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ミュージックビデオで、歌手が画面中央に立っている背後を、ものすごいスピードで日が昇り、暮れ、人々が移動していく演出を時々見るけれど、今日の周囲は正にそんな風に過ぎ去った。
「はっ」と慌ててノートを見るときちんと板書を写してあった。何を食べたか全く記憶にないけど、空腹感もない。クラスメイトで部活も同じ持田樹に聞いたら、どうやらつつがなく過ごしていたらしい。我ながら大したものだ。
変なのか? 恋なのか? 一目惚れしたのか?
ぼんやりしつつも何度か浮かんだ疑問。
それが浮かぶたびにボクの中のボクは首を横に振る。だって、他に憧れている先輩がいるから。二年生の芳美千夏先輩だ。
こうしちゃいられない。机の脇に掛けていたリュックをつかんで、懐中時計を確認した。大丈夫、ちゃんと放課後だ。
「持田、部活は?」
「今日、バイト」
持田はクラスメイトの女子となにやら話していたけど、こちらを振り返える。何故か、鹿爪らしい表情で敬礼をした。彼は既に絵を描き上げている。「とうふ」というタイトルの、のっぺりした立方体をメインにした、抽象画でもないのに意味不明な絵。
「部活には遊びで来ている」と公言してはばからない男(遊べると誘ったのはボク)は放おっておこう。ボクは教室を後にした。渡り廊下を渡って記念館へ。さらに一階分階段を登り四階。廊下の突き当りが美術室だ。
途中でイーゼルを取って引き戸を開けると、中には女子が四人いた。同級生二人と二年生二人。同級生の二人は真面目に絵筆を走らせているけれど、二年生は、道具の準備を万端にして完全なる談話モードになっている。
とりあえず、重いイーゼルを中庭寄りの位置に据えた。座る前にと、続けてロッカーから油絵の具のセットを持ってくる。それを机の上に置いたところで席につき、ボクは思案する。
「さて、どちらに向かおうか」答えは簡単だ。
今日のボクには武器がある。これを使えば、二人の間に斬りこむことが可能だ。
実際は懐中時計を握る右手に、空想上の剣を持ってボクは突撃する、先輩二人の方へ。
「先輩、ちょっといいですか? 聞きたいことがあるんですけど」
「おっす」
「おっす盆蔵」
「盆――」
「そのアダ名を定着させないで下さいね」という言葉は飲み込む。永田彩乃先輩へ物申す勇気はない。
「今日、先輩のクラスに転校生来ませんでしたか?」
これが武器。ボクより一年も長く通っている学校への道がわからなくなっていた、朝の先輩についての質問。
「転校生なんて来てないわよ」
答えは永田先輩から返ってきた。
しまった! 芳美先輩と永田先輩は同じクラスだった。
「二年生全体では?」
めげずに続けて質問する。
「ジョリ科(情報処理科)は知らないけど、商業科にはいないわね」
「わたしもジョリ科に友達いないから、わからないなあ」
ボクは情報処理科だけど、二年生以上の知り合いは美術部の先輩達だけだ。
自信があった武器だけど、あっさりぽっきり折れてしまった。
他に話題はない、潔く引き下がろう。
「そんなことより盆蔵、情報処理科ならジョリ棟のキズのこと聞いてないの」
まさかの永田先輩の助け舟だった。
「ジョリ棟のキズ?」
その言葉に心当たりはない。何しろ、放課後まで終日あんな状態だったから。もしかしたら、クラスで話題になっていたかもしれないけど、わからない。
「ほら、そこから見えるよ」
芳美先輩が、薄い茶色の腕をすらりと伸ばした。夏休みに、田舎のお婆ちゃん家で虫取りをする小学生みたいな腕だ。指差すのは、ボクがイーゼルを置いたのと反対側。
ここからでも、記念館よりは白いコンクリートの壁が見える。コンピュータ関係の授業をする建物――情報処理棟。通称ジョリ棟だ。
「今日の朝早く、壁に切ったような大きいキズがついてて、軽く警察騒ぎになったらしいのよ」
「負傷者がいなかったから、一時間くらい軽く調べただけみたい」
壁を切るって、一体どんな状態だろう。俄然、興味が湧いてきた。ボクは窓に向かう。
「待って盆蔵」
「はい?」
「どおせなら、詳しく視て報告してよ私たちに」
なんでそこまでしなくちゃとは、思ったけど、
「わたしからもお願い」
と、芳美先輩に言われたら敵わない。
決して、有無を言わせない永田先輩の眼力に屈したわけではない。こっそり懐中時計を握りしめて、ボクは自分に言い聞かせる。