俺たちゃバケモノ♪ 俺は人間♪
疲れた人も、元気な人も寄っといで。……自分は大事?
夢も希望もない、疲れきった男が家に帰った。
「……ただいま」
安アパートの二階、軋んだ音を聞きながらドアを開けて、誰にともなく言った。
鞄を放り出し、ネクタイを緩めて洗面所に向かう。足の踏み場もない……最後にまともな休日をとれたのはいつだったか。
「……」
鏡を見る。
家を出るとき、帰ったとき、男が必ず行うルーチンワークだ。
汚れた襟、伸び放題の無精髭、明かりを受けてテラテラと光る髪。……酷い顔色。
「お前、なんで生きてんだ?」
鏡の中の男と目を合わせ、一言。馬鹿らしい独り言。男は、苦笑と溜め息を漏らし目を閉じて、服を脱ぎ捨てる。明日も早い。
勝手知ったる我が家、布団に潜り込むまで目を閉じていた男は、だから気づかなかった。
鏡の中に、目を閉じた彼の虚像が、まだ映っていたことに。
不意に、鏡の中に、もう一人、いやもう一体が映りこんだ。
二メートルに届く骨太の巨躯。逆立つ毛髪、エナメル質の皮膚。およそ人外の風貌に浮かべる、嗜虐的な笑み。
その異形は鏡の中で佇む男の肩に手を置いて声をかける。
「おい、起きろよ兄弟」
「う、うぅ……」
虚像の男が目を開く。夢を見るようなその視線。顔を覗き込んでくる異形を前にしても取り乱すことはない。
「ああ、なんだお前、コスプレ? ここ、俺の部屋か……なんだお前」
「俺のことなんざ、どうでもいいじゃねえか兄弟、誕生祝いだ。空の旅に連れてってやるよ」
「は? だから、なに言って……は!?」
異形が翼を開いた。片翼だけで直径が三メートルはある、蝙蝠のような皮膜の翼。
今や両肩をガッシリと捕まえられた男も、流石にこれには慌てた。
「おい! おい! 室内だぞ!」
「ツッコムところはそこでいいのか兄弟。……心配は無用さ、なんせ俺たちゃ……」
「うおおおーーー!? 離せバケモノーーー!」
「そう! バケモノさ♪」
異形の体と同じエナメル質の光沢を帯びた翼が大きく羽ばたき、二人の体が浮き上がる。
当然の衝撃を予感して目を閉じかけた男をよそに、天井をすり抜けて、二人は夜空へ飛び出した。
「は、はああーーー!?」
「はーっはっはっは! なんてラブリーな夜だ♪」
夜風を切って飛びながら、見上げる空を見て、男は今日が満月であることを初めて知った。
「ほれ、そんなにお月様が好きなら、どーん!」
「あ、うわぁーーー!?」
何を思ったか、異形は高速で飛行するその慣性エネルギーに任せて、男を夜空へ、月へと向けて放り出した。
男の視界一杯に広がる、美しい満月。月面のクレーターさえもよく見える。今夜、何度目かの死の覚悟を固めながら、クソったれな人生だったけど、最後の光景がこれなら、悪くはないと思った。
「へい、へいへーい、兄弟、なぁに悔いのない良い顔しちゃってんだよ」
「黙れバケモノ。……人が最後の感慨を噛み締めてるところにしゃしゃるな。……でもそうだな、お前に感謝してもいいような気分で……」
「いや、死なねーよ兄弟、死ねねえよ兄弟。もっかい目を開けてみろって、今のあんた、落ちてる? もしもーし?」
「……は?」
そう、落ちてない。
気がつけば男は、万有引力など知らないとばかりに浮き上がり、月をバックにニヤニヤと嗤う異形を見上げていた。男は、こう理解した。
「いい顔だぜ兄弟。まるで訳わかってねーのがマジでウケる。もっかい言おうか」
「……おう」
「ハッピーバースデー♪ ラブリーな月を愛でようぜ兄弟♪ 俺たちゃバケモノ♪」
これは、夢だ。
太陽が上る。……夢は覚めない。
ふよふよと、風に乗って街を行く。この異様さに誰も気づく様子もない。
「なあ、どこに行こうってんだよ兄弟」
「うるせー、着いてくんな夢、夢野郎、この悪夢め。会社だよ会社」
「はぁーーー!? なにが悲しくて、んーなツマンネーとこに行くんだよ?」
「生きるためだよ。卑しくも社会の歯車たる人間はな、行きたくもねー場所に行って、下げたくねー頭を下げねーと生きていけねーの」
異形の目玉がギョロリと動き、男を見る。
男の目は鬱々と暗い光を宿し、目の前の現実を……目の前の夢を理解することを拒んでいるようだ。
「……まあー俺たちゃバケモノ。自由がもっとーさ。行きたいとこに行って、やりたいことをやりゃーいい。会社とやらに行きてーなら、俺は止めねーけどよ」
「分かりゃいい。……会社、会社行かねーと」
ぶつぶつと呟きながら進む男を追いかけながら
、異形はポツリ、と。
「おもしれーな、全く……笑うしかねーや」
男はいつも通りの時間に会社へ入り、いつものフロアのいつもの部屋のいつものデスクを占拠した。
違うところがあるとすれば、ここまで来るのにエレベーターどころか階段もドアも使わず、足さえ動かさなかったことと、誰にも認識されていないことくらいか。
「……そういや、あいつ居ねーな、あいつ」
「は、誰のことっすか部長」
「あいつだよ、あのバカみてーに仕事が遅いやつ。なんていったっけ、名前忘れたけど」
「……ああ、あいつ。そういえば来てませんね。バカみたいに真面目で早く来て遅く帰ることしか、取り柄がないやつなのに」
「実際バカだけどな」
男は、いつも通りデスクについて、パソコンの起動に挫折していた。
「おい、バケモノ。俺の手、パソコンすり抜けるぞ、どーなってんだ」
「……パソコンの感触を想像しながらやりゃーいける。それより兄弟、言われてんぞ」
「いーのいーの。いつものことだから。部長と先輩のあれは」
「…………へぇ」
部屋にあるデスクに空席はない。
誰も彼もが生気の抜けた顔で画面を見つめ、キーボードを叩いている。……部長達の話が聞こえているのかも怪しい様子だ。聞こえていても変わらないだろうが。
「あー、ちょっと押しつけ過ぎたかな、どう思う?」
「あいつ、顔色も変えないで、出来ます、やれます、大丈夫です……ってやつですからね」
「だよなー。あいつの責任だよなー」
二人は、手を動かさず話に花を咲かせている。他に聞こえる音といえば、指とキーボードが鳴らす乾いた打音と微かな衣擦れの音。
「おい、兄弟」
「なんだよバケモノ……お、触れた。助かったよ。急ぎの案件ばっかでよ……」
「今すぐ手ぇ止めてこっちを見ろ……」
「なん……だよ」
常に陽気なバケモノの、今まで聞いたことの無いようなドスの効いた声。
思わず見上げたバケモノの瞳は、ギラギラと熱した木炭のように赤く重い光を放ち、その髪は逆立ち、風もないというのに激しい感情を表すように揺れていた。
「悔しくねぇのかよ」
「……な」
なんだよ、いきなり。言い返そうとする男だが、異形の瞳の底に在る感情を理解するほど、固まってしまうのだ。……これは、怒り?
「ムカつかねーかって聞いてんだよ。バケモノにだって分からーな。ここはクソ。あいつらはクソ。……じゃあ、こんなとこで黙って使われて、下げたくねー頭を下げてる兄弟はなんだよ、虫けらかなんかかよ」
「だ、黙れよ……仕方ねーだろ」
「いーや黙んないね」
異形は男のデスクに乗り、震える両拳を振り回し叫んだ。
「仕方ねーなんてな、人間の理屈だ! あー仕方ねーかも知んねーな! 生きてくためだもんな! だが! バケモノには関係ねーぜ兄弟!」
「はぁ!?」
「分かってんだろ!? 兄弟はもう人間じゃねえ! 誰にも見えない! 触れられない! 飯も要らねーしクソもしねー! あそこでふんぞり返ってるクソったれ共を、ぶっ殺してやりゃあいいんだ!」
「はあぁ!?」
男はデスクから文字どおり飛び上がった。居場所を求めるように後退し、部屋の隅で抗弁する。
「出来るわけねーだろ!」
「出来るぞ」
「許されるわけねー!」
「関係ないね」
「人として、やっちゃだめだ!」
「人じゃねえ」
「あと……えっと……」
「おう、言い訳は全部か兄弟」
「……」
「弱ぇな、弱い。なんでそんな弱ぇ言葉しか出ないか分かるか兄弟」
「……なにを」
「分かってるんだよ。兄弟は本当は分かってる。無理やり圧し殺すのに慣れちまって、変わるのが怖いんだ」
「黙れ!何を言ってやがる!」
必死に声を荒らげたのは、最後の抵抗だったのだろう。認めたく無かったのだ。バケモノの瞳に見た怒り。それは正に、鏡に映した自分自身のものだということを。
「よし、じゃあ見てろや兄弟」
「おい、何をする気だよ、やめろ……」
「やめて欲しいのか? 本当にそうか?」
異形は背を向けると、大股で部長の方へと近寄った。未だ調子よく会話を続ける二人をなめるように見て、先輩社員の襟首を掴み上げた。
「それウケる、もしかしたら、死んでるかもですよねー……ぐっ!?」
「おい、おい!? どうした!? なんだぁ!?」
見えないバケモノに振り回され、壁に叩き付けられた事実を、本人と部長はどう認識しただろう?
「こうやってよっ」
「ぐえっ!?」
「蹴っても、殴っても、殺してもいい!」
「ぎゃあ!?」
「それが俺達!」
「ゆ、ゆるひ、で……」
「俺たちゃ……」
「……ひ、ひぃ」
「バケモノー♪」
もしも「まとも」を嗜好するならば、楽しげに先輩を甚振る異形を、男は即座に制止すべきだったろう。
だが、男は動けなかった。心が認めていたのだ。自分の本心を。本当の自分の形を。今すぐにでも、代わってぶちのめしてやりたいという、滾るような怒りと興奮を!
「おう、どうした兄弟、どうしたどうした」
「……あ?」
「嗤ってるぜ、兄弟」
「……そうか、俺は、嗤ってるのか」
男は狂乱の巷に降り立った。先輩はもうボロ雑巾だが、メインディッシュが残ってる。
その日、男の職場は血で染まり、男は肩の荷を一つ下ろした。
はーっはっはっは! はーっはっはっは! はーっはっはっはぁ!
耳障りな笑い声が、夜闇に包まれた街にこだまする。男が、それが自分の声であることに気づくのは、一頻り腹を抱えた後のことだ。
「ご機嫌だなあ兄弟!」
「ああ、サイッコーの気分だぜ! 俺は無敵だ! なんでもいい! もう、何もかもが、どうだっていいんだ! これが笑わずにいられるかよ、兄弟!」
「……! おう、その通り!」
あれから男と異形は、遊びに遊んだ。金銭だとか、常識だとか道徳とか、そんなものは関係無かった。
一段落して、どんなビルより高い場所で街を見下ろして、やけにちっぽけだな、なんて感慨に耽りながら、男は少しばかり、バケモノと会話をしてみることにした。
「ありがとな」
「ああ? なんだよ気色わりー兄弟だな、だからなんの礼だよ」
「俺はよ、自分が死んだって認めたくなかったんだな」
「はあ? なに言ってんだ」
「まあ聞けよ。お前、見た目がまんま死神だろ? 俺はそれこそクソみたいな人生だったけどよ、やっぱ死にたくなかったって思うわな」
「……おい」
「あの晩、俺は心臓発作かなんかで死んだんだろ? 俺は悪霊になって、呪いかなんかに目覚めたわけだな」
「……いや」
「んで、お前は悪霊コミュのボスで、新入りを迎えに来たって感じ……」
「……おい!」
男は突然叫んだ異形に顔をしかめる。
「なんだよ、デッケエ声だしてよ。多少は違ってもどうせ、大体こんなもんだろ、なにも怒鳴ること……」
「怒鳴りもするぜ。おう、兄弟が死んだってなんだよ、生れたてホヤホヤだろうがよ」
「……ああ、だからそれは悪霊として新生みたいなことだろ? 人間としてあの晩、俺は死んだから今、こうして……」
「いや、死んでねーよ? ……あ、死んでるかも知れねーけど、少なくとも、あの晩は死んでねー」
「……なんだって?」
見詰めた異形の態度に、嘘の匂いも、後ろめたさも欠片もない。いつも通り無邪気で陽気な口調で付け加える。
「だから、あの晩に、兄弟を造るために魂を引っこ抜いた人間の話だろ? まだ死んでないと思うぜ? ……多分だけど」
そこから、どうやって我が家に帰りついたのか、男には分からない。
壁をすり抜けるのも慣れたもの。転げるように自分の部屋に飛び込むと、そこには薄汚れた布団で静かに寝入る「自分」がいた。
「これ……俺だ」
静かに寝入るしか出来ないというほうが正解かもしれない。男が見下ろす「男」は、か細い、隙間風のような呼吸を繰り返し、暗い部屋で分かるほど顔が青い。……明らかな死相だ。
「……おい、兄弟」
「なんだ兄弟」
静かな、感情を殺した声で問いかける男。あくまでも飄々と応える異形。
「なんで、こうなってんだ、俺」
「あの晩、俺はいつもみてーにグルグルうだうだ、この世を巡ってたよ。したら、今にも死にそうな野郎が歩いてるのを見つけた」
「……ああ、俺か」
「そう、そこで青くなってるやつな。自殺でもするならいい見せもんだ。もしも失敗するなら、手伝ってやらなきゃいけねー。それが世の情けってもんだろ?」
「テメー……いや」
怒鳴りつける気にならなかったのは、短い付き合いながらに、異形に悪意など無いことを男は知っていたからだ。……悲しいまでに、違うだけで。
「そいつがさ、それこそ死にそうな顔して鏡見て、ぶつぶつ呟いてる時さ、ピンときたよ。……あ、コイツ、仲間に出来るぞって!」
「……」
「俺はさ! 今までどれくらい漂ってきたか忘れたぐらい長いなかで、あんなの初めてだし、これからも多分もう、有り得ねえ! だから!」
「……ああ」
「……だから! おうよ、引っこ抜いてやったよ、コイツの核、魂! それが兄弟で、それでこうよ!」
「……俺は死ぬのかよ」
「いや、死ぬわけねーだろ? 俺も死にかた探してるくらいだぜ……あ、コイツ? さあ、死ぬんじゃねーの? 一番大事なもん無くしたんだし、勘だけど、助からねーな」
「……どうやったら、助けられる?」
「そりゃ、兄弟をもう一度コイツのなかに戻せばすぐ……おいおい」
異形の目玉がギョロリと動き、男を見る。
非人間の輝きを宿して、男の心底を覗こうとするかのように。
「バカなこと考えるんじゃねーぜ兄弟。コイツに戻ってどうすんだよ。腹は減る、疲れる、なんもできねーしクソも出る。……生きるためとかのために虫けらに成り下がる気かよ」
「……ぇ」
「さっきは俺に感謝してたじゃねーか兄弟。もっとしろ。クソみたいな人生とも言ってた。未練はねえじゃねーか」
「……せぇ」
「お互い楽しく、何より気楽、うぃんうぃんってやつで……ん、なんだって?」
「うるせえぇーーー!!」
男は叫んだ。今までのどんな悲鳴より怒りより大きな、必死の叫びだ。
「うるせえ! うるせえ! うるせえ! ほおっとけ! 黙れ! 黙れ!」
「お、おい、兄弟……」
「分かってる!」
異形は口をつぐんだ。
「俺だって分かってる! 人間に戻ったら、またあの、地獄みたいな、クソみたいな人生が待ってる! 部長達を半殺しにしたくらいで解決したなんて思っちゃいねー!」
これまでどんな不可思議にも、なんだかんだ順応してきた男が、泣いていたからだ。
「分かってる。分かってるけど、見捨てられるわけがねーだろ! 俺が、自分が、目の前で死んでくのを!」
「……そうなのか」
「だって、俺だけだ。この世界で、この世の中で誰がコイツを分かってる? 誰がコイツを分かってやれる?」
「……」
「俺だけが、コイツがどれだけダメで、不器用で、どうしようもないか知ってる! 俺だけが、コイツがどんだけ弱いか知ってる! ……俺だけが、それでもどれだけ歯を悔い縛って、頑張ってきたか知ってる」
「……おう」
「だから、頼む。俺を戻してくれ、助けてくれ。……苦しくても、耐えきれないほど、辛くても……法とか正義とか道徳とか捨てちまって、人間として失格の俺だけど……」
男は、男を庇うように歩み出て、異形をにらみつけた。
「俺は、俺だけは捨てられねえ!」
「……おう、今度は嘘も誤魔化しもねーと来たもんだ」
異形は、その大きすぎる目を一度閉じ、そして開いた。
「俺の負けだよ戻してやる。……ただし、なんぼか文句つけさせろよ」
「なんだよ」
男の体が、細かく光る粒子と化して、「男」に吸い込まれていく。
「兄弟は人間失格なんかじゃあねえ」
「……あ?」
「殺してもいいのに、半殺しで済ませてた。なんでも出来たのに、誰にも迷惑かけずに、見たり覗いたり、はしゃぐだけ」
「……」
「人間にしとくにゃ、惜しいくらい、お人好しだと思うぜ」
「ほっとけ。……あとは?」
もう、ほとんど消えかけている男に向けて、異形は言った。
「楽しかったぜ兄弟、せいぜい後悔しながら、頑張れや」
「……おう、あばよ兄弟」
朝日が、夢の終わりを告げていた。
「……うし」
シャワーを浴びて、汗まみれの体を洗い、冷蔵庫の中身をかき集めてどうにか腹を満たして、トイレにこもる。……全く人間は面倒くさい。
「行くか」
まだまともな方のスーツを着て、男は家を出た。素知らぬふりして仕事に混ざるか、勢い任せで辞めてやろうか、なんて考えながら。
ふと、振り向いて空を見上げる。……当然ながら誰も、なにも見えない。
「……俺はーバケモノじゃーないー♪」
歌いながら歩き始める男には、夢も希望も、正義も道徳もない。だが、どうにかやっていける。
「俺はー、人間ー♪」
彼には、自分があるからだ。
さあ、鏡を見て下さい。……見えないといいね。