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十分程後、ボクはまた美術室にいた。
「ほう、この絵はなかなか上手いじゃないか」
隅に片付けてあった、松井遥先輩の絵を勝手に覗きこんで、ドーナツのおっさんが関心している。
「もう遅いから、なるべく簡単にすませよう」
そして目の前には、椅子を反対にして座りボクを直視する、ゲーム・スフィアの先輩。
さっきの出来事について確認と説明をするため、落ち着いて話せる場所を所望されたのだ。
「まずは、自己紹介。わたしの名前はアラヤケイ。苗字が新しい谷で新谷。名前が東京の京と書いてケイ。お父さんの後を引き継いで私立探偵みたいなことをやってる」
現実世界で、私立探偵を生業にしている人に合うなんて夢にも思わなかった。
「で、あっちのおじさんは、市役所のイソウ対応局に勤めているコウさん。わたしの相棒くらいに思ってもらえば、問題ない」
公務員だったのか。先生っぽいはずだ。改めて視てみたら、芳美先輩の絵の前で首を傾げている。
「少年。なんで、この向日葵は長靴から生えてるのかな」
「あ、用事がなければ無視してもいいから」
もっとも、その質問の答えはわからないけれど。
「で、君の名前は?」
流石に耐え切れなくなって、ボクの視線は逸れ、右手はポケットの懐中時計に逃げる。
「僕の名前は、十六十一二三です。漢数字で十、六、十と書いてナユタ、ヒフミも漢数字で、一・二・三です」
「十、六、十でナユタ。変わった苗字だね」
新谷先輩は、スマホをフリック操作するみたいに、掌へ素早く指でなぞる。
「十の六十乗でナユタか。ちなみに僕の苗字は阿僧祇で十の五十六乗だ。どおりで鼻から上が似てると思ったら遠い親戚だったのか」
「全然似てないから」
美術室探検に飽きたのか、阿僧祇氏は新谷先輩の後ろに立っていた。
「じゃあ、自己紹介は済んだことだし、コウさんは無視して単刀直入に聞こう。さっきのあれは、自分でやったのかな。それとも誰かの仕業?」
新谷先輩の猫に似た眼が、すうっと細められた。
「たぶん、自分でやりました」
「たぶん?」
「物心ついたころからよくあったんです。自分や身の回りの何かが、世界と違う時間の流れにズレることが。でも、意識してそうさせることはできなくて」
この事を話したのは、死んだじいちゃんに相談して以来だ。両親が知っていたのか、姉さんが知っているのか、それは分からない。
「差し詰め、右のポケットに入っているのは、その力の制御装置ってとこかな」
先輩の視線が、レーザーポイントするように右に少しずれた。
「制御装置ってほど大それたものじゃないです。ただ、これを触っていると、秒針の振動が伝わってくる気がして、落ち着くんです」
ボクは、ポケットから懐中時計を取り出した。銀色のケース、アラビア数字の文字盤、シンプルな竜頭、機械式って以外に取り立てて特徴はない、じいちゃんにもらった時計。
「落ち着くと、その力が出にくいの?」
「はい。逆に言えば、ストレスを感じた時にはなりやすいです」
「天然だな」
阿僧祇氏が、呟いて何度も頷いている。
「天然って」
ボクの告白を、妄想の類だとでも言いたいのか?
「あ、誤解しないで。天然ってのは、わたし達の間で、玩具を使わずに能力を使える人間の事だから」
感情が顔に出ちゃったのかな? 新谷先輩が、弁解するように補足してくれた。
「玩具ってなんですか?」
多分、名前そのまま、おもちゃを指すのじゃないはず。
「わたし達が、セカイを望むとおりに観測するための道具だよ」
「僕の玩具はこれ『ランドルトリング』」
阿僧祇氏が、芸能人の婚約会見のように手の甲を向ける。人差指に銀色の指輪がはまっていた。ボクの懐中時計並に装飾がない。
「こいつを指にはめると、輪状の物体の穴からセカイの歪みをノゾクことができる。覗き見る方のノゾク。取り除く方のノゾク。どちらもだ」
「あの、黒い球体が、その除いたものですか?」
新谷先輩が応える。
「そうだよ。あれは、君が時間の素『時』を集めてつくった歪みを、わたしの玩具『シンク・スフィア』で改変してできたムの塊」
ちなみにムとは、無情の『無』で、『時』は、それと排斥の『斥』の、二つの状態に分けることができるそうだ。
「さて、これで、大体の確認と説明は済んだかな」
ボクは黙って頷いた。
イソウ対応局の「イソウ」。そしてセカイ(世界?)。まだ、分からないことはあるけれど、かなり夜も更けた、帰らなきゃ、だ。明日も学校は休みじゃない。込み入ったことは後で聞けばいい。っていうか、これ以上深入りしない方が、身のためな気がする。
「よし、じゃあ、改めて十六十くんには頼みたいことが有るんだ。協力してくれる? 貸しがあるから断れないよね」
うっ、実は美術室に入って落ち着いてから気になっていた。助けてもらったお礼はどうしたら良いのだろうと。特殊な事情だったから、お金で解決するとしたら、かなりの高額を請求されるだろうとは思っていたけれど。まさか、仕事の手伝いになるとは。
「ちょっと待ち給え。協力って、僕は反対だぞ、部外者を巻き込むのは」
まさかの阿僧祇氏の助け舟だった。この人だったら、絶対、面白半分で賛成すると思っていた。
「ほら、彼が自転車で磔になっているのを発見する直前にしてた話覚えてる?」
「『商業での捜査にうってつけの強力な助っ人』ってのが、この少年だと?」
「彼には、朝と夕方の二回、偶然に会ってるんだけど、まるで雑にフィルムを繋いだ映画のような動きがみられたんだよね。心当たりあるでしょ」
朝、可愛いなって、まじまじと観察してしまった。夕方、スカートが捲れたのを凝視してしまった。きっとそのことだ。バレてた。顔が暑くなる。ボクは言葉にこそしなかったけれど、明確な返事をしてしまった。
「あれで、なんとなく気付いちゃったんだよね。十六十くんが『時』を玩ぶ術をもっている事に、で、目をつけてたんだ」
「確かに、シンク・スフィアと時間を止める力が手を組んだら鬼に金棒だ。しかし、少年はまだ、能力を使いこなせていないそうじゃないか」
「それは、追々、練習していくとして。学校内に協力者がいるのも大きなメリットでしょ」
「ま、京ちゃんにコスプレ潜入捜査をさせ続けるのは、限界があるか」
「でしょう。わたしも、いい年してこの格好は、正直恥ずかしいんだよね」
えっ、「いい年」って、新谷先輩何歳なんだ。じゃなくて、なんか、本人を差し置いて話が纏まってきていないか?
「よし、分かった。上には掛け合ってみよう」
ちょっと阿僧祇氏、もっとちゃんと反対してくれないと。
「あの、まだボクは、協力するとは言ってないんですけど」
「えっ、じゃあ。ちょっと待って」
新谷先輩は、意外そうな表情でスマホを取り出す。何やら阿僧祇氏と相談を始めた。適度に操作した後に見せてくれた結果は。画面に計算機のアプリが起動され、ちょっと大きめな桁数の数字が表示されている。
「これ、さっきの仕事の報酬。学割価格にはしてみたけど、大丈夫? 払える?」
「端数の百三十円は負けられないぞ。ドーナツ代として是非支払って欲しい部分だ」
丸一年分の小遣いを前借りすれば、決して工面できない金額ではない。でも、そうまでしてお金を払うよりは、仕事に協力する方が簡単な気がする。それに――。
ボクは視線を、目の前に座る女性のスマホ画面から、白く細い指、微笑を浮かべる唇と辿り、焦茶色の虹彩の瞳で止めた。
それに、仕事を手伝うなら、この人と会うのが偶然じゃなくて必然になる。
「分かりました。協力します」
「では、早速。と、行きたいところだが。イソウ対応局の局員として、少年をきちんと作業者登録したい。明日の放課後から頼むよ」
阿僧祇氏が横に立ち、右手を差し伸べる。握手のためと受け取り、握り返すと、白く細い指が重なった。
「じゃあ、明日からよろしく」
「あ、はい」
握手は、ものの数秒で解かれてしまった。けれど、ボクの手はプラスチックの鎖を巻かれたように動かせなかった。甲が暖かい。
「そうだ、一緒に仕事をするとなると、十六十くんの能力に名前が有ったほうが便利だよね」
まあ、いちいち、「時を玩ぶ」とか「時間の流れをズラす」とか言っていたら面倒かも。
「時間を止める能力じゃなくて、時間の流れから切り取る能力なんでしょ。だったら、こんなのどうかな『トリミング』」
おわり
第二話 『夕焼け図書室』につづく