? セラフィーヌ公、どうした」
「我が娘より、緊急の連絡がございまして……両陛下にお伝えさせていただきます」
「そなたの娘か?」
皇帝夫妻は顔を見合わせた。
皇帝夫妻の私室に参上した宰相、ロイク・アダン・セラフィーヌ公爵の娘リュシエンヌ・ノエミ・セラフィーヌ公爵令嬢は皇太子の一つ下の学院生だ。
宰相令嬢に相応しく大変優秀な彼女は、皇族とデュドネ家の姫君以外では、初の女子生徒会長となっている。勿論、前任は皇太子エドゥアールだ。エドゥアールがいなければ、デュドネ家姫君であるフォスティーヌが生徒会長を務める筈であった。
「まさか、学院で何か……?」
皇后が僅かに不安げに呟く。
学院は文字通り、皇族と貴族子弟の為に存在している。その警備は厳重で、王城に次ぐレベルと言っていい。
その為、皇族であっても在学中は学院内での警備をつけないのが慣例であった。それを知っている皇后はまさか、ともしや、の間で揺れる。
「セラフィーヌ公、許す。そなたの娘の連絡とやらを申せ」
常に冷静沈着な宰相の只ならぬ様子に皇帝の声も硬くなる。
「は……」
セラフィーヌ公は、自らの声が震えぬように一呼吸おいて、奏上した。
「恐れながら――エドゥアール殿下が、衆人環視の中、選帝公女フォスティーヌ様とのご婚約を、一方的に破棄なさいました」
「「――は?」」
この日初めて皇帝夫妻は、目の前が真っ暗になるという言葉の意味を、その身をもって体感する事となった。