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自己ハグ

作者: 櫻井みや

「そこからじゃ死ねないよ。」

僕は左から聞こえるその声で我に返った。

声のした方を向くと、派手な口紅の女が余裕のある笑みでこちらを見ていた。

「や、やってみないとわからないじゃないですか。」

僕は手すりに手をかけ、遥か下に感じる地面を一瞥して、女を睨んだ。

「わかるよ。」

女は歯を見せて笑った。

「私もやった事あるから。」


大都会の真ん中で死んだカラスみたいに惨めさが蠢く公園で、

暗いベンチに腰掛け、ブラックコーヒーを開ける。

苦い。でも温かい。

さっきまで巡ることを忘れていた血液が少しずつ流れ始めたようだ。

一口飲んだ僕を見て、

隣に座る女は自分のココアを開けた。

「聞かないんですか?」

「何を?」

「どうしてあんなことしようとしたのか、とか。」

「聞かないよ。」

女は熱いココアを口の中でまろやかになるまで転がすと、ゆっくりと飲み込んだ。

「ありふれた不幸話なんて興味ないもん。」

自殺寸前の追い詰められた人間に慰めの言葉一つ言わない女に、僕は腹立たしいような救われたような複雑な思いを抱きながらこう言った。

「じゃあなんで、こんな場所に連れて来たんですか?」

すると女は突然立ち上がり、仄暗い街灯の下に歩み出てこう言った。

「君にすこぶる大事なポーズを伝授しようと思って。」

女が両手を広げるのと同時にココアがぴちゃっと跳ね上がった。

「は?ふざけてるんですか?」

呆れて帰ろうと、立ち上がって背を向けた僕を、

後ろからいきなり両腕で抱きしめて、女は静かに呟いた。

「大事なポーズを教えると言っただろう、青年。」

女性特有の柔らかな温もりと甘い香りを感じて、

僕はもう少しこの女に付き合うことにした。


「まず、両腕を自分の胸の前でクロスするでしょ、

それで両肩を両手で掴むの。

そしてギュッと両腕を締めてごらん。」

僕は女のする事をそのまま真似てみた。

「なんですか、これ?」

女はニヤリと笑って

「自己ハグ」と言った。

「今君が抱きしめているものは、

この世で君にとって一番大事なものだよ。」

意味がよくわからない。

「僕の体って事ですか?」

僕は特に興味もないけど聞いてみた。

「うーん、間違ってはないけど、そういう部分的な捉え方じゃなくて、君の体も心も感情も思考もぜーんぶ。」

さっきまでの気だるい雰囲気の女が一生懸命話すのでつい、

「僕自身って事ですか?」

と自己ハグとやらを真似ながら、僕は自然と尋ねてしまった。

「そうだね、世界がどんなに君をいじめてきても、

そこから君を生かすも殺すも君にしか出来ない事なんだよ。

だから、君は君自身を全力で守る権利がある。

それならいっそ、死ぬほど自分を大事にしてみないかい?

だからまずは自己ハグ。」

ギューっと自分自身を抱きしめてみせながら女はそう語った。

僕も流されるままギューっと自分自身を抱きしめてみた。

するとなんだろう、よくわからない。

よくわからないけど、涙が溢れた。

僕はしばらく女のするように、

僕自身をギューッと抱きしめ続けた。


空が白んで来た。

薄明るい公園の出口で僕は女に尋ねた。

「あなたは飛び降りて、何の後遺症もなく助かったんですか?」

女は今まで見せた中で一番優しい笑みを浮かべて、

「あー、あれはウソ。

あたしはこっち」

と言って、セーターの袖口から左手首が見えるように腕を上げた。

スッと右下がりの筋が左手首を走っていた。

「じゃあね、もう2度とあたしと会わなくてもいいようにするんだよ、青年。」

女はさらに左手を高く上げて左右に大きく振りながらニッコリ微笑むと、

ダウンコートを翻して去って行った。

何だったんだ、あの女は。

僕はクスッと笑って女とは反対の方向に歩き始めた。

たまたま目に留まった訝しげな店の電光掲示板に、

「今宵女神降臨!」と文字が流れた。

自己ハグは長期にわたって行うと、少しずつ自己肯定感が上がってくる可能性のある方法ではありますが、即効性はありません。


日常生活で希死念慮が生じ、繰り返し自殺企図したり、自傷の衝動がおさえられなく感じている方は、早めの医療機関の利用をお勧め致します。

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