第二章 それぞれのベクトル/鈍感なのは誰?
今日も今日とて───────
朝起きると、後ろから私の体に絡まる男の人の力強い両腕。
その筋肉質な腕から逃れて台所に立ち、二人分の朝ごはんを作る。
「やっぱ朝はみそ汁だよな〜うっまー。」
私が作ったおみそ汁を食べて幸せそうに微笑む顔を見ながら、お昼に食べるお弁当を二つ作る─────
私達は教師である。
仕事場である桜坂高等学校では一緒に住んでいることはひた隠しにして過ごしている。
授業を終えて職員室に戻ってくると、私の机の上に小さく折りたたんだ紙切れが置いてあった。
「今日はパスタが食べたい。」
放課後……
スーパーで二人分のパスタの材料を買って帰った。
そんな毎日を繰り返し半年が過ぎた──────
「私は嫁かあっ!!」
私達は一緒に住んではいるが付き合ってはいない。
お互い相手にホの字というわけでもない。
どちらかといえば口が悪くて自分勝手でデリカシーもない相澤先生のことは嫌いだっ。
「マキマキ…なにいきなり叫んでんの?」
「だってどう考えたっておかしいでしょこんな状況?!」
「またそれか。おまえが一緒に住んで欲しいって言ったんだろ?」
……言った。
毎晩抱き枕になりますからっ!とも言った。
確かに言ったけど、あの時はお金が無くて藁にもすがる思いだったのだ。
今は夏のボーナスが入ったからお金には余裕がある。
相澤先生なしでも十分やっていけるのだ。
相澤先生は子供の頃から愛用していたイルカの抱き枕が、住んでいたアパートの隣の部屋からのもらい火により焼失してしまった。
その抱き枕の代用が私なのだが、せめてそれだけでもなんとかしてもらいたい。
同じものはもう売ってないらしく、別の抱き枕やイルカのぬいぐるみ等を抱いて寝てみたもののダメだった。
他にも布団を簀巻きにしてみたり、私の寝巻きに綿を詰めてみたり、ダッチワイフで試してみたり……
全部ダメだったのに、なんで私だとぐっすり寝れるわけ?
そのイルカの抱き枕って丸々太っててまるで豚みたいだったとか言うのよ?失礼じゃない?
私、そんなにプニってないよっ?
「とにかく、相澤先生がいると彼氏を家にも呼べないじゃないですか!」
「そんないない男の空想の話をされてもな〜。」
相澤先生が両手の手のひらを上にあげ、バカにしたようにため息を付くのでムカっときた。
「私がその気になれば彼氏なんてすぐ出来ますから!」
「半年間、男の影がチラリともなかったくせに?」
「もし出来たらこの家から出てって下さいよっ?」
「はいはい。俺がおじいちゃんになる前には作れよ。」
相澤先生は晩御飯を食べ終えると、余裕の表情でお風呂場へと向かった。
ムッカ〜!なによあいつ……
男の一人や二人や三人くらい、サクサクっと作って顔面に叩きつけてやろうじゃないかっ!
早速なっちゃんに電話した。
なっちゃんとは田舎から一緒に出てきた私の幼なじみで、二人でルームシェアをする予定だった。
引越しをする直前に彼氏が出来てそっちと同棲してしまったのだ。
まずは出会わなければなにも始まらない。
なっちゃんの彼氏に友達を紹介してもらうのだっ。
「えっとね〜彼の友達はあ、まずプー太郎でしょう?バンドやっててモヒカンの子とかあ、あとバツ3とか〜……」
ろくなのがいねえ……
……てか、なっちゃんの彼氏はまともな人なの?
友達としてそっちの方がすっごく心配になってきた。
出会いってそう簡単には転がってないもんなのね……
「その様子じゃダメだったみたいだな。」
お風呂から上がってきた相澤先生が、リビングでガックリと落ち込んでいる私を見てほくそ笑んできた。
風呂上がりの相澤先生……
少し濡れた髪が頬にかかり、淡く蒸気した体が妙に色っぽくて……
目を逸らそうにもシャンプーの甘い香りが鼻先をくすぐるもんだから胸がザワつく。
ヤダな…今日も私だけ意識してしまう。
相澤先生って、見た目が超イケメンなんだよね。
この半年間、どれだけ無駄にドキドキさせられたか……
「マキマキも早く風呂入ってこいよ。ベッドで待ってる。」
これが彼氏に言われたセリフだったら、今頃目がハートマークになって舞い上がってるんだろうな。
はあ………
学校には男がわんさかいる。
「真木先生おっはよ〜!」
「真木先生おはようっすー!」
私は童顔で親しみやすい性格からか、生徒には好かれている方だと思う。
最近の高校生って、オシャレで大人びた子達ばっかりなんだよね。
まあ、でも……
「先月同じ市内の高校で、生徒と淫らな関係になり懲戒処分になった教師がいました。我校ではくれぐれもそのようなことはないように。」
朝の全体朝会の時に、実にタイムリーなことを言われた。
わかってますよそれくらい。
私だって高校生なんていくらカッコ良くても恋愛対象外だ。
「さっきの教頭先生のお話って、明らかに私達に言ってきてましたよね〜?」
後ろの席の花先生が首をかしげながら話かけてきた。
花先生は私の同期で、お嬢様育ちでとてもおっとりとした天然キャラだ。
「まあ、独身で若い先生ってのがこの学校では私達四人ぐらいだから……」
四人とは私と花先生と、私の隣に座る相澤先生。
そして、花先生の隣に座る桐ヶ谷先生のことだ。
「いえ、私は若くはないので。」
34歳である桐ヶ谷先生が穏やかな口調で否定した。
桐ヶ谷先生は頭脳明晰でセンスも良く、大人の魅力に溢れている。
人当たりもソフトで年齢よりずっと若く見えるし、未だに独身なのが不思議なくらいだ。
「相澤先生は女子生徒からとても人気がありますから…くれぐれも気を付けて下さいね。」
「桐ヶ谷先生こそ…熱狂的なファンがいるらしいから気を付けなきゃいけねえんじゃねえの?」
この二人は仲が悪い……
根本的に馬が合わないのだ。
職場でギスギスした雰囲気になるのはやめて欲しい。
生徒とは考えられないけれど、先生同士なら全然アリなんだよね。
実際、この学校にも職場結婚した人がいるし……
……桐ヶ谷先生か……
何度か食事に誘われてはいるのだけれど、その度にどこからか現れる相澤先生に阻止されている。
俺のクラスの副担任にちょっかい出すなっ!だって。
私は相澤先生の所有物じゃないっつーの。
まあ桐ヶ谷先生も社交辞令みたいな感じであまり本気ではなさそうなんだけど、花先生は一回も誘われたことがないらしいんだよね……
私のこと……本当はどう思っているのだろう……?
斜め後ろにいる桐ヶ谷先生の姿を横目でこっそり見ていると、相澤先生が私の机に紙切れを置いた。
「桐ヶ谷はやめとけ。」
なんでここまで干渉するかな……
隣にいる相澤先生の顔をキッと睨んだ。
私のことを無視するように、涼し気な顔をしてキーボードを叩いている。
ホント、ムッカつく。
私には、相澤先生の気持ちが理解出来ない。
私は料理を作るのが好きだ。
なにも考えずに野菜をみじん切りにするのはストレス発散にもなる。
一人前をちっさく作るより、よく食べる相澤先生の分もたくさん豪快に作る方がやりがいもあったりする。
相澤先生…いつも美味しそうに食べてくれるしな。
今日も食卓には相澤先生好みのおかずが並ぶ。
これを見た時の嬉しそうな顔が目に浮かぶ……
出てって下さいとか言いながら、ガッツリ胃袋を掴むようなことをしてしまっている。
なにやってんだろうな、私……
理解出来ていないのは
自分の気持ちの方だったりする──────
そろそろ帰ってくるだろうからご飯をよそっとこうかな。
サッカー部の顧問である相澤先生は毎日帰りが19時くらいだ。
顧問なんだから見てるだけでいいと思うのに、いつも生徒と入り交じって練習をするもんだから汗だくになって帰ってくる。
「おいっマキマキ!すぐに一緒に来てくれっ!」
帰ってきた相澤先生にいきなり呼ばれた。
切羽詰まったような声に慌てて玄関まで行くと、腕を掴まれて外へと引っ張り出された。
なになになに?なんなのっ?
相澤先生の自分勝手な行動に振り回されるのは今に始まったことではない。
わけも分からず、半場引きずられるようにして連れてこられたところは怪しいネオンが煌めくラブホテル街だった。
「相澤先生…いったいここでなにを?」
「こんなとこですることなんてひとつだろ。」
それはそうなんだけど…こんな勢いで連れて来られるところではないというか……
相澤先生は派手なテーマパークのような建物に迷わず入ると、タッチパネルのボタンをバチンと押した。
見るとウォータースライダー付き浴室と書いてある……
ラブホテルなのにアクティブ過ぎやしない?
「行くぞっマキマキ。」
なんか当然のように私のことをエレベーターに乗せてますけど、ちょっと待て。
なんでこんなことになっちゃってんの?!
こんなとこですることなんてひとつだろって言ってたけど、今から私とそれをするの?
相澤先生…強引過ぎる……
真剣な表情で表示灯を見上げる相澤先生の横顔に、胸がトクンと高鳴った。
……いやいや待て待て私っ。なにまんざらでもないとか思っちゃってんの?
だいたいこんなの有り得ないでしょ?
いろいろ諸々大事なこと、全部すっ飛ばしてるじゃん!
6階で扉が開くと同時に相澤先生はダッシュして行った。
えっ…ちょっと、相澤先生?
「村岡そこにいるのかっ?無事かっ?!」
先程押した部屋番号とは違う扉を叩きながら相澤先生が大声で叫んだ。
……村岡?
村岡さんて確かうちのクラスにいたよね……
とても可愛らしくて成績も良くて品行方正な優等生だ。
「相澤先生。これってどういうことですか?」
相澤先生はポケットからスマホを取り出し、私に手渡してきた。
それには隠し撮りされたような村岡さんの画像とホテル名と部屋番号、そして助けたければすぐに来いと書かれたメールが送られてきていた。
「イタズラかも知れないけど、無視は出来ん。」
相澤先生は再び名前を呼びながら扉を叩いた。
そういうことだったんだ……
確かに男一人じゃこんなとこ入れないんだろうけれど、説明くらいしてくれても良くない?
相変わらず生徒のこととなると周りが一切見えなくなるんだから。
相澤先生が扉のノブに手をかけるとガチャりと音がした。
どうやら鍵はかかっていないようだ。
「村岡っ!!」
扉を押し倒すようにして部屋に入ると、ベッドの上で制服姿の村岡さんが横たわっていた。
口をタオルで塞がれ、手足が紐で縛られている……
「マキマキ、風呂場からカミソリ取ってきてくれっ紐を切る!」
「は、はいっ!」
カミソリを探す手が震える…ただのイタズラなんだと思っていた。
相澤先生が紐を切ると村岡さんの肌には縛られたあとが赤く残っていた。
誰がこんな酷いことを……
「わ、私、警察に電話しますっ。」
「待って真木先生!それはやめて!!」
電話をしようとした私を村岡さんは制止した。
聞けば自分のスマホだけに保存していた画像が知らないアドレスから送られてきて、ネットで晒されたくなければ言うことを聞けと脅されたらしい。
「画像って?」
「あの…彼氏とハメ撮りしてる画像です……」
ハメ撮り……だと?
つまりベッドの上で裸でインしちゃってる真っ最中の……
彼氏は既婚者なので大事にして迷惑をかけたくないのだと、テヘッと笑いながら村岡さんは言った。
なんてこと……
私が村岡さんに恋心を抱いていた男子生徒だとしたら絶対泣く。
「でも村岡さん…また脅されるかもよ?」
「それは大丈夫だと思います。協力さえしてくれたら画像は消すってメールでハッキリと約束してくれてたんで。」
「協力……?」
犯人は待ち合わせ場所に来た村岡さんをこのホテルへと無言で連れてきた。
ダボッとした服装で体型を隠し、キャップを深く被って大きな黒いマスクをしていたので男か女かもわからなかったらしい。
部屋に入ると村岡さんの口を塞いて手足を縛り、そのままなにもせずに出て行ったそうだ……
どういう意図なんだろう……?
犯人がなにをしたかったのかがわからない。
「マキマキ、ちょっと部屋の外の様子を見て来てくれる?」
「……はい?」
言われた通りに部屋の扉を開けて辺りを見渡すと、エレベーターの中でスマホをかかげた人がこちらを伺うようにしていた。
あの人、さっき村岡さんが言っていた犯人の特徴にそっくり……
エレベーターの扉は閉まり、そのまま下へと降りて行った。
相澤先生が階段を使って急いで追いかけたのだが、一階に降りた時にはもうホテルから出たあとだった。
「くそっ…恐らく……俺が生徒とホテルの部屋から出てくるところの写真を撮りたかったんだろうな。」
えっ……それって………
犯人の目的は
相澤先生をはめようとしてたってこと─────?
今はSNSで簡単に画像なんて拡散される。
事実は違うと言ったところで、一度流れてしまった悪評を取り消すことなんて不可能だ。
いったい誰がこんなことを────────
村岡さんが彼氏と撮った画像はつい最近のものらしい。
スマホにロックをかけてはいなかったが、常に持ち歩いているそうなので考えられるとしたら体育の授業中のみだ。
更衣室で制服と一緒に置かれていた村岡さんのスマホから、無断で画像を取り出す……
そんなことが出来て相澤先生のアドレスを知っている人物なんて限られている。
私は布団に入ればすぐに寝れるのだけれど、今日はなかなか寝付くことが出来なかった。
相澤先生も同じことを考えているのか、いつものように私を抱き枕代わりにすることもなく、寝転がったままでじっと天井を見つめていた。
「やっぱり…学校の中の誰かなんでしょうか?」
「俺って愛されキャラだから恨まれる覚えはねえんだけどな〜。」
………愛されキャラかどうかは置いといて。
相澤先生は生徒から絶大な人気がある。
先生達からもなにかと頼りにされていて信頼もされている。
唯一相澤先生を嫌ってる人と言えば──────
まさかね。
桐ヶ谷先生はそんなことをするタイプじゃない。
もしかして逆恨みの方かな?
相澤先生の人気に嫉妬する誰かが村岡さんのスマホを……
……って、見られるかもしれないのにそんな理由でそんな手間のかかることをするかな?
布団の中で悩んでいると私のスマホが鳴った。
見るとなっちゃんからの電話だった。
「マキ〜っ良い人いたよ!私の仕事場の先輩の知り合いなんだけど〜。」
そう言えば良い男がいたら紹介してねとお願いしてたっけ。
タイミングが悪すぎる。
「あのね、なっちゃん……」
「今流行りのIT系の実業家でえ、彼女と別れたばっかで寂しいんだって。性格も凄く優しいし、一途だし、顔も昔マキが好きだったアイドルに激似なんだって!」
タッキー似?!
なにそのヨダレが出そうなほどの優良物件はっ!
「マキのこと話したら興味津々でさあ、今週末会ってみる?」
うんっ!と返事をしようとしたら相澤先生にスマホを取り上げられた。
「悪いけど、男ならもう間に合ってるんで。」
………はい?
相澤先生は無愛想にそう言うと電話を切った。
ななななっ、なに勝手なことしちゃってんの?!
「なんだ彼氏出来たのか!良かったね〜。」
なっちゃんからのメール……
完全に誤解されたあっ!
「相澤先生っ邪魔するのはやめてください!!」
「……マキマキって男なら誰でもいいの?」
「そんなわけないじゃないですか!」
「ホイホイ会おうとしたじゃねえか。」
「出会いがないから良い人を紹介してもらうんです!!」
「彼氏なんていらなくね?」
はあ?いらないわけないじゃん。
なにを言ってるんだこの男は……
「俺はおまえじゃないと嫌なんだけど?」
相澤先生が腕を伸ばして私を引き寄せた。
いつもは私の体に絡めるように抱きついてくるのに……
私の頭を自分の腕の中ですっぽりと包むと、優しく労わるように抱きしめてきた。
「おまえじゃないと、嫌だ。」
それって……
どういう意味────────?
心臓の音がうるさいくらいに激しくなる。
相澤先生はそれ以上なにも言わず…時間だけがゆっくりと過ぎていった……
「……相澤先生……?」
腕の中から見上げると、相澤先生は枕に顔を埋めて寝息を立てていた。
なんだよ……見事に寝てやがる。
「なんなのよ、もうっ!」
意味深なことを言うだけ言って気持ちよさそうに寝てくれちゃって……
結局、抱き枕が私じゃなきゃ嫌ってことだったのだろうか……
ヤキモチを焼かれたのかと勘違いしてしまった。
「……こ…の……」
相澤先生が珍しく寝言を言っている。
「……鈍感まな板ヤロー……」
─────ピキっ。
まな板…だと……?
次の日の朝────────
「誰だ?!俺のおでこに肉って書いたやつは!!」
起きてきた相澤先生が台所で朝ご飯を用意している私に向かって叫んだ。
「そういえばミート君がウロウロしてましたねー。」
「嘘付け!油性で書きやがるから全然消えねえだろーが!」
うるさいっ。
むしろそれだけで済んだことを有難く思え。