火車 (四)
しゅう。
そして今度は馬頭の身体から煙が上がる。
しゅうしゅうと空へと立ち上る煙は止むことなく、次第に鬼の身が幽けくなり、やがて消え失せた。
跡には、束ねられた鬣。
「さて。あとはあんただけだ」
リョウはタミコを見た。
燃える車を破壊され、異形の御者も消され、窮地に陥っているはずのタミコであるが、よく出来た人形のような冷たく整った表情を崩すことなく、そうねとだけいって後は黙った。
風に揺られ、さわさわと木々が鳴っている。
「どうする。いや、どうしたい」
可能な限り、あんたの力になるぜとリョウはいった。
「それで私をこの世に呼び戻した責任をとるつもり?」
「いや。そういうわけじゃねえけど」
問い返されて困惑するリョウを見て、タミコは目の色を艶やかに変えた。す、と遠巻きに傍観していたトモを指で指し示した。
「あの女を殺して」
「トリベをか…?」
「無理かしら?」
「ああ。…それに殺したとして、それであんたの平穏が得られるとは思えねえ」
「平穏が得られるかどうか、殺してみてからいって頂戴!」
タミコの感情が瞬時に沸点へ到達する。
タミコの負の感情は狂気であり凶器だと、リョウはよく知っている。
「殺してよ! 殺せよリョウ!」
「そんなに殺したいなら、自分の手を汚せ」
低く沈んだ声でいうリョウに、タミコの逆立った感情が少しだけ撫でられる。
「あんたがどれほどの仕打ちをあの、トリベから受けたのか俺にはわからない。それがどれほど辛くて、どれだけの傷なのかも想像できん。もしかするとトリベは、実際殺されても仕方のない人間なのかもしらん。罪人にも情けをかけろだの、どんな場合も人が人を殺しちゃならないだの、そういった口幅ったいことをいう気もない。ただひとつ。ひとつだけ俺が守らなきゃならないと思っているもんがある。それは、どんなことがあっても生身の人間を手にかけちゃならない。それを破ったら、俺は落ちるところまで落ちる気がするからだ。人とは違う身体や力を持ってるってのは、そういうことだと今はそう思ってる」
「落ちるって」
「下だよ。地の底。闇ン中だ。正直どんな世界か、いや実際そんな世界があるのかもしらねえが、とにかく」
「その世界に私を堕としたのは、あなたでしょうに」
「…俺が」
「あの時あんたが私を生き返らせなければ、私の魂は精々この世を彷徨っていただけ。それをあんたが一度拾い上げた。それがどういうことだかわかる?」
リョウにはわからなかった。だから正直に首を振った。
「あんたに拾い上げられた私はね、気付いてしまった。あんたが疑っている世界が確かに存在していることに。私がここにいることが、何よりの証拠」
あなたは私を救えない。
タミコはゆらゆらと揺れる。まるで舞いを舞うかの如く。
「だから精々私の為に鳥辺を殺して。それがリョウ、今あなたが、私のためにできること」
リョウは言葉を失った。
右手には鉄刀が生え、左腕には過剰な目玉。それを支える身体は無限の再生を繰り返す。そのような身を持つのなら早く涅槃へ行くのだ。そのほうが何より楽なのだと、アタマの何処かから聞こえてくる。
「それでも! それでも俺はヒトを助ける!」
その決意は、リョウがリョウとして生きていくために必要なもの。誰のためでもない、自分の足で、前を向いて歩き続けるために。
エンジン始動音。
赤い女を注視していたリョウたちは一斉に音源を見た。
五階がアルファロメオに乗り込んでいた。
タミコは冷ややかな顔でその様子を見ている。
五階は笑うように叫んだ。
「こうなっちゃうともう、とにかく証拠隠滅して、私はイチからやり直すわ!」
実にわかり易い。小悪党の壁ですら呆気に取られている。
だいたいがここにいる数人を次々に轢殺したところで、その先彼女に明るい未来が拓けるとも思えない。
自分を見失っているのだろうか。そうだとしたなら最悪だ。
アハハハハハァァァァ
タイヤが鳴って砂塵が舞い上がる。
かたり。
その時、破壊され、今は燻るのみとなっていた火車の破片が微かに動いた。リョウは目敏くそれを感知し、まずいぞと呟いた。
「カベ! その女を車から引き摺り出せ!」
壁は数瞬の躊躇の後、車に駆け寄った。壁も五階も、少し前にお互いがメールのやり取りをしていた事実を知らない。運命と呼ばれるものを意識するなら、それは本当に奇怪なものなのだろう。
かたかた。
アルファロメオがその赤い身を震わせ、最初にタミコに狙いを定め発進した。その様はまるで古生代の大型肉食獣のようだ。
かたかたかた。破片が舞い、集まる。
「やめろ! 車を停めろ!」
暴、と音が鳴って、悪徳を為す者を連れ去るという炎の車が瞬時に再生した。強烈な炎も元のままだ。
このままでは確実に五階は車ごと火車に呑まれる。
「タミコやめろォ!」
リョウの咆哮に、タミコは少し呆然としている。
五階は状況を理解しているのかどうか。いや、繰り返すが冷静ではないのだ。だいいち冷静であるならば、既に何人もの人間を呑み込んだ車に直進していくはずがない。それとも鉄の車であれば、火の車に勝てるとでも思っているのか。
待てよ。
リョウは駆けながら考える。
タミコは、五階が未だ極端な罪を犯していないことを知らない。タミコが火車とともに現れたことは事実だが、それは決して彼女が火車を操っていることと同義ではない。しかしそれならば、どうして火車は再生したのだろう。このタイミングでかたちを戻したならば、それはなんらかの意味があるはずだ。
意味。意味意味意味。早く気付け俺!
火車自体に意思があるとしたら?
火車の意思。ヒトに仇なすものを燃やす。
その身を戻し、次に呑み込むのは、今最もヒトに害意をあらわにしている、
ゴカイか…いや、タミコだ!
リョウは飛び、タミコに組み付いた。
火車の炎が迫る。その横をアルファロメオが走り抜ける。
火車などはきっと昨日今日の妖怪如きが操れるような代物ではないのだ。
視界の隅に赤い車が竹藪に突入するのが見えた。ばきばきと竹を折り、やがて停止する。運転席の五階はハンドルに額を打ったのか昏倒している様子。
そのほうが都合がいい。
火車がぐるりと向きを変えた。いうまでもなく無人である。
リョウの判断が間違えていない証拠だろう。
タミコがリョウの腕の中でもがき、
「また、また余計なことをッ…」
といった。
「なにいってやがる。火車はお前の思惑とは違って、お前を呑み込むつもりだったんだぞ?」
「それならそれで、いえ」
私はそのほうが良かったんだ!
タミコの感情の爆発で火車は一段と炎の勢いを増し、がらがらと車輪を鳴らし、再びふたりに突進してくる。
リョウはタミコを地に捩じ伏せた。
「そうまでいうなら斬ってやるよ」
これ以上タミコの殺意の暴走を放っておいてはいけない。絶対にいけない。
「え…」
「俺がお前を殺してやるって、そういってんだよ」
「リョウ」
ぎりりと、リョウの奥歯が軋むのをタミコは聞いた。
「その刀で私を斬るの?」
「この刀は妖怪の刀。いずれ人の世の物ではないなら、」
轟。
火車は改めて、新たな殺意を発するリョウに狙いを定めた。
「妖怪の女ひとり、斬るのは容易い!」
轟轟。
呑まれる! 誰もがそう思った瞬間、リョウは火車の曵き手を左手でしっかりと掴んでいた。地獄の炎がリョウの手を焼くが、リョウの身は焼却されるその一方で再生を繰り返し燃え尽きることはない。
凄まじい痛みに苛まれながらリョウは、
「おいタミ! こいつはどこからやってきたァ!」
と地に平伏す女に大声で問うた。
タミコは思わず地を指差す。
リョウは持ち上がれやああああああああああああああああああ! 雄叫び、左手一本で火車を持ち上げると、思い切り、
地へ
「帰れえッ!」
耳をつんざくような大音響が鳴り響き、目の眩む閃光にリョウもタミコもカベもトモも一瞬世界を見失った。
朝靄の晴れるようにゆっくりと視界が元に戻っていく。
見ればリョウは地べたに腰を落とし、その横にタミコが立っていた。
リョウを見下ろす目に毒気はない。ただただ哀しそうだ。
「あなたはまた、私を留めてしまった。私はもう還りたいのに」
「還さねえよ」
リョウは立ち上がった。身体は煤だらけで、左腕の目の幾つかが潰れていた。
「俺の目が黒いうちはな」
その過剰な目は再生することはないのだろうか。
壁は自分の車から五階を引き摺り下ろすと、後部座席から替えのワイシャツを持って来て、惚けるトモに渡した。
「送ってくよ。車が壊れてなければね」
トモはまだ泣いていた。
「生きてりゃまた会うこともあるだろ」
聞きたいことが山ほどある気もするのだが、正直リョウも多分に興奮していたし、且つ混乱していた。
今はただ酷く疲弊していて一刻も早く眠りたかった。
「私は…ああ。思い出せない。どうして私は火車に…」
「またその火車に乗って俺を見張っていればいい。もし俺がヒトゴロシをしたなら、是非俺を燃える車に突っ込んでくれ」
どこでどうしてタミコは火車に乗ることになったのか、リョウもそれを聞きたい気がしたが、聞いたところで詮無き気もした。
タミコは泣きも笑いもせず、次第次第に薄れ、やがて消えた。
替わりに壁が歩み寄って来た。
「今回もとんでもない話で」
「ああ。とんでもねえ。また巻き込んじまって悪ィな」
「まあそれはいいよ。それよりリョウさん、お礼は?」
「あ? ああ、覚えてやがったか」
「当然。現世利益のみが生を繋ぐよすがなのでね」
「多分お前は、この先また危険な目に遭うだろうな」
「え? あぁまぁ。うん。当面はおとなしくしてるとは思うけど、ほとぼり冷めたらどうなるかはわからないね」
「その時、俺はどこにいたってお前を助けてやるよ。それが礼だ」
リョウはそういって、笑った。
壁は薄い夜明けを迎えつつある東の空を見つめながら、俺はお金が嬉しいんだけどなと、苦笑いで返した。
五階は気を失ったまま。リョウも壁も捨て置くつもりだ。
「この集落はどうなるのかな? …まあ燃やされた奴らは今更どうにもならないけど、散り散りになって逃げた奴らもいっぱいいたようだけど。ほっとくのかい?」
「そこまで知らねえよ」
「中途半端だな、放っておくんだ。ま、そのほうが俺みたいな人間は愉しみが増えるってもんだけど。社会通念上大変宜しくないとは思わないか?」
「け。なにが社会通念だしゃらくせえ。俺もお前もそんなもんとは別の世界に棲んでるだろうが」
この土地もそうだよ。別世界だとリョウはつなげる。
「もっとも、また誰か生きてる奴つかまえて、殺して喰おうなんざしたら」
今度は本気で村ごとぶっ潰す。そういってリョウは、一度大きく息を吐いた。
壁はなにかを感得したのか妙にしたり顔をして見せる。
「さて、どうする? 乗る? 壊れてなければね」
そして、改めてそう問う壁に、リョウは返事もせず自分の右腕に意識を向けていた。
「リョウさん?」
「ん? なんかいったか?」
「どうかした?」
「ん、うん。なんでもねえよ」
「それで、乗ってくかい。車」
いや、いいよ。色々ありがとなといって、リョウは壁に背を向けた。
「カベマサルぅ」
「はい?」
「またな」
壁は二度とご免だと矢張り笑って、トモの乗る車に向かった。車内からスタッフがどうのといったトモの声が聞こえた。
リョウは右腕を気にしている。
刀を戻した右腕の傷はとうに塞がっているが、以前と比べるとほんの少し、本当にほんの少しだが治癒に時間が掛かった気がしたのだ。
そして潰れた目玉は未だ再生していない。
物を見るのに不自由なことはないが、気になった。
「いや、まさかな」
まさか目玉が潰れるほどに自分はヒトに近付くのではあるまいか。歩きながらリョウはそう思っている。推測だけで結論は出せない、それ以前に、
今はまだこのカラダが必要だ。
そう思っている。
何故なら、陵霊の旅はまだまだ続くからだ。
父と再会を果たす、その日まで。
火車編 完