09:世界でいちばん綺麗な情景
「有去君、起きて……ユキ君……ようやく着いたよ。ほら、流石に秘境と呼ばれているだけあって、だいぶ入り組んだ道だったけど。なんとか夕日が落ちる前に、チェックイン出来そうだ」
「う、ううん……。あれ? オレうっかり助手席で眠っちゃったのか。ここは、どこだろう? ヒス兄……?」
疲れが溜まっていたのか、アルサルは温泉旅館までの複雑な山道の途中で、車に揺られながらぐっすりと眠ってしまったようだ。いつの間にか車が停車して、隣でずっと運転をしてくれていた兄が優しく懐かしい呼び名でアルサルを起こす。だが、その兄というのは彼が異世界で異母兄弟となったヒストリア王子ではなく、地球での兄だった。
まだ彼は、ユラユラと車に揺られて遠い過去の記憶を夢見ているようだった。
(ユキ君……ゆき、有去、なんだか懐かしい呼び名だ。あれっ……オレの名前ってなんて名前だっけ。異世界に魂が転生した時に前世の名前は忘れちゃったのか。有去……アルサルと書いてユキと読む……それがオレの本当の名前?)
腹違いの端正な兄の顔は、外から射す光線の加減で上手く見えないけれど。白人とのハーフで髪も肌色も色素が薄く、有去と似ていながらも一見兄弟とは気づかれにくい。まるで、お伽話から出てきた王子様がそのまま大人になったような兄は、意外と男らしく芯は強いようだ。
秘境への旅路に最初は強がっていた有去よりも、長く運転して入り組んだ道をグングン進んで目的地まで無事到着。何というか、全てにおいて耐久性に優れている人っているんだと感心。
「ふふっ。だいぶ、寝ぼけてるね。もう目的地に着いたよ……最初は無謀な計画かなとも思ったけど。まぁ間、関西で降りて一泊したし、たまにはこういう旅もいいよね。ほら……ここがお稲荷様がいらっしゃる山だよ。温泉もすぐそこだし……行こう!」
「分かった……ずっと寝ちゃってて、ごめん。すぐ行くから……」
バタンッと車のドアを開けて、夕日が落ちる瞬間の山間をこの目に焼き付ける。自分には故郷と呼べる場所はないけれど、今回の旅行で『兄と旅した2人の思い出』が心に残ればそれが望郷の思いとなる……そんな予感が唐突に有去の胸に降りてくる。
振り返る兄のベージュ色の髪が、夕日を一身に浴びたせいで天使のようなふわっとした『金髪』に見えた。まるで、地上に舞い降りた天使様が、自分に微笑んでいるような錯覚さえしてしまう。
「綺麗だ……すごく、世界でいちばん……綺麗だ」
――この時、有去が『世界でいちばん綺麗』だと感じたのが、果たして『山に落ちる夕日』なのか、それとも『腹違いの兄が心から見せた金色の笑顔』なのかは定かではない。
きっとその答えは、有去はおろか、アルサルにだって永遠に分からない。何故なら、有去もアルサルも自分の『兄への止まない憧れ』をすべて、心の奥の……深く、深くまで鍵をかけて閉じ込めているのだから。
その想いは、決して触れてはいけないタブーとして……。もしくはもう、少年時代のように、素直に甘えられない自分への戒めとして。今日限りで、兄に甘える自分からは卒業して……1年後には紗奈子という『自分にとって世界でいちばん可愛い少女』と新たな家庭を持たなくてはいけないのだ。
大人になりきれない有去は、兄の保護から巣立つことで弱い自分を脱却したかった。『世界でいちばん綺麗な心を持つ兄』のように、誰かに頼られる人になりたかったなんて、きっと誰にも言えない。
「世界でいちばん綺麗か……うん、僕もそう思うよ。この夕日が降りる瞬間に、この山に来れただけでもお稲荷様に感謝だね」
「ああ、オレもここに来て良かったよ。ヒス兄と一緒に……」
* * *
「アルサル、起きて。アルサル! おはよう、意外な近道を見つけてね。もう到着したんだよ」
運転手モードのサングラスを外して、ニッコリと微笑む兄ヒストリアは、どこか悪戯を覚えた少年のようだ。アルサルは、助手席で思わず熟睡してしまった自分を恥ずかしく思いながら目を擦る。
「う、うん……えっ到着? ヒストリア……ごめん、オレ寝ちゃったのか」
「あはは、気にしなくてもいいんだよ別に。実はさ、整備された道が新しく出来ていたみたいで、すんなり通って来れたんだよね。お陰で、時間に余裕をもって温泉に浸かれるよ」
後部座席に座っていた紗奈子も、ドアを開けて身体を伸ばしながら、目的地に辿り着いたことでホッとしたようだ。
「うーん! もう少し、長い旅になるかと思ったけど、新しい道が開通していたみたいで本当に良かったわね。私は、内湯の方を使わせてもらって露天風呂にはいかないけど、2人は兄弟で絶景露天風呂に挑戦するんでしょう? 良かったわね、早く着いて」
「ああ、そうだな。取り敢えず絶景露天風呂っていうのには、関心があるし。兄弟で温泉っていうのもたまにはありか……」
旅館は品の良い日本家屋で、流石は東の都の人達が作っただけのことはある。チェックインのためヒストリアがロビーで名簿にサインをすると、受付の女性がひとこと。
「当館は、リピーターの方に特別なノベルティをプレゼントしております。本日は、ご兄弟で2回目のご来訪ですのでお受け取りください!」
「えっ……リピーター?」
「はい、えぇと……朝田有去様はお兄様と2度目の来訪ですので。我々……魂が見える種族ですから、人間とは認識が異なるのでございます! どうぞ、お受け取りくださいっ」
感じの良い受付の女性は、気のせいか『コンっ』とひと声鳴いて当然のようにリピーター用のノベルティを渡してきた。だが、紗奈子にも「まぁ若くて、可愛らしいお客様! ますます綺麗になれる美容セットをお付けしますね」と、コンコン鳴きながら女性専用のノベルティを嬉しそうに渡す姿を目撃。なので、サービス精神旺盛な旅館だと思い、ヒストリアはそれ以上気にしないことにした。
そして、旅館の顧客名簿の備考欄に、新たな情報としてこう記入される。
――朝田有去様の魂……ご家族と一緒に再び来館……と。
 




