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記念館とジョリ棟の隙間は、わずか五メートル程。高めの建物に挟まれているから、真っ昼間でも薄暗い。しかも、ビル風なのか、変なタイミングで強い風が吹く。だから、通路にはなっているけれど、女子はほとんど通らないし、男子も用事がなければ通らない。そして、ここを通らなくてはいけない用事なんて、まずない。
ジョリ棟の真ん中、高さ四メートルほどの位置に、そのキズはあった。印象的には右から左へ斜め下に大きな刀で斬りつけたような形。真下には、パイロンでコの字を作るように、規制線が張られていた。
キズには明らかな不審点がある。上の部分はガラスなのに割れていない。下の部分はコンクリートなのに崩れていない。こんな、異なる材質に一体化したキズがつくことってあるのかな? 位置だって変だ。どんな巨人が、どんな刀を使ったら、この高さにキズを付けられるんだよ。
本当に、警察はあっさり引き下がったのか?
近寄りがたい超常の力を感じる。だけど、もっと現実的な恐怖である永田先輩の叱責も侮りがたい。写真だけでも取っておこう。懐中時計が入っているのとは別のポケットから、スマホを出す。
キズがいい感じに画面に収まらないな。スマホのカメラって、ズーム機能が無いんだ。意外と不便だ。なんて悪戦苦闘をしている姿は、傍から見るとさぞ怪しかったんだろう、左手方向から詰問するような声がした。
「何やってるの」
んっ? この声どこかで。
タイムリミットが迫ったゲームBGMの様に、心臓が忙しなくリズムを刻みだす。
声のした方を見た。朝の迷子の先輩だ。と、認識できた瞬間、例の「変なタイミングの強風」が吹き荒ぶ。
下から上へと巻き上がる風。無防備に仁王立ちしている女子。膝上しか無いスカートの裾なんかひとたまりもない。無邪気な子犬のように風に突進され、スカートはクラゲ状に変形した。
翻る布。露になった太もも。白く輝くそれは、少し細めなのにもかかわらず存在感を発揮して、ボクの目と心を射る。
が、そこまでだった。
あと一歩。肝心な部分が現れる前に、腰にあった両手が布クラゲを押しつぶしたのだ。
無念。心の底から悔しい。
そんなボクを見透かしたような先輩の声。
「わたしに何をしたの」
やましいことは何もしていない。けれど、いやらしい想像をしてしまったのは間違いない。しかも、手にはカメラモードにしているスマホまである。
鼓動が、耳元でうるさい。
「そうだな。取りあえず、その手のスマホを確認させてよ」
怒ってはいないみたいだ。声と表情はそう見える。でも、逆らえない圧力だけは伝わってきた。
「あ、あの、ボクはただ、先輩たちに――」
言い訳しようとするボクを無視して、謎の先輩は、右手を出してにっこり笑った。
「へ、変なものは撮ってませんから」
言葉では逆らってみたけれど、結局そこにスマホを置く。すらっとした細い指がそろった、小さな手のひら。
「うん、本当だ。あのキズしか写ってない。っていうか、写真、これしか無いんだ」
先輩は、勝手にブラウザを起動して履歴を確認してしまうようなマナー違反をせず、スマホを返してくれた。
「あの」
もっと、いろいろ責め立てられるのを覚悟していたのに。
「もう、帰って良し」
「はあ」
今こそ、朝の失敗を挽回するチャンス。名前を訊くんだ、自分。否々、そんな空気じゃないだろう。ボクは、すごすごと記念館の階段に向かわざるを得なかった。
「あんまり、このキズに関わらないほうがいいよ」
先輩の声が、追い打ちをかける。
もしかするとあれは、自分の下着を盗撮されたかの確認ではなかったのか? キズをどれだけ鮮明に撮影されたかを調べるためだったのか? なんとなくそんな気がした。