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ゲオマ  作者: 偽薬
9/13

毛羽毛現 (一)

 火のないところに煙を立たせる商売が思っていたより軌道に乗らず、日々の稼ぎは日々の出費とほぼ同じであった。

 お陰で先月壊れた車の修理ができないでいる。

 手書きの筆文字で壁マサル様と書かれた、好きなブランドの新作会の招待状も届いていたが、今は物欲を刺激するのは不味いと断腸の思いで不参加の旨返信した。代わりといってはなんだが、キロ数万円もする牛肉を飽食してやろうと思い、問屋に直接家まで運ばせたのだがその時に限って仕事がばたつき、結局は冷蔵庫の中で腐らせてしまった。

 まったく、なにもかもが噛み合ない。

 愛車が壊れた日から付き合いはじめた女とも、商売が原因で一昨日別れた。

 煙草の吸い過ぎだろう最近矢鱈に肺が痛む。病院に行ったら行ったで肺以外にも傷んでいる箇所が見つかることだろう。まず行かないとは思うが。

 晩秋も近付き、関東に吹く風もそろそろ冷たい。

 街路の緑も色褪せつつある。


 女も、着る物も乗り物も食い物も、おそらく人並み以上の経験を重ねてきた俺にとって、少なくとも着る物のバリエーションが増やせて、且つ食い物の旨くなる寒い季節というのは決して嫌いではない。嫌いではないがそれは飽くまで人並み以上の財力がある状態の時であり、だから儲けのない今などはまったく当て嵌まらない。困っているわけではないが溜め息は出る。なにか別の商売を考えなくてはなるまい。手っ取り早く確実に稼げる何かを。

 新種の食肉を発見すれば儲かるだろうか。

 待て待て。数年前松茸の養殖を研究しているという男に投資して大損したのを思い出す。食べ物系は鬼門かも知れぬ。

 新しい性風俗でもはじめるか。

 当たれば儲かるだろうが、なにぶん自分の嗜好が偏向し過ぎていていまいち通常人の感覚というのがわからない。今からリサーチするのも手間がかかる。

 とにかく今纏まった金が欲しい。

 趣味を満喫する旅にもまた出たい。

 俺の趣味は様々あるが、旅が関わってくる趣味はひとつだけだ。日本各地の噂や伝承を掻き集めては、その地に出向く。根拠も確証もなにひとつないまま、それこそ身ひとつに近い状態で旅に出るのだ。考えただけでもわくわくするではないか。その旅に女や旨いものが絡んできたなら、それは最高だ。

 矢張り現今鬱屈したものを解消するためには旅に出る他ないと思う。

 出発は常に無計画で、荷物も何もなく日程も組む必要もないが、最低でも目的地に流布する噂や伝承はそそるものを望みたい。しかし残念ながら、今のところ俺の心の琴線に触れるようなネタは耳に入ってきていなかった。

 革張りの椅子にいいだけ身を沈めて、俺はそれは大きな欠伸をした。

 事務所として間借りしているこのビルの一室も、もう三月ほど家賃を支払っていない。そろそろ踏み倒し頃だろうか。それとも後もう少し踏ん張るか。

「どうでもいいやな」

 いずれ、ない袖は振れぬ。考えずとも行動しなくてはならない時期は遠からず来るだろう。

 俺はちらりと机の上の時計を見た。ちょうど午後三時だった。

 携帯電話を見る。三つ所持しているうち、生きているのはひとつのみ。

 パソコンを立ち上げる。テレビを点ける。煙草に火を点ける。

 不通となった携帯電話ふたつを屑箱に放り込み、俺は机の上で脚を組む。銜え煙草でマウスを弄り、メールの確認をした。

 そそる商談も、楽しい話題も一切なかった。

 テレビは延々と棹の乾かぬ歌舞伎役者の話題を伝えている。ついひと月前まではどのチャンネルも映像に残った怪物の話題で持ち切りだったのだが、追加情報がまったくなかったせいか今はもう下火で、取り立てて今更取り上げる局もないようだ。まったくもってツマラナイ。

 今の世の中は表面上の体裁ばかりを取り繕うことに必死で、誰も彼も逼迫して恐々としている。本来人間、いやイキモノの生きる道というのはそんな整然としたものではないと俺などは思うのだ。もっともっと混沌としているのが実であるはずだ。

 ヒトというのはどうも、得手勝手に人間社会というものを作り上げ、恰もそれがこの世のすべてであるように振る舞っている。

 斯くいう俺も人間であり、且つまた人間社会の仕組みを利用し日々の糧を得ているわけだが、それでもヒトの社会がこの世の中心ではないことを知っているし、実際ヒトの社会など砂上の楼閣に等しい基盤の脆弱な世界であることを薄々ではあるが勘付いている。具体的に破滅の萌芽を見ているわけではないが、ヒトの身ながら人間がこの世の王であるかのように振る舞っている様を見るのはあまり好きではない。

 正直何を根拠に、そこまで我が物顔にこの世を闊歩できるのかと不思議に思う。かといって、日々を謙虚に慎ましやかに生きようとは思わない。

 俺はどちらかというと、他人の尻馬に乗っかって旨い汁を吸うのが得意な人間である。


 ヒトなど放っておいても滅ぶだろう。


 その時期は俺の生きている今ではないのだから、気に病むことは何もない。

 俺は生来ろくでもない人間だ。

 もう一度欠伸をする。

 窓の外にはすぐ電線が見え、大きな鴉が一羽こちらを見ている。暫く黒光りするその嘴を眺めていた。

 と。

 普段あまり鳴らぬ卓上電話がけたたましい音を立てた。

 俺は何故だか少し躊躇して、咳払いをひとつした後に受話器を取った。

「もしもし」

「ああ。壁、マサルさんですか」

 聞き慣れぬ若い男の声。債鬼だろうか。

「どちらさん?」

 俺がそう尋ねると、電話の向こうで短い沈黙があった。実名を告げられぬ輩からの如何わしい依頼や情報は多いが、そういう奴らは偽名を淀みなく名乗るものだ。

 俺はもう一本煙草に火を点けた。

 電話の向こうは矢鱈に静かだった。息遣いすら聞こえない。

 ややあって、

「鳥辺トモを御存知ですよね」

 俺は盛大に鼻から煙を出した。知っているも何も、それは一昨日別れた女の名前だ。

「まあ知ってるというか、、、」

 男はそうですかと答えた。

「それが何か?」

 連絡先を教えて欲しいのですと男はいう。それはできないと俺は返した。当然だろう。あまりいい別れ方をしてないとはいえ、俺にだってその程度のモラルはある。

 俺は鳥辺トモの顔を思い出している。

 小さく横長の顔、小さい口や鼻、若干間の開いた切れ長で黒目勝ちの目。どこかにほくろがあった気がするが、はたしてどこだったろうか。

「ううん」

 顔ではなかったかもしれない。

 男はどうしても無理ですかという。俺はああ無理だねと即答する。

 一方的に罵られて別れたのだが、それでもどこの誰とも知らぬ、名も名乗らぬ男に連絡先を教える気にはならない。

「どういう用件か知らないけど、他当たってくれ」

 だいたいあんた、男らしくないんじゃないかと俺がいうと電話の向こうは、そちらは○○ビルの四階ですよねとやけにはっきりとした口調でいってきた。

「それがなんだ?」


「お伺いしますよ」


 電話は切れた。

 まったくなんなのだろう。俺は酷く鼻白んだ気分になって受話器を置いた。気付くと煙草はほとんど吸わないうち灰になっていた。

 本当にくるのだろうか。


 ノックの音。

 俺は驚いて、高い声を更に高くして返事をした。なんのことはない、階下の軽食屋がツケの取り立てに訪れたのだ。不本意にも返事をしてしまった俺は、仕方なしに代金を支払うことにした。なんとも調子が狂う。こんな日はとっとと寝てしまうに限るのだが、世間はまだ宵の口すら迎えておらず、重ねて宵っ張りの俺が早々に床に就けるはずもない。またこの事務所にはろくな夜具もない。

 自宅に帰るのも億劫な気分だった。それにどうにも、先ほどの電話の男が本当に訪ねてくるのかが気になった。理由はわからないが、そそられる。

 俺は部屋の隅の戸棚を開いた。未開封の酒と雲丹の塩辛の瓶詰めがあった。どちらも仕事関係の人間から貰った物だ。

「いいね」

 ついでに小腹も空いたので乾麺のパスタと吊るした大蒜、乾燥赤唐辛子でペペロンチーノを作った。塩がなかったので味噌で味付けの代用をする。仕上がりはそう悪くなかった。

 雲丹を肴に俺は飲みはじめた。

 点けっ放しにしてあるテレビは、最近人気のピン芸人を映している。音を消しているのでどのようなネタをやっているのかまではわからない。確か自虐ネタが得意だったか。

 貰い物の酒は加賀産の吟醸酒。俺は自分では吟醸酒は買わないほうだが、たまに飲む分には十分楽しめた。雲丹の塩辛も悪くない。

「さて」

 訪ねてくるだろうか。

 どんな顔をした男だろう。

 俺は想像を楽しんでいる。もしかすると普通の感覚であるならば、恐怖感のほうが強いものなのかもしれない。いや、そもそも冗談かいやがらせの類と判断して気にも留めないか。


 結局、その日はなにもなかった。


 その後三日ほど、俺は事務所に足を向けなかった。それは偶々だが。


 そんなことがあったのも忘れたある日、俺は事務所で必要書類の整理をしていた。予々懸案中だった代替宗教の草案を、是非とも聞かせて欲しいというお大尽と知己を得ることに成功したからだ。

 A4版の茶封筒に、一枚一枚丁寧に目を通しながら書類を入れていく。

 かさりと、灰皿の上に山と積まれていた吸い殻が崩れた。


 電話が鳴った。


 俺は書類に目を落としたまま、後ろ手に受話器を取った。

「もしもし」

「ああ。壁、マサルさんですね」

 聞き覚えのある声。この、声量小さく丁寧な口調。電話の声は数日前に鳥辺トモの連絡先を尋ねてきた男だ。

「あんたもしつこいな。教えられないよ。それより今日は別件かい?」

 電話の向こうは静寂。

「もしもしィ?」

「ああ。今アンノンで食事してます」

「は? だからなんだ?」

 電話は切れた。

 アンノンとはこのビルの一階にある、昭和臭たっぷりの軽食喫茶店だ。

 まったくなんなのだろう。俺は書類の整理も中途半端に、一度電話の主を見てやろうと階下に向かうためエレベーターに乗った。


 喫茶アンノンの扉を開けると、カウンター席にぽつねんと店主がひとり座っており、退屈そうに鼻毛を抜いていた。

「あ、壁さん。なに? いつもと一緒? 海老サラダサンドとミックスジュースだっけ? ああ、ポットに濃いめのコーヒーもだっけか。あはは、ホラ普段は女房が」

 勢い話しはじめた店主を手で制して、俺はこの店に客がいなかったかを聞いた。

 マスチフ系の犬みたいな顔をした店主は、いやぁ二時間ばかり誰も来てないねと団子のような鼻をフガフガさせながら答えた。

 ああそうと、俺は未練たらしく店内を見回す。すると、

「店長、あれ」

 俺は店の隅、レトロなピンク電話の設置された箇所に一番近い席を指差した。

 食事の終わった皿(ナポリタンか?)とコーヒーが置いてある。コーヒーからは湯気も出ていた。

 店主はアレアレなどといっている。

 俺はトイレを見に行ったが、誰もいなかった。

「食い逃げかい?」

「いやいや、注文受けてないよ。これ。つっか、誰も来てないんだってほんとに。だいたいこんな隅の席、よっぽど混まない限り人通さないしさ」

 店主はどこか慌ててそういった。

 俺はふうんと唸って、大きな掌で顎先を捻くった。

「いやね。ついさっき事務所宛に電話があってね」

 この店にいるとのことだから俺は今ここに来ていると、俺はだらだらとした説明を店主に施した。店主はまるで理解の及ばぬ表情をしていたが、

「その電話の男ってのは何ていう名前?」

 実に素朴な感じでそう尋ねてきた。

 俺は、わからないと、なんとも頭の悪そうな返答しかできなかった。


 結局なにひとつ得るもののないまま事務所に戻り、無意味に電話機を眺めた。数日間ここを空けていたが、その間もあの男は毎日電話を掛けてきたのだろうか。だとしたら余程の閑人だろう。

 それから二、三十分ほど無為な思索に時間を費やし、俺は一応念のため普段は使用しない電話の留守録ボタンを押して出掛けた。

 気が向けば明日にでも戻ってくるつもりだった。


 十日して事務所に戻った。

 ドアの隙間には督促状が沢山捩じ込まれていた。そのどれにも目を通すことなく、まっすぐ机の上の電話機へ。留守録のあることを示すランプの点滅がある。俺はボタンを押した。

 入っていたのは借金絡みの用件のみだった。

 謎の男からのメッセージは一切ない。

 ひとり苦笑いして椅子に身を落としたのと同時だった。

「まさか、な」

 電話が鳴っている。

 これで電話の向こうがあの男だったならば、まるで計ったようなこのタイミングは、

「もしもし」

「ああ、壁、マサルさん」

 あの男だ。俺は咄嗟に受話器を置き、室内に二面ある窓辺からあたりの様子を窺った。遠くのビルの一室から、望遠鏡でも使ってこちらを見ているものか。はたまた盗聴器でも仕掛けられているものか。

 少なくとも目に入る範囲で異常は見受けられなかった。

「ああ壁だ。あんた名前は?」

 とりあえず情報を得なくてはならぬと、俺は多少焦りを感じつつ言葉を返す。まともに答えるとも思えないが。

「治水顎人と申します」

「チスイ、アギト?」

 当然ながら知らぬ名である。メモ書きにその奇妙な偽名(だろうと思う)を走り書きしながらも、歌舞伎の女形のような口調だなとそんなことを考える。

「チスイさん。用件はなんだ?」

「以前も申しましたが、鳥辺トモの連絡先を教えて頂きたいのです」

「だから。何度もいったけどね、どこの誰とも知らないあなたに教えるわけにもいかないのですよ」

「もう名乗りましたよ」

「いや、そういうことじゃなくて。鳥辺さんはご存じなんですか、あなたのこと」

「知らないでしょうね」

 会話を重ねるたびに俺の苛々が募ってきた。なんとも人を喰ったような、慇懃無礼を絵に描いたような対応ではないか。

「だいたいあんた、この番号もどうやって調べたんだ?」

 少しきつい口調で、俺は尋ねた。電話の向こうからは暫く妙な連続音が聞こえていた。ややあって、その音がチスイが喉で笑っている音だと気付く。

「なにがおかしい?」

「だって壁さん。あなた、御自分が理解なさっているより随分と御高名ですよ。あなたの連絡先くらいは少し探ればすぐに出てきます」

「なに?」

 電話の向こうは笑っている。

 俺は電話を切ろうと、受話器を耳から離したその刹那、

「今空き室で煙草吸ってます。廃材が多いので、火はきちんと消さなくてはなりませんね」

 事務所を飛び出した。

 このビルの二階には確かに、三か月前夜逃げ同然に出て行ったアダルトビデオメーカーの事務所だった空き室がある。チスイがその部屋のことをいっているのかはわからないが、とにかく目で見て確かめねばなるまい。

 まるで馬鹿にしている風の対応に多分に怒りは感じていたが、それよりも俺はそのとき、強い好奇心に支配されていた。

 ビルに一基だけあるエレベーターは使わず、外に備え付けられた非常階段で階下へ。

 気付けば外は霧のように細かい雨が降っていた。

 派手な音を立てて二階に踊り込む。

 廊下には角材やらコードやらが散乱していた。一度動きを止め気配を窺う。


 物音ひとつしない。


 俺は慎重に革靴を履いた足を進ませ、映像/ポロロッカと浮き彫りされた金属板の表札を掲げるドアの前に到達すると、そっと耳を峙てた。

 矢張り無音。

 鍵の掛かってないのを確認し、冷たいドアノブに手を掛け、ゆっくりと回転させた。きりきりとシリンダーが微かに軋む音が、振動として細長い我が手を通して伝わってくる。

 五ミリほど隙間が開いた。

 俺は隙間から中の様子を見た。

 薄暗く、窓からもれる明かりではよくわからない。それでも具に見てみれば、どうやら無人であることだけは知れた。

 ドアを開け慎重に侵入した。

 事務用品がほとんど残っている。段ボールに山と積まれたDVDとビデオテープ。型落ちのパソコン。明細書や請求書の束。

 ペットボトルに半分ほどお茶が残っている。この事務所を間借りしていた奴らが、余程慌てて出て行ったものか、それとも。

 ごみ箱には山盛りの紙束。

 もう一度周りを見る。矢張り誰もいない。見渡した限り隠れる場所もなさそうだ。

「ん」

 不意に鼻孔にものの焦げた臭いが届く。

 ごみ箱から煙が一本上がっていた。俺は小走りに寄り、上から覗く。火の点いた煙草が燻っていた。

「チスイか?」

 ぼつりと呟いて、俺はペットボトルのお茶を屑箱に掛ける。いい加減な消火をしながら、チスイに翻弄されつつある自分に気付く。一度屋外に出て通りを隈なく探そうかとも思ったが、さすがにそれはよした。変わりに今晩の予定を変更し、取り敢えず明日も事務所にいることにした。

 アンノンに顔を出し、ポットにたっぷりのコーヒーとパン、それとゆで卵をしこたま作ってもらった。

 相手の実体がまるで掴めないのだ、こちらはとことん受け身でいくしかあるまい。

 事務所に戻ると、取り敢えずゆで卵を続けて二個ほど頬張り、嚥下しないうちにパンを口に突っ込んだ。口腔内が人より広い俺は、他人が驚くほどに口にものを詰めることができる。

 結局拳大のパンを八個とゆで卵を十個食べてやっと腹が膨れた。ゆで卵に塩を振らなかったことを後から思い出し、最後に塩だけ舐めた。

 机に前傾するように座り、死んだ目で煙草を燻らせているうち、俺はいつの間にか眠りに就いていた。


 電話が鳴っている。

 俺は色気づいた数百才の老女に追い回されるという悪夢から無理矢理意識を引き剥がし、寝惚けたまま受話器を取った。

「ああ。壁、マサルさん」

 案の定、チスイアギトだった。

「んん」

「寝ていらした」

「ああ。ん。あんた。あんたはよっぽど暇なのかい? それとも鳥辺にそれほどご執心なさっているのかい」

「後者ですね。私は是非とも鳥辺トモと話がしたい」

「理由を聞かせてくれないか。俺相手にここまでするあんただ、それは余程の理由があるんだろう?」

「大まかにいうと、鳥辺さんも段階のひとつなわけですが」

 いってる意味がわからなかった。俺は素直にどういうことだと聞いた。

「物事には段階があるのです」

「だからさ」

「地熱利用。いろいろな会社があるものだ」

 電話が切れた。最後の一言に理解が及ばぬ。俺はずくずくと痛む顳かみを親指で押し、いったい電話の向こうの男はなんなのだろうと、、、

 地熱利用?

 会社?

 最後の言葉はいったい。

 チスイは最初の電話で伺いますよといって以来、四階建てのこのビルのまずは一階(喫茶アンノン)から電話を入れ、次に二階(映像/ポロロッカ)と徐々に上がってきている。だとすると若しや、三階に地熱云々の会社が入っているのだろうか。いや、多分そうなのだろう。

 念の為俺は受話器を取り、アンノンに電話を入れた。具合良く出た店主に尋ねる。

 確かにこのビルの三階には、関西地熱利用研究関東事務所という、西なんだか東なんだかわからない会社が存在するとのことだった。

 時計を見ると夜の十一時を回っていた。俺は遅くに非常識な電話を入れたことを店主に詫び、受話器を置いた。

「すると、だ」

 俺は机の上のコーヒーを乱暴にカップに注ぎ入れると、取り敢えずがぶがぶと呷った。

「うん、、、」


 チスイアギトは着実にここに近付いてきている。


 ぶるりと震えがきた。

 一階、二階、三階と着実に。

 次は四階、つまりはこの事務所のある階に到達するのだろう。

「面白いじゃないか」


 どこか遠くで聞こえるサイレン。

 何か音が鳴ることで気付かされる周囲の静寂。

「面白いとも」

 俺は煙草に火を点ける。煙をいいだけ吸い込むと肺の底がきりきり痛んだ。

 舐めやがってふざけんじゃねえ。じわじわ俺を追い込んでるつもりか? あん?

「でも、なんで俺なんかにかかずらう。奴の目的は俺じゃないはずだ」

 素直に鳥辺トモの連絡先を教えなかったことに対する逆恨みか。

 鳥辺トモが関係しようがしまいが他人に怨みは買いまくりの人生なわけで、つまりは俺に対して、悪方向の行動に訴えてくる輩は殊の外多い。つまりは結局、どこのどいつがこのような酔狂な真似をしてくるのか見当が付かなかった。加えて相手がいやらしいのは、今日日携帯電話に連絡を入れてこないことだ。これでは四階の昇降部に張って奴からの連絡を待つようなことはできない。

 無視していれば良さそうなものだが、性分だ、とことん付き合うつもりでいる。

 それにしてもどうやって暇を潰そう。間を空けず連絡してきてくれれば問題ないが、二日も三日も放っておかれてはさすがに参ってしまう。


 日が替わり、ほとんどピン箱だった赤ラークを吸い潰した頃さすがに我慢にも限界がきた。時計を見れば二時半。俺は椅子から立ち上がると、緩慢な動作で斜めに傾いだ伸びをした。背骨も腰骨も鳴らず、何故だか右足首がぴきりといった。

 舌の表面がねばねばして、なんとも不快である。俺は酔狂もほどほどになどといい、簡単な帰り支度を整えた。自宅はこの事務所からは結構な距離がある。


 卓上の電話が鳴った。


「あいかわらず抜群のタイミングだ」

 間違いなく奴だろう。俺が粘っているので、今日中に蹴りをつける腹づもりか。

「奴なりに気遣ってくれてるのかもな」

 受話器を取り、呼び鈴を止めた。周囲の音に意識を向ける。ビルの四階では外の音などほとんど聞こえず、あたりには静寂が満ちていた。

 ふん、と鼻から息を出し、

「壁マサルだが」

 と決まり文句を先んじていってやった。

 電話の向こうは無声音で笑っている。間違いない、チスイだ。

「あんたもなかなかしつこいね」

 しつこくするのはそれなりの理由があるんですと、チスイアギトはなんとも血の気の薄そうな声質でいった。

「理由? 是非聞きたいね」

「そうですか」

「交換条件といこうじゃないか。あんたがその理由とやらを話してくれたら、俺も鳥辺トモの連絡先を教えよう」

 とても食い付くとは思えないが、なんとか話を延ばし付け入る隙を見出すつもりだ。電話の向こうは、そんなもの先に教えるほうが負けじゃないですかと当然の言葉を返してきた。

「今はどうせ、このフロアにいるんだろう? あんたは電話をするたび一階ずつ近寄ってきてる。これはなにか、俺を精神的に追い込もうという作戦かい?」

「じりじりとした圧迫は、効果のある方には覿面なので」

「すまんね。俺には空振りだったようだ」

「ええ。でも来た甲斐がありました。鳥辺トモの住所がわかりました」

「なに?」

「ですから壁マサルさん、あなたと話すことももうないでしょう」

 何か反駁しようとしたその刹那、電話は切られてしまった。俺は受話器を放り投げて玄関に走り廊下へ躍り出た。左右を見渡しても人影はない。すると奥のほうで、このビルのボロいエレベーターが稼働する音が聞こえた。走る。エレベーターホールについた頃にはゴンドラは静かに階下に向かっていた。俺は慌てて非常階段へと出た。

 奴はいったいここへ来て何を見た? 郵便物か? いや、鳥辺が俺宛に私信を送ることなどまず考えられぬし、だいたいこのビルの郵便受けは一階のビル入り口にある。わざわざ四階にまで来る必要はない。

 結局埒が空かなかった故腹立ち半分の空脅しだろうとは思う。思うが。

 一階の扉を開けた。

 誰もいない。

 古い病院に備え付けてあるような蛍光管が、点いたり、消えたり、している。

 静かな空間に、俺の荒い呼吸が異質だ。

「ふ、、、」

 涎を拭う。

「ふざけやがって、、、」

 久し振りの全力疾走に、遅れて汗が吹き出してきた。

 馬鹿野郎、なめんな畜生と繰り返し悪態をついて、俺は事務所に戻った。

 汗を拭きつつ仕事鞄に持ち帰る物を詰めていく。


 手が止まった。


 二つ折り型の携帯電話が開いていた。

 俺は存外几帳面な性格で、携帯電話を開きっぱなしで置いておくことなどまずありえない。


 やられた。

 あんな単純な罠に引っ掛かる俺も俺だが、、、。

 奴は俺の携帯電話のメモリーを見んが為にあのような嘘をついて、、、いや、そもそも徐々に近寄ってくるという方法そのものが、俺に自分の存在に食らい付かせるが為の策だったのではなかろうか。


 携帯電話はしっかりと鳥辺トモの頁で省電モードになっていた。この証拠の残し具合は意図的なもののように思える。なんとなくだがチスイとはそんな男だ。

 なんにしても愚かしいのは俺だろう、まんまとこんな安っぽい罠に嵌ったのだから。

 一応知らせておくべきだろうと、俺はそのまま通話ボタンを押し、件の元恋人に別れて以来初めての電話を掛けた。素直に出てくれるといいのだが、最悪今は留守録にでもメッセージを残しておくべきだと思う。

 着信拒否にされてなければいいが。その心配は杞憂に終わった。本人が出ることこそなかったが、俺は留守録に矢鱈に早口で用件を吹き込んだ。

 とにかく妙な男から電話が来たら警戒しろと繰り返し繰り返し。トモは何かにつけ聡い女であり、余計な心配は必要ないのかもしれない。

「登録外拒否には」

 してないよな。

 なにもできないが故に気ばかりが急く。

 胃がむかつく。胃酸の分泌が人の倍はいいらしい俺は、疲れや空腹がまず胃にくる。

 事務所にいつまでもいても仕方あるまい。とりあえず一度家に戻ることにした。朝になったらトモのアパートにでも行ってみようと思う。行ったところで何か変化があるような問題ではないのかもしれず、はたまたハナから問題など起きていないのかもしれず。右往左往しているのは俺だけなのかもしれない。

 携帯電話が震えた。咄嗟に液晶表示に目をやると、電話の相手はトモだった。

「も、もしもし?」

 トモは酷く事務的な口調で一方的に用件を述べた。内容を要約するまでもない、なんであんな誰とも知らぬ男に自分の携帯電話の番号を教えたのかという、概ね俺に対する批難である。まるで間抜けで反論する気もない。

「その男はチスイって名乗ったのか? そうか、一緒だな。え? いや。それよりトモ、、、あ、いや。と、ともかく、チスイは何の用で電話を掛けて来たんだ?」

 それだけは聞いておかねばなるまい。

 電話の向こうのトモはよくわからないんだけどと前置きしてから、ウルメの連絡先を聞かれたといった。

「ウルメって、あの潤目民子?」

 トモは他にいないでしょそんな名字と答える。

 潤目民子とは過去に関わりがあった。いうも憚る恥ずべき過去だ。

「けど、潤目民子はもうこの世には」

 いない。出会った時にはもう死んでいて、そして今は姿を消して久しい。

 トモは少し苛立たしげに、だからそういったわよといった。

「そうか。うん、わかった。もうその電話には出ないほうが、、、ああ、そうだな。俺にいわれるまでもないな」

 じゃあ切るからと突慳貪にトモはいう。俺はまだ何事かいうことがあるような気がしたが、なんとなく気圧されて、重ねて謝意を口にしてから電話を切った。

 溜め息を吐く。

 なんだかとても厭な気分になる。本当に家に帰ろう。久し振りに女物の衣服にでも袖を通して、どぎつい化粧でもしなければ今のこの憂さは晴れまい。


 チスイアギトはウルメタミコが最終目的だったのだろうか。

 結局俺もトモも通過点、奴にいわせれば段階だったわけで、はたして。


 謎は深まり、追求したい気もするが、

「チスイアギト」



 *


 治水顎人。

 字面を眺めれば眺めるほど奇妙な名前だと思う。

 トモはほとんど牛乳のミルクココアを飲みながらメモ書きに残った自分の文字を見つつ、そんなことを考えている。

 その名前の主から電話があったのがほぼ十分前。用件は他界した旧友の連絡先を教えてくれとのこと。そもそもその旧友の連絡先など知らなかったトモは、丁寧な口調でわからない旨告げた。続けて自分の携帯電話の番号を誰から聞いたのかを問うと、治水は壁マサルさんですと答えた。その後旧友の連絡先を知っている人間に心当たりはないかと尋ねられたが、それには一言申し訳ないですがとだけいった。神経を逆撫でするような聡明さが感じられる口調の主なので、あれやこれやと食い下がってくるかと思いきや、治水は案外簡単に引き下がり、夜分御迷惑をお掛けしましたといったのを切り文句に電話を切った。

 トモは直ぐさま壁に電話を入れ、いいたいことをいって、聞きたいことを聞いて早々と切った。

 台詞の練習をしていたのだが、なんだか興が醒めてしまった。

 以前所属していた芸能事務所との契約を切り、トモは自分の力で女優業の一からの出直しを計っている。アパートと同じ町にある小さな劇団に所属をし、その活動の傍ら派遣社員で様々な仕事をこなしながらの毎日。寝る間もあまりない忙しい日々だったが、それなりに充実していた。

 また、忙しい日常は、ひと月前の信じ難き現実を忘れさせてくれる。

 トモはひと月前、命を奪われ掛けた。それも普通には考えられない理由で。

「食べられちゃうとこだったもんねえ」

 冗談ぽくそうひとりごとをいってみるが、実際今以て思い出すだに肌が粟立つ。

 本当に、現代日本では考えられない話だ。ひと月経って思い返してみれば、あの日訪れたあの場所は、もしかすると今のこの日本とは地続きの場所ではなかったのではなかろうか。何かの拍子で(トモはそういった言葉が嫌いだが)異世界にでも迷い込んだのかもしれない。

 液晶画面にこだわって買った、小さなテレビを点けた。

 はるか南に発生した台風の情報と、奇妙なダイエット器具の通販番組しかやっていない。

 消去法で台風情報をかけておくことにする。妙な音楽が耳障りにならない程度に流れているのでBGMにはちょうどいい。

 トモはココアの残りを干すと、再度台本に没入した。トモの役はまだまだ端役で台詞も少なく、覚えはほとんど完璧ではあったが、この主人公の男の感情の変化が何度読んでも理解できなかったのだ。

 欠伸をすると顎の関節が鳴った。

 常々病院に行こうとは思っているが、はたして顎関節症の懸念がある場合というのは何科に行くのがいいのだろう。思い悩む前に、とっとと総合病院にでも行って受付に尋ねたらいいことなのだろうが、要は行くのが億劫なのだ。

 それよりも。

「やっぱりわからない」

 どうしてこの場面で声を出して泣く必要があるのだろう?

 大の男が嗚咽をもらして慟哭するなどよっぽどのことだとトモは思う。その余程のことをするに見合った状況ではないと思うのだ、台本のこの筋では。台本初見時トモは脚本家兼主役の男優を掴まえそのことを尋ねたが、物事を訴えるにはそれなりに派手な演出が必要なのさという、よくわからない答えが返ってきたのみだった。トモにはその彼のいう訴えたい物事とやらが泣き叫んでまで他人に伝えるようなことではないと思えてならないのだが、本書きは一言、世の中ってのはベタなモノを結局好むのさと更に理解不能な言葉を重ねて、颯爽と立ち去った。

 ベタなモノの定義を聞きたい気もしたが、そこまで食い下がる気にもなれず、結局トモはその時有耶無耶なままで終わらせた。

 寝転がる。

 天井近くをふわふわと舞う羽虫を何気なく眺め、ああ明日も早いんだったと思い出す。

 寝不足で体調を崩したことはないが、表面的な機嫌が悪くなることがあるらしい。らしいとは、つい最近派遣先の人間に指摘されて気付いたことであるからだ。

 自分の機嫌と仕事の能率が比例しているとは思わないが、そう指摘されて以来トモはそうしたことにも気を遣うようになった。自分も少なからず人との関わりで生きているのだと過去の出来事で思い知らされていたことが、彼女に素直にそう思わせている。

 意思の力よりも、日々の生活に於いての必要に迫られることで、人は多く変わっていくものではないのだろうか。

 まあいい、取り敢えず寝ようとトモは立ち上がった。

 自分が動いたことに因る風の流れで、ふっと鼻に嫌な臭いが届いた。トモは口を引き結び、眉間に皺を寄せた。

 黴の臭いだ。

 このアパートに越してきた時からそれは気になっている。引っ越し当初、水回りや押し入れの中など注意深く見てみたが染みひとつ見つからなかった。それでも脱臭剤を多めに置くことで少しは解消されたので今はそこまで気にしていない。ただ時折鼻に届く臭いが矢張り不快だった。黴などの臭いというのはどうも、慣れることはないらしい。

 それと関係しているのかはわからないが、最近では喉も痛い。思っていた以上に練習がきつかった為、煙草は劇団に入った時点でやめた。もっともその禁煙もつい最近のことであるので、健康な喉や肺に戻るのはまだまだ先のことだろう。

 小さな空咳を続けて三つした。気持ち熱っぽい気もする。季節の変わり目で感冒でももらってきてしまったか。

 薬のかわりに栄養剤を飲み、歯を磨いてトモは床に就いた。

 新しい部屋は一階にある。

 秋の虫がうるさいほどに鳴いている。


 翌朝の目覚めは最悪だった。頭が重い、息を吸うたび鼻孔が熱い、関節も痛む。計測するまでもなく熱があるのは明らかだった。珍しく目覚ましのタイマーを仕掛け忘れた時計は午前六時になろうとしている。今トモが派遣社員として雇われている工場は七時出勤。今すぐアパートを出ても間に合うまい。トモは枕元に置いてある携帯電話を引き寄せ、本日体調不良により欠勤させてほしいと告げた。雇い先の事務員はごく簡単にわかりましたといってぶつりと電話を切った。

 だらだらと伸ばし続けている髪を手櫛で掻き揚げ、自分の頭を枕に押し付けつつ薬箱に風邪薬はあっただろうかと考える。

 額に触れると、いやでも高熱であることを思い知った。トモは大きな溜め息をついた。それに釣られるようにして咳が立て続けに出た。ぜいぜいと荒い呼吸を重ね、なんとか楽な仰臥位に落ち着こうと、トモは布団の中でもぞもぞと動き回った。

「うう」

 思っている以上に体調が悪い。

 この様子では寝ていてもどうにもなるまい。

 取り敢えず着替えよう、病院に行かなくてはとトモは起き上がった。ところが起き上がって数秒もしないうち腰砕けにへたり込んでしまった。酷い目眩に襲われる。吐き気もある。トモは這うようにしてなんとか水分を摂り、風邪薬の空瓶を投げ捨て、解熱作用のある鎮痛剤を飲み、また這うように寝床に戻った。

 とにかく熱が下がらねばどうにもできない。今は寝ているよりないようだと、トモは諦めてまた瞼を閉じた。


 仕事に遅刻する夢を見た。


 目を覚ます。時計を見るとまだ七時を回ったところ。額に手を当ててみるが、先ほどと大差ないようだ。

 一日や二日仕事を休んでも構わないが、演劇の稽古だけは休みたくなかった。ただこの状況では顔を出したところで迷惑にしかなるまい。

 寝床から這い出る。冷蔵庫にはキナコ餅しか入っていないので台所に直行する。ゆらゆら左右に揺れる身体をなんとか制御してコップに水を受け、音を立てて飲み干す。それを三度ほど繰り返すと昨晩からろくにものを食べてないせいか、胃の腑がきゅうと鳴った。

 熱の出方が急激な気がする。風邪ではなくインフルエンザだろうか。ならば寝ていても仕方ない、やはり病院に行かなくては。そうは思うものの身体がいうことを利かず、トモは結局また崩れるようにして布団に倒れ込んだ。

 携帯電話をいじるも、このような時頼れる友人はいない。

 熱でぼんやりする視界に滲む小さな液晶画面。電話帳を順繰りに見ていく。

 劇団事務所はまだ人がいないだろう。

 その後に連なる幾人かの劇団員も、稽古場に行けば話をする程度でお互いどのような生活をしているのか知らない者たちばかり。

 続いて中学や高校の頃の級友。級友とはいっても、向こうもトモもお互い友達だとは思っていない。

 高校の先輩。大学を出てすぐ結婚したらしい。

 大学のサークル仲間。後から漏れ聞いた話で、サークル内で唯一現役司法試験合格したトモを妬み、あることないこといい加減な噂を広めていたらしい。

 トモは枕に突っ伏した。案外自分の生きてきた世界というのは狭いものだと、このような状況で痛感している。

 携帯電話の画面には壁マサルの表示。

 枕に突っ伏したままのトモは、親指で通話ボタンを探る。だが押しはしない。

 壁なら大袈裟に薬や食べ物を抱えて飛んでくるだろう。それを十分に承知しながら。

 電話が鳴った。

 トモはまさかと思い液晶画面を見たが、知らない番号だった。いや、知らないことはない、つい最近見た番号だ。

 昨晩。

 治水顎人だ。

 昨日の会話で用件は済んでいるはずだし、だいたいが昨晩もそうだが電話を掛けてくる時間帯が非常識過ぎる。

「ああ」

 今回はそうでもないのか。どうやらトモは、あれから携帯電話を片手に一時間半以上も過去に出会ってきた人たちと向き合っていたらしい。目眩も倍増するはずだ。

 ジャコパストリアスはまだ鳴っている。もうじき留守録モードに切り替わるはずだ。

「もしもし」

「これは失礼、寝ていらした?」

「治水さんですよね? ご用件は?」

「随分と声が辛そうだ。風邪でも召されましたか」

「どうでもいいわよ。用件いって」

「そう邪険になさらずに。まあ用件というのは他でもない、潤目民子さんの件なのですが」

 熱に浮かされながら、思わずトモはしつこいと叫びそうになった。

「一晩経って、もしやなにか思い出されたことがあるのではないかと再び電話をさせていただいた次第なのですが」

 トモは無声音でそれどころじゃないってと呟く。

「知らないって、なにも」

「それでは潤目さんが、何故生き返ったのか、それも人ならぬ身で。その理由はおわかりではない?」

 この男はいったい何を知っているというのだ。トモは慎重な対応を心掛けざるを得ない。だが、体調不良が簡単に彼女の集中力を殺ぐ。

「そこまで知ってるんなら、今更私が答えることはないわ」

「はは。噂は本当だったんですね」

 治水顎人は声に喜色を含ませた。

 トモは一瞬固まる。

「あの子は自殺したのよ。それ以上知ってる話はないから」

「自殺の理由はご存じない? 生き返った理由も?」

「だから、生き返ったとかわからないわよ!」

 つい口調も荒くなり、トモは咬み付くように言葉を重ねた。

「私の知ってる潤目民子は自殺して、その後その潤目にそっくりな女が現れただけ! 私にはそうとしか思えない。それ以外の理解の仕方があるなら聞きたいくらいよ!」

 死人が生き返るわけないじゃない、、、そう呟きながら、高校時代自分が潤目民子に為してきた様々な虐めの光景を思い出す。はたしてあの時期に彼女が自らを殺していたなら、今こうして怒鳴りつけるように言葉を吐いたりできていないだろう。それは大きな瑕疵がトモの内奥に生成されていたに違いない。

「そっくりな女、ですか」

「そうよ」

 事実はそうではないと、トモは十分知っている。そして高熱の出ている彼女の判断能力は著しく低下している。

「治水さん、潤目に会って何を聞きたいの?」

 トモがそう尋ねると治水顎人は喉を鳴らして笑った。なんとも人の内面を鑢で撫でるような不快な笑い声だった。ちらりと彼の本質を垣間見たような気にさせられる。


 この男は絶対にヤバイ。


 憧れ、ですかね。そう治水はいった。

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