1-2 誕生日②
2020/2/14 前半加筆修正
2020/2/15 後半加筆修正
現実感が仕事を放棄した光景を前に、当然の如く思考はフリーズする。
亜希が死んでいる。天然キャラを誤魔化すためにエセ天然キャラを演じ、その実計算高そうでポンコツな亜希がそんな簡単に死ぬわけが……。いや、性格要素からは死んでもおかしくないな。四肢がバラバラ――というか四肢自体もバラバラ――になっているし、これで生きていたら逆に怖い。
ダメだ。意味が分からなすぎて、悲壮感が仕事しない。冷静なのかパニクっているのかも判断できない。
どれくらいボケっとしていたのか。視界の端で触手が動いた。
瞬間、俺の目はブラックアウトからのブルーバックを映しだした。
さっきまで家の中――と言っても玄関ではあるが――で発狂してもおかしくない光景を見せられていたのに、今は雲一つないきれいな青空を見上げている。
視線を地上に戻すと、どうやら門扉まで瞬間移動したらしい事がわかる。
体中の痛み等から総合的に考えると、俺が能力者として覚醒した……わけではなく、触手で殴られた結果だろう。俺をまるで野球ボールの如ホームランしやがった犯人……ではなく犯泥男を視界に入れると、触手を宙空で不規則に動かしている。触手は1本しかないのか、俺を殴ったことで詩子が床に打ち捨てられていた。
というか、あれは何をしているんだ? 触手は忙しなく動いているが、体(?)は泥が流動しているだけで他に動きはない。目的はあるのか? 捕食? 『人類に警鐘を鳴らす問題作』とかいう高尚っぽい煽りの物語にありがちな人類殲滅? 日本語は通じるのか? 土下座したら見逃してくれたりしないかなぁ。
ふと、亜希と詩子、そして自分の命すら危うい状況になっているというのに、そんなことを考えていた自分に違和感を覚える。さっきも思ったけど、多分これがパニックてやつなんだろうな。
初めてパニクってるけど、客観視できるくらいの冷静さは残るんだなぁ。
というか妻が殺され、娘も目の前で襲われたというのにこんな冷静でいいのだろうか。
泣き喚きながらあいつに殴りかかるくらいの事をしてもいいんじゃないか?
現実味がない。現実味がないから、行動に移せない。
むしろこれだけ現実味がないのだから、これはきっと夢か幻でも見ているのだろう。
夢でも幻でもこんなものを見るなんて、我ながらドン引きの破滅願望だ。
おれはいちゃラブ派でリョナ趣味なんてないと思ってたのに。
いやいや、大丈夫だ。何一つ興奮できていないのだから、やはり俺にそんな願望も趣味もないはずだ。
取り敢えずは起き上がろう……としたが、体が思うように動かない。ので、仕方なくマッドマンの観察に戻る。やつが追撃にこないのは、死んだものと判断して放置されたのか、それとも見失ったのか。
どちらにしろ、今は死んだふりをして動かないほうがいいのかもしれないな。動きたくても動けないしな。
……生きているかもしれない詩子を見捨てて?お腹を貫かれていたが、致命傷ではないかもしれない。
動いたところで、すでに詩子は死んでいて俺が無駄死にするだけかもしれない。もしくは俺が動いたところで助けられないかもしれない。そして、このまま動かなければ俺は助かるのかもしれない。
しかしだ。生き残ったところで、亜希も詩子もいない人生なんて意味がない。文字通り、2人のためなら死ねるわ、俺。
両親ともに死んだとあっては、詩子には苦労をかけてしまうのだろう。
それでも生きていてほしいなんてのは、親のわがままなのかもしれない。それでも生きている限りはなんとかなるなんていう、そんな都合のいい事を思ってしまうのだ。
うちの天使を(文字通り)傷物にしやがって。あの可愛らしくぷっくりしたお腹に1nmでも傷が残ったら、俺の人生を賭けて一族郎党ねだやしにしてやる。例え傷が残らなくても根絶やしにするがな!
そして気安く詩子に触ってんじゃねぇ。よく見りゃ汚い泥でベトベトじゃねぇか。最近は一緒にお風呂に入ってくれないし、抱っこすら嫌がるくらいだぞ。俺だってベタベタ触りたいのに!
許せない。だからといって、力であの化け物をどうにかできるとは思えない。車で特攻するか?
門扉を出て直ぐ右側に止まっている車を見るが、現実的ではない案だな。
実行するには奴を道路まで誘い出した上で車に乗り込み、十分な助走距離を稼げるまで一旦離れないといけない。しかもこういった場合、エンジンがかからないトラブルに見舞われる事間違いなしだ。
そういえばガレージには洗車用のホースがあるな。頑固な泥汚れも落とせるという、強い水圧への切り替えができるノズルが付いている。それで削り殺せるんじゃないか?奴が100パーセント泥で出来た、不純物のないファンタジー生命体ならそれも可能かもしれないな。外側の泥はカモフラージュで、中身はロボットでしたとかいうSFタイプなら終わるが。
他に思いつくのは、説得、懇願、交渉などなどコミュニケーションが取れることが前提のものだけだ。とりあえず話が通じる相手であるか声をかけて、ダメそうなら水を放出の出番だ。
どちらも失敗したら、自分を囮にしてこの場から引き離す。逃げながら警察と救急に連絡して、現代医学が無双してくれることに賭けよう。
賭け金は俺の命って奴か。やっぱり夢だな、これ。デスゲーム系の映画は趣味じゃないのに、深層心理では憧れてたってか。もうすぐ40歳だぞ恥ずかしい。実はリョナ趣味でしたってよりはマシだが。
気力を振り絞ってなんとか立ち上がる。化け物は……くそ。亜希を咀嚼してやがる!
怒りに任せて特攻したい気持ちをなんとか抑える。詩子を助けるのが優先だ。俺しかいないんだ、冷静になれ。手にはいつのまにかスコップ――門扉脇に積んであった、家庭園芸用品の中にあった物だろう――を持っていたが俺は冷静だ。まずは冷静に対話をしなければいけない。冷静冷静うるせえ! 俺は冷静だって言ってんだろいい加減にしろ!
まずは日本語、ダメなら英語で挨拶だ。きっとこのネゴシエイトを成功させるために、今日まで15年間営業スキルを磨いてきたのだ。無宗教の神よ、お導きに感謝します。
「こんにちは、そしてグッバイこのクソ泥野郎! 俺のハニーを離しやがれ!お前みたいなオブジェオブ汚物が触れていい絶世美人じゃねぇんだよ!」
駆け寄ってスコップを振り下ろしながら、そんな挨拶を投げかける。我ながら完璧な初手だ。暴力と言う名のネゴシエイトを行うのは人生で初だが、こんなにうまく行くとは自分の才能が怖いぜ。
しかし叩きつけたスコップは、轟音と共に弾かれた。泥のようなものだと思っていたオブジェオブ汚物は鉱石の類であったらしい。俺の手に痺れをもたらしただけに終わった。これは水圧殺もダメそうだな。
殴りつけたことによるダメージはなさそうだが、流石に攻撃されたことには気づいただろう。にも関わらずなんの発声もないと言うことは、言語コミュニケーション不可能っぽいな。最終案である擬自餌作戦に切り替えるか。
……初めからそれしかないとわかっていたから、注意を惹き付けるために渾身の力を込めて殴りつけたのさ。さす俺、完璧な流れだ。決して激情に駆られた訳ではないのだ。よし、擬自餌しながら亜希の仇を取る方法を考えよう。その前にもう一発ぐらい殴っとくか。
スコップを再度渾身の力で振り下ろす……事は出来なかった。まるで邪魔な虫を追い払うように触手が振るわれたと思ったら、俺は問答無用で空中遊泳と言う紐なしバンジーを強制されていた。
きっと体が回転しているのであろう。何を映し出してるのか理解できないほどのスピードで景色が移り変わる。回転が落ち着き、上昇力と重力の釣り合いが取れ始めたその時、眼下にマッチ箱以下の大きさに見えるマイホームと庭を捉えた。相当の高さまで飛ばされているが、そんな衝撃を受けてよく死ななかったなぁ。この後の自由落下で間違いなく死ぬのだろうが。
最後の感覚があの嫌な浮遊感になるのか。なんて嫌な死に方だ。飛び降り自殺する奴の気がしれないな。
薄れていく意識の中で、内臓が浮き上がるあの感覚に、せめて漏らしたくないと目と歯をくいしばる。
……おかしい。落下していない? それどころか誰かにお姫様抱っこされてないか、この感触は。
状況を確認しようと目を開いてみたが、殆ど視力がなくなっている。おそらく人であろう形の、顔のあたりに焦点を合わせようと試みる。一瞬だけ、まともに捉えた景色に写っていたのは、「白い羽」「光の輪」と言った言わずと知れた特徴を持った天使ーーうちの娘のことではなく、恐らく本物ーーの姿だった。
「スッゲェ美人だな。ハニーの方が上だけど。なぁ、俺なんかより娘を助けて……」
声はかすれていたし最後まで言うことをできなかったが、俺はそんな遺言と共に命を落とした。体は落とさなかったが。