とにかく何かをはじめてみよう!
『十二月二十四日』
寺の一室である。
家族は『お出かけ用』に着替えているところだ。
「そろそろ出なきゃだよー!」
承子が叫んだ。
高校生のちぐさが、母・承子のネックレスを留め終えた。
「服が線香臭くなってないかなぁ」
「それより香水はつけないでよ!」
承子が妹のキトリをたしなめる。
「わかってるって」
「リョーナイちゃん悪いわね、お宅をクローゼットがわりにして」
「いいんですよお義姉さん。使ってない部屋はあるんだし」
バタバタと、一家は身支度を整えた。
ほどなくして、一家はひたひたと廊下を進み、磨かれた靴を履いて外に出た。
乗り込んだ深緑のワゴンには、ちぐさ、承子、双子のゆきことめぐ、キトリ、
そして運転席にはリョーナイが座っている。
徐行した車は大通りを出ると、爽快に表通りを滑り出した。
承子はさっきまでキトリの仕度を「遅い遅い」と怒っていたが、車が街へと走って行くと気持ちがウキウキしてくるようで、CDをかけるようにと助手席のキトリに促した。
今日の『お楽しみ』はオーケストラ。しかもマエストロは西本智実。
最高だ。
「チビたちは途中で飽きたら私がロビーで見てるから心配しないでお姉ちゃん」
「だいじょうぶだいじょうぶ!きっとさいごまでみられるから」
心配する叔母のキトリに、双子の一人が言う。
「クリスマスミュージックばかりだから大丈夫かもよ?」承子も言う。
ちぐさ達家族は、こうして数ヶ月に一度のペースでコンサートや芝居に出かけるのだ。
この日はクリスマスなので特別だ。全員集合は久しぶりだ。
この前は承子にボーナスが出たので、承子は双子の娘を連れて『ライオンキング』に行ってきた。
双子たちが生まれる前は、やはりキトリやリョーナイがちぐさをどこかに連れて行った。
いつからか受け継がれているこの一家の道楽は、いったい元を正せばどこまで遡るのだろう。
見たものの思い出話しは行きの車の中での定番で、皆一様に記憶が鮮明なのだった。
会場に着く。
クロークにオーバーや襟巻きを預け、赤い絨毯の階段を下る。
ビロードの椅子を確かめ着席する。
開演。
ロシアで修行してきた美しいマエストロは、聞き慣れたクリスマスソングを一級品の音楽に仕立て上げる。何度も聴いたことのある曲達。オーケストラで聴くと、こうも違うものなのだろうか。
彼女はその美しさも手伝って、ちぐさ達の心を一瞬で掴んだ。
それどころか、完全に捕らえて離さず、生きているかぎり手放せなくなるほどの感動の魔法をかけた。
この日のコンサートは最高で、小さな双子たちも飽きる事なく聴き入っていた。
アンコールは『眠れる森の美女』だった。
タクトを置き、繊細な指で名曲を紡ぎだし、観客の心に染み込ませた。
「当分他の音楽は聴きたくないね!耳の奥でまだ味わっていたいよ…」
終演後、キトリが咳を切ったように叫んだ。
「食事に行くって気分じゃないわね…」承子も放心していた。
今の気分のまま立ち止まりたい。
「ちぐさ、お腹すいたでしょ?ご飯どうする?雑踏も聞きたくないし、イタリアンの店でカンツォーネを耳に入れるのも気分が壊れるしね」
しかしちぐさは何も喋れないでいた。
感動したのに、なぜか気分が落ち込みはじめた。
『まただ…また始まった…この気分』これはいつからなんだろう。焦り。これはいったい何なんだろう。
『わかってる。私は当分苦しむ。でもその理由は?』ちぐさは答えが欲しい。
誰も教えてくれないその感覚にちぐさの心臓は押さえ付けられた。
緊張が進むのを堪えながら、家族の感動の盛り上がりに賛同するふりをするのが辛かった。せつない。
西本智実さんは素晴らしかった。それがちぐさにはとてつもなく悲しいのだった。
「それじゃあ、ケンタッキーでチキン買って、コンビニでケーキでめ買って帰りましょう!」
承子が言うと、
「そうだね!なんか西本さんに魂抜かれたって感じだしね」とキトリも言った。
それから家族はリョーナイの運転する車で家へと戻って行った。
買い物を済ませ、寺へ戻る。服を着替え、アクセサリーを外す。『お楽しみ終了』の合図だ。
「リョーナイちゃん、ここで一緒にチキン食べて行っていいわよね?」
「どうぞどうぞお義姉さん。秘蔵のワインも開けますよ」
「お寺でクリスマスかぁ。なんか印象深い一日になったね」
「まぁ、いいんじゃないの?」
「…みんなごめんなさい」
ちぐさが言った。
「私なんか食欲ない…だから先に帰ってます…」
「ちぐさどうかした?」叔父のリョーナイが心配そうに声をかけた。
「何でもないのよリョーナイちゃん。ちぐさ、好きにしなさい」承子が言った。
キトリはさっそくチキンにかぶりついている。
ちぐさは黄色いダッフルコートを着て、リュックを背負い、お寺を後にした。
月が綺麗な夜だった。
母・承子がよく口ずさむ歌がある。
『たった一度の青春を
悔いなきようにと言うけれど
春の嵐のすぎたあと
何もしなかったと嘆くよりああ、過ち
悔やむ方がまし』
以前は、この歌を思い出すと気持ちは高まっていたはずだ。
なのに、今のちぐさには不安感を高める手伝いにしかならなかった。
クラスメイトはそろそろ受験体勢に入りはじめ、親友のしのぶも歌舞伎養成所の稽古で忙しかった。自分だけが浮いていた。
『私は何がやりたいのだろう』そういう考えが頭を過ぎると、ますます辛くなるのだった。
『私には何もない…』
あんなに元気だったのに、夏頃から芽生えた、この病み。
ちぐさはそれから逃れられなかった。
最近では、何をやるでもなく、時間は無駄に流れ、それと比例してまた不安感がつのった。
冬休み中、ちぐさはごろついていた。
体がそうなると、頭もそれに従事して気力を失った。ちぐさは毎日、ベッドの中で、これ以上眠れないというほど眠り、その後も目を閉じたままでいた。
天気の悪い、冷たく寒い日が続いていた。
『十二月三十一日』
体がだるく、頭も痛い。ちぐさは昼の誰もいない時間に起き、ジャーの中のご飯と冷蔵庫にあるものを食べ、またベッドに入った。
『長く寝ていると腐敗するんだなぁ』そんな事を考えていた。
気分が悪い。
本当に、身も心も腐っていくみたいだ。
悪い事ばかりが頭に残り、ベッドの中でそれは育ち、絶望となってしまう。
そばにあった割り箸で頭と背中をかく。手を伸ばし、鏡を覗くと、小汚い顔がうつった。
『女の子なのに…』
しかしまた布団にもぐった。
十二月三十一日の朝、ドアが蹴破られた「引きこもりもいい加減にしろッ!」
布団から目だけ出すと、叔母のキトリが仁王立ちで立っている。
「正月の準備ッ!」
ちぐさはのそのそと布団からでてベッドに座り、がっくりとうなだれた。
「ともかくもう起きてよ!あんたを怠けさしてやったぶん、今日一日で大掃除終わらせなきゃいけないんだからッ!」
そしてキトリは大きな足音とともに階段を下りていった。
ちぐさは風呂場へ行き、洗面台の鏡で顔を見た。
ぼーっと立っていると、妹のゆきこが側にちょこちょこ歩いて来た。
ゆきこはせつなそうに、年の離れた姉を見ていた。
「クリスマスのドレス、作ってやらなくてごめんよ」
ちぐさが言うと、ゆきこは手を口にあて、もう一つの手をひらひら振って言った。
「いいのいいの、気にしないでね」
そして
「なんにもしてくれなくてもお姉ちゃんのことすきだよ」
と言い、ちぐさの足に抱きついた。
「お姉ちゃんさ、お風呂入ったら元気になるし、大掃除もがんばるから大丈夫だよ」
そう言って笑うと、ゆきこはにっこりして、リビングに行った。
ちぐさは風呂場に飛び込み、シャワーを勢いよく自分に浴びせた。
ちぐさが冬眠しているあいだに、日本中が師走を迎えている。
「2階の窓拭いて!」
「風呂場は天井も洗ってよ!」
「おっしゃあ!次は換気扇!」
ちぐさは従って、黙々と掃除のために体を動かした。
そして、
「ちょっと、松前漬けの昆布切ってよ」の言葉で、いざ正月の準備が始まるのだった。
新聞紙を広げ、料理ばさみでスルメを切る。キトリは隣でみがきにしんを昆布で巻いて、糸で縛っている。餅つき器はフル回転。
「ぺったんぺったんではないけどお餅つきだね」
双子の保育園児は嬉しそうだ。
「ただいま!」
「あっ!お母さんだ!」
双子が玄関に駆け出した。「おかえり!」
「お母さんおかえり!」
「ただいまったらただいまぁ!」
「お母さん!おかえりったらおかえり!」
ゆきことめぐは母親の足に抱きついた。
「ごめんごめん。今日中にどうしても間に合わせたい患者さんがいてね」
「どこだったの?」とめぐ。「おっぱい」
「わー!お母さんえらいね!お正月におっぱいなかったら寂しいもんね、赤ちゃんもうれしいね!」
「うん、だから頑張っちゃった」
母・承子はさっそくエプロンをつけ、年越しのために働きはじめた。ゆきことめぐは母親の側を離れず、嬉しそうに笑っていた。
体を動かすのはいいなぁ。久しぶりの感覚だ。あの、なんとも言えない気怠さから気持ちが離れるのがわかる。
「あんた将来どうするの?」餅を作りながらキトリが聞いた。
「それが決まらないから、この子『病み期』なのよ」
承子が言った。
ちぐさは黙っていた。
「お義兄さんが残してくれたお金があるから、どんな学校にも行けるのに」
「あああんっッ!もうッ!」ちぐさは頭をかいた。
「私は結婚したし、お姉ちゃんも仕事持ってる。リョーナイちゃんはドラマーやめたけど、実家のお寺継いでる。目的ないなら大学に行って就職する?とにかく何か決めなきゃいけないよ」
「…わかってるよ」
ちゃんはつぶやいた。
その時メールが来た。しのぶからだ。
『お茶飲みに来ない?』
それを理由に、ちゃんは休憩をもらった。しのぶの家は正月の支度が整えられていた。
しのぶは嬉しそうにちぐさを迎え入れた。
「しのぶはいいなぁ」
ちゃんは口をとがらせて言い、リビングのソファーにドサッと座った。
「なにが?」
キッチンに立ち、アールグレイの缶を開け、ミルクティーを用意をしながらしのぶは答えた。
「目的があってさ。私は今なんにもない。だから病み中だよ、草生えちゃうよ」
「そんなの…ちぐさのおかげじゃない…」
どうぞ、と言って、しのぶはウエッジウッドのマグカップに入ったミルクティーをちくさの前に置いた。
「正直に言う!私は自分が何をやりたいのかがわかんない!でも大学に行って就職する気にもなれない!」
「…そう」
しのぶは切れ長で細い目をふせた。
「最近さ、音楽も聴きたくないし、お裁縫もしてない。とにかく寝てるだけなんだ…。あんなに元気でヘヴィーメタルだったのに、なんでこんなふうになったのか自分でもわかんないんだ」
しのぶは頷きながら聞いていた。
「クリスマスに西本さんを見に行ったけど、なんか辛かった。苦しくなった」
しのぶはちぐさを見て言った。
「成功者を見たから、追い立てられる気持ちになった?どう?」
「うーん…そうかも…」
「でも、頭を切り替えるには、やっぱり人との出会いだよ」
「うーん…」
「ちぐさは舞台人を見て辛くなるわけでしょ?ならちぐさも舞台人になればいいんだと思うよ?」
「例えばどんな?」
「舞台のパンフレットを書く仕事とか、舞台監督とか、演出家とか」
「…ピンと来ないなぁ」
しのぶはため息をついた。「明日テレビで玉三郎さんが出るから見てみたら?」
「うーん…」ちぐさは唸ってミルクティーのおかわりを催促した。
「きっと玉三郎さんからはヒントもらえるよ」
「うーん…」
考えていると、またあの不安感に襲われた。心がザワザワするのだ。
「ごめん。もう帰る。しのぶといても辛い」
「そう…」
そう言って、しのぶはちぐさの背中を撫でた。
倉井ちぐさの家は元旦を迎えた。
ちぐさは玄関に日の丸の旗を立て、双子の妹・ゆきことめぐにトーストを焼いた。
「あら、お餅食べないの?」元旦の母の声。
「朝から餅なんて食べられないよ」
「そうかな」
ちぐさを睨み、笑って、母・承子は豆餅を焼き、平然と四つたいらげた。
「んめぇ〜」と承子。
「ヤギかい」とちぐさ。
一家の『正しい正月』が始まった。寝正月。
毎年、元旦は何もしないでひたすらゴロゴロする。
夕方近くにキトリから電話が入った。
「お姉ちゃん、今からそっち行っていい?パパは何も食べないで挨拶回りに行っちゃった。明日から初日なのに帰りは遅くなるみたい」
「普通歌舞伎役者の妻って忙しいものなのに、あんたの旦那は楽だわね」
承子は電話を切り、「餅が減るよぉ〜」とつぶやいた。
間もなくキトリがやって来た。そして『ブタ柄』のパジャマを着て、
「餅は?餅は?」と言い、見つけて焼きだした。
「あっ!そういえば今日7時から玉三郎さんテレビでやるよ?」
キトリからそれを聞くと、承子は喜んで、姉妹は玉三郎さんについて「わあわあ」と喋りだした。
ちぐさは叔母のキトリを羨んでいた。
歌舞伎役者と結婚する、という目的を果たしたからだ。ちぐさは自分には何の目的もないことが悲しかったし、その気持ちはちぐさを蝕んで無気力にさせていた。
夜7時。キトリの号令で承子とキトリはテレビの前を占領した。
キトリはちぐさと双子に言った。
「あんたたち、悪いけど音たてないでね」
「シーシーね」めぐが唇に小さな人差し指を立てた。
「録画もするんだからいいじゃん」
ちぐさが答えると、キトリは猫のように目をピカッと光らせた。
「ダメッ!玉さまが生出演でお正月の挨拶をするんだから!その一瞬を一緒にいるのッ!」
「あ〜らそうですか」
ちぐさはドサッとソファーに倒れた。
「お母さん、めぐも見る!」「ゆきこも!」
「ゆきこやめぐにはまだ難しくて面白くないと思うよ?」
と、承子は小さな娘達に言った。
「だいじょうぶ!」
「お母さんがみるもの、めぐもみたいの」
「ゆきこも!」
「じゃあ見たくなくなったら2階に行っててね。終わったらすぐ声かけるから」
母の言葉に、小さな双子は機嫌よく返事した。
ちぐさはなんとなく手持ち無沙汰になり、2階の自室に入った。
ちぐさの中の『何か』がちぐさをつき動かした。惰眠を求めようとしたちぐさの指は、リモコンのスイッチを押したのである。
画面に一人の男が写った。すっきりとした涼し気な顔は、歌舞伎役者特有の清々しさと清潔感をたたえていた。
「新年あけましておめでとうございます」
階下から返事をしている母親達の声が聞こえた。
ちぐさの胸は騒いだ。急いで階段を転がり下り、正座をしている母とキトリの横に座った。
「それでは、私の踊る舞踊劇『鷺娘』をどうぞお楽しみください。これは録画ですが、放送が終わりますまで私は袖で控えておりますので、のちほどまたお目にかかります」
そして舞台が始まった。
拍子木の音。浄瑠璃がはじまる。
「合い方」の呼び名を今のちぐさはまだ知らない。しかし、ちぐさはいずれ知る。それらの言葉に詳しくなった時には、ちぐさは今持つ『不安感』から解き放たれているはずだ。
細い枝にも雪を積もらせた水際の柳。
そばに蛇の目傘をさして、悲しげにたたずむ娘がいる。
白無垢に綿帽子姿の娘は鷺の化身である。
そっと舞台に進み出す。
『きれい…』
ちぐさはただならぬ感覚を自分の内に感じ、体をのめり込ませた。
『踊りの方から、玉三郎さんの体に吸い付いてくみたい…』
鷺が町娘に化身する変わり身に、心臓が高鳴った。
娘は愛しい男への想いを踊りに託す。
しかし恋は実ることはなく、娘は男に斬り捨てられる。
血を流して死んでゆく娘。死の断末魔の苦しみ。
演者は、絶叫することもなく、心身両方の痛みを、その眉間にしのばせるだけで表現していた。
見開いた目は、叶わなかった恋に恨みと絶望を見せた。
『わかる!』とちぐさ感じた。
大声で泣き叫ばなくても、痛みと苦しみがわかるのだ。
存在していないものに、こんなに同情したことは今までのちぐさには経験がなかった。
演目が終わった後、歌舞伎役者・坂東玉三郎は終わりの挨拶をし、番組は終了した。
皆は放心した。それぞれ、感想が口をつくまで時間を要した。
愛する男に刀で斬られる一羽の鳥の無念。娘に姿を変えても、化け物と思われ、刃の露となった悲しい命の物語に皆は引き込まれた。
「全くすごいよね、玉三郎さんは…」
キトリがため息をつく。
承子は生命たっぷりの我が子の頭を撫でた。
ちぐさはその日、夢を見た。
金の彫刻が施され、赤いビロードのかけられた椅子に誰かが座っている。
目を凝らして見ると、それは玉三郎さんだった。
自分はその前にひざまづき、両手で何かを手渡そうとしている。
それはちぐさの魂だった。なぜだか確信できた。
魂は綺麗な乳白色をしていたが、今こそ手渡そうとしている自分の手は血だらけだった。
『あっ!なんで手を洗ってから渡さないんだよぉ!』声にならない叫び声をあげる。
しかし彼は、その血まみれになった魂を躊躇なく受け取り、自分の膝の上に置いた。
その時ちぐさは目を覚ました。
ストーリーのない、短い夢だったが、ちぐさには神秘な『予感』が感じられ、胸がざわついたのである。
翌日。
「しのぶー」
ちぐさは甘えた声で携帯をかけた。
「お茶でも飲みに来る?頂き物の水蜜桃もあるよ」
いくいく!今すぐ行きます! とちぐさは携帯を切り、アイアンメイデンのTシャツをかぶり、膝あたりでちょん切ったジーンズをはいて隣に住むしのぶの家に駆け込んで行った。
「私すごく落ち込んでるよ…」
「昨日見た?玉三郎さん」
「…最高だったよ。あんな人いない」
「よかったね」
しのぶはにっこりして、お茶の用意をはじめた。
「だからさ」
「うん?」
「なんか、泣き出しそうな気持ちで、それでいっぱいで…」
しのぶはちぐさの背中を撫でた。
「なんでこんなに不安になるんだろう…。不安感に押し潰されそうだよ…」
ちぐさの目から涙がこぼれた。しのぶはちぐさの向かいに座り、ちぐさの顔を見た。
「もし自分が狂っちゃったらいいのに、とかって考えが頭に出ちゃう時がある…」
「そうなの?」
「それを考えると死にたくなっちゃう…」
「死にたく?…それは辛いね」
「死にたく…っていうか、…だって私なんか何にもなれないかもしれないんだもん。それ考えると、急に怖くなって死にたくなっちゃう…。そんなかんじ。すっごく嫌な気分…」
目を閉じたちぐさはぽろぽろと涙を流した。
しのぶが言った。
「まだ何もやり始めてもいないのに、何にもなれないかもしれないなんて、そんなのおかしいよ。それにちぐさは死なないって」
ちぐさは、しのぶに差し出されたティッシュで鼻をかんだ。
「わかってる。自殺するわけないしさ」
「あたりまえだよ!」
しのぶは強い口調で言った。
「どうせ死ぬんなら、自分が何かに向かって、やれるところまで力を出しきってから死にたいもん。だから今は死ねない。それはわかってるの。でも最近、なんにも出来ないなら消えたいって考えちゃうし、その気持ちに襲われるとすごく怖い」
「ちぐさは死なないから大丈夫」
「自分が何になりたいのかがわからないの。なんで『普通の人生でいい』って思えないんだろう…」
しのぶはお茶を入れに立った。
「やりたい事が見つかったら、きっとその『死にたい、消えたい』っていう恐怖心はなくなるんだろうね」
「わかんないけど…。ただね、大学に行って就職して、『人生なんてこんなものかな?』なんて思って、…結婚して子供を産んだりみたいな事って…私にはできないと思うし…。私は…『これで満足!』って思えるものがほしいの。でもねでもね、やりたい事が見つかったとしても、叶わなかったら?人間ってどうなるの?狂うの?それとも老化していくと自然にそんな事忘れられる?忘れて穏やかに暮らせるの?」
「そんな事って言わないでよ!」
ちぐさははっとした。
「今、将来成功する夢を『そんな事』って言ったよ?いい言葉じゃないよ」
しのぶは温かいミルクティーをちぐさの前に置いた。「僕にだって将来の夢はあるんだから」
ちぐさはじっとしたままだ。
「私にはやりたい事がないもん」
しのぶは言った。
「僕には不安はないよ。それに死にたくなった事もない。その秘訣を教えてあげる。でもそれって、子供の頃ちぐさが僕に教えてくれた事なんだよ?忘れてた?」
ちぐさはしのぶの顔を見た。
「やりたい事を見つけて、やり続けること。やっぱりそれしかないんだよ」
ちぐさは涙をふいた。
「目標をみつけてさ、それに向かって生きていれば、変な恐怖心なんか頭に出て来ない。死にたくなったりしない。ちぐさはやっぱり『何か』をやりたいし、本当は自分の中に才能ってものがあるのをわかってる。その才能が、何をしたら花開くのかが見つからないから悩むんだと思う。才能がなければ、悩むところまでいかないと思うんだ」
「そうかなぁ…」
「絶対にそう。っていうか、僕はそうして生きてきたから本当だよ」
実際しのぶは日々努力をし、歌舞伎俳優としての階段を着実に昇っていた。だからしのぶの言葉には重みがあった。
しのぶはちぐさの前にしゃがんで聞いた。
「どうなったら幸せ?」
「やりたい事をみつけて頑張りたい」
「じゃあそれを探さなくちゃ。ダメな自分を死なせて、いい自分を生かさなくちゃ」
「そうかぁ」
「ちぐさ文章うまいじゃん、脚本家は?」
「うーん…なんかピンとこない」
「じゃあステージ衣装作り!」
「そうだなぁ…」
「遊びながら考えていこうよ。」たとえば昨日の玉三郎さんの舞台から何かインスパイアされた?」
「ううんと…そうだなぁ…、私ならあれをヘヴィーメタルでやりたいかな?」
「うんうん」
しのぶはにっこりしてミルクティーをすすった。
「ギターと三味線、ドラムと和太鼓の絡み合い。すごく激しいやつ!『鷺娘』の、最期のあの断末魔のシーンは絶対ヘヴィーメタルが合うよ!」
「カッコイイ!僕踊るよ!」「歌は絶対『クアトロバー』の悪鬼さん!」
「『クアトロバー』ってあのライブハウスで有名な?」
「そうそう」
「ギターはほら、二組の源太郎くん!『アトゴック』のギタリスト!ドラムは中学校の頃から有名だったアゲハくんっていたじゃん?『サクリファイス』のドラマーの!」
急にちぐさは口をつぐんだ。
「でも三味線と和太鼓に知り合いはいないや」
しのぶが言った。
「三味線と和太鼓いなくてもいいじゃない。もし出来たら面白いステージになると思うな!」
「ね、カッコイイだろうね」ちぐさは苦笑いした。
「それやろうよ」
「やれるかなぁ…できるかなぁ…」
「できるできる!てかさ、まずなんでもいいから何か一個作ってみてさ、そこからちぐさに合う合わないがわかると思うよ?何かやってみたら、ちぐさのやりたい事がみつかるんじゃない?」
しのぶはちぐさの背中を叩いた。
「…なんかわかんないけど、憑き物がとれた感じする!なんかワクワクしてきたし!」
「ちぐさはたくさんいろんなもの見てきたんだもん、面白いもの作れそう」
「いいね!そして玉三郎さんに見てもらいたいな!」
しのぶは笑った。
ちぐさはミルクティーを飲み干して言った。
「今考えた舞台、本当にやってみようかな?」
「できるよ」
しのぶは答えた。
「やってみようかな。まずそれがスタート!」
「そうだよ!」
「なんか元気出てきた!」
「よかった!」
「死にたいとかバカみたい!」
「うんうん!」
「じゃあ帰る。ありがとうね、しのぶ!」
そう言ってちぐさはしのぶの家を後にした。
自室に戻るとちぐさはさっそくノートを取り出した。
『演目・ヘヴィーメタル版「鷺娘」』
そう書くと、シャーペンをどんどん進ませた。
企画書を朝まで書いた。
煮詰まると、スケッチブックにイラストで描きイメージした。
頭は冴え、昨日までの落ち込みが嘘のように消えていた。
朝、ちぐさは寝起きの承子に向かって言った。
「お母さん!私やりたいことが見つかった!」
「それまた急ね」
「一昨日の玉三郎さんの舞台見て思いついたんだ!」
「よかったね!」
ちぐさの心は晴々としていた。
それからの冬休みは忙しかった。
母・承子からは芸術学校への入学を承諾してもらい、ちぐさはいつ出展するかもわからない『ヘヴィーメタル版鷺娘』を書いていた。
書くことは楽しかった。夢が膨らんだ。そんなとき、叔父のリョーナイが遊びにやってきた。背の高いリョーナイは黒いワッチキャップに黒いライダースジャケット、ボルドーのパンツで、40才にしては若々しく格好が良かった。とても住職には見えなかった。
「おじさん、それはまたまた粋な格好だね!」
ちぐさが言うと、
「姿消したくてもね…やっぱりカジュアルみたいなのは袖が通らないんだな…」
と答え、マスクを外した。ゆきことめぐはリョーナイに飛びついた。
「腰の調子はどう?」
「冬だからね、痛むよ」
「そっかー…。今コーヒーいれるよ」
「ありがとう」
「おじちゃん、タンタカタンは?」
めぐがスティックを振る真似をした。
「タンタカタンはお休み。治ったらまたやりたいな」
そして
「高い高いしてあげなくてごめんよ」と言った。
「高い高いしてくれなくても大好き!」
と、ゆきこは足に抱き着いた。