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ゲオマ  作者: 偽薬
7/13

火車  (三)

「それじゃあよ、坂野さん。あんたンとこの会社から捜索願いが出るのを待つしかないってことだ」

 古葉がそういうと、坂野が若干震えた声で、

「俺の会社はね、俺と四ツ元、あとは照明の萩くんの三人だけなんだよ」

 といった。当然ながら皆一様に驚く。

「三人だけ? 本当かそれ」

 坂野は頷いた。途端照明が少し暗くなった。バッテリーが切れかかってるらしい。

 萩が、ごく小さな声でバッテリーの替えがないことを告げた。時間はまだ深夜にもならぬ。坂野は照明を消させると、替わりに小さな懐中電灯を点した。

 外に気を遣るが人が居るのか居ないのか、木々のそよぐ音と虫の声しか聞こえてこない。

「五年前に俺がひとりで立ち上げた製作プロダクションだからな。途中で四ツ元を採用して、萩に関しては入社したのは今年に入ってからだ。まあ萩の場合は経験者だから採用したんだがね」

 古葉はそれは大きな溜め息落とした。

「俺はフリーのカメラマンだし、鴨さんは今は社員じゃないし」

 それにはトモが質問する。

「すると鴨井さんはフリーの音声さん、ですか?」

 鴨井はどこか照れ臭そうに、違うんだよと手を振った。

「待遇のことで上とやりあっちゃってさ、居づらくなって自主退社したんだな。で、職探ししてる時にバイトがてら来ないかって、古葉くんに誘われたわけだ」

「音声の器材は俺が持ってるし。鴨さんには若い頃何度も世話になってるしな」

 色々あるものだとトモは思う。

 坂野が声をあげた。

「有り得ないよな。いくらなんでもこんなメンツは」

「このメンバーを揃えたのが四ツ元さんであるならばいずれ作為的なものを感じます」

「鳥辺さんとこの事務所は? 芸能事務所なんだから、タレントさんがいなくなると困るでしょ」

 最早一縷の望みとなったトモの事務所の状況に、不遇な男たちが耳を傾ける。正直トモは他人に聞かせられるほどに自分の所属する事務所のことを知らなかったので、そのまま大月に下駄を預けた。

 大月は鼻に浮いた脂で眼鏡が落ちるようで、何度も眼鏡の位置を直しながら、

「社長は今アメリカに行ってます」

 とだけいった。それだけいうのにぜいぜいしている。

「アメリカ? 帰って来るんだろ」

「詳しい日程は聞いてません。おそらくは一か月程度で帰ってくるとは思いますが。ちなみにウチの社長、グリーンカード持ってるんですよね」

「グリーンだかブルーだか知らねえけど、随分いい加減な社長だな。下手すりゃ一年も二年もアメリカ行ったきりってか? で、社長以外は?」

「えと、同僚が数人いますけど、正直お互いのことというか、お互いの担当しているタレントのことなんか気にしてませんね。気にしてないならまだマシかな。いがみ合ってるなんて場合もありますか。まあそれも、お互いをライバル視せよと、社長がそういうもので。和気藹々よりも切磋琢磨が我が社の社是です。その実お互い足の引っ張り合いですが」

「たくよう! どういうことだよ。こんだけ人数がいて、なんで誰一人」

 そう古葉が嘆くのも無理はない。比較的冷静であったトモでさえ、今までの話で顔色を悪くしている。

「四ツ元さんがすべてを仕切り、私たちをここへ集め、そして閉じ込めた」

 誰ひとりとして帰京予定を超過したとて心配されることのない者どもばかりが集まっている。撮影云々、技術云々ではなく、スムーズに監禁を継続できるか否かが、この面子の選択基準ではないだろうか。トモは尖った顎に右手を添えてあれこれ考える。

「つまりは、少なくとも私たちを、すぐにどうこうしようって気はないってことですよね」

「にしたって、とっとと出る方法見つけないと」

「それはそうです。水も食料もないわけですし」

 トモがそういうと坂野は流しに近寄り、蛇口のひとつを捻った。なにも出ない。

「涼しいとはいえ、閉め切った部屋にずっといればそう長くは保たないよな」

 何にしても、ここでこうしていたってどうしようもありませんといって、トモは室内の隅々を調べはじめた。何をしてると坂野が問うた。

「隙間風が入ってきてます。何処か壁板がずれていたりするのかも」

 廃屋なのだ、それは十分あり得る。

 動けるうちに動かねばと、男連中もトモに倣い、這い蹲ったり背伸びしたりしてそちこちを調べはじめた。

 坂野がいう。

「確かに隙間風がくるな。どうも下からのような気がするんだが」

 すると皆一斉に床を調べはじめた。

 畳をめくり床板を外せば、軒下から脱出できるかもしれない。そう期待して。

 トモは夢なら早く覚めてくれと思いながら、一枚一枚畳を調べる。すると、真ん中の一枚が、微かに沈んだ。

 トモは四つ足で近寄り、ぐいと手で押す。動かない。立ち上がり、今度は体重を掛けて足で踏んだ。確かに微かに沈む。


 ぎい。

 ぎい。ぎい。


 トモは皆を呼んだ。

 男数人が静かに掛け声を合わせて、ゆっくりと畳が外された。

 一枚、二枚、三枚。

「あ、ここ。ここの床板、色が違います」

 更に色の違う床板数枚を外すと、透かさず坂野が明かりを向けた。

「こりゃ、なんだ」

 そこには焼却炉の蓋のような、鉄製の扉があった。扉の隙間から風がもれている。

 古葉が扉の把手に手を掛け、周囲に揃った雁首ひとつひとつを見た。


 ぎ。

 ぎぎぎぎぎ。

「ん? おお。階段か、こりゃ」

 内部は石室のようになっており、古葉のいうように簡素な階段が設えられていた。

 古葉は周囲を顧みて、無言で意思確認をした。ここにいてもどうにもならないのだ、取り敢えずは階段を下りてみるしかあるまい。

「地下室なのか? なんでこんな床下にあるのかな」

 どうするよ。俺ひとり見てくるかと古葉がいったが、坂野がゆるゆると首を振った。

「いや、みんなで行こう」


 人ひとりやっと通れる幅の階段を、古葉、坂野、鴨井、萩、そしてトモ、最後に大月の順でゆっくりと下りた。

 なんとも形容し難い匂いが充満している。甘いような、胸がむかむかするような。

 トモは口元を押さえた。ただ、温度が低いせいか堪え難いというほどではない。

 階下は石に囲まれた、形容するなら矢張り石室だろうか。広さはかなりあり、幾つもの棚が等間隔で並んでいた。明らかに貯蔵室のていを成している地下室には冷気が充満していた。

 古葉は故郷の氷室を思い出していた。

 坂野は祖母の漬け物小屋を思い出していた。

 棚には何も並んでいない。そもそもが床下にある貯蔵庫など不便極まりないわけで、いずれ真っ当な使用法ではないことは容易に想像できる。

 トモは先から悪寒に支配されている。

 怯える身体で周囲を見回し、不図壁に設置されたスイッチを発見した。明かりだろうか。試しに電源を入れてみると、天井に付けられた電球が一斉に点った。おおと声が上がった。

 視界が断片的なものから、ほぼ全方向へと展開した。

 木の棚の上に幾つかの壺や袋が置いてある。はたして何を貯蔵していたものか、そのモノ自体は見当たらない。

 ひとりで色々見ていた鴨井が、ひゃあとかわあとか奇妙な声を上げて腰を抜かした。何事かと皆集まって、鴨井の視線の先を追った。

 作業台のようなものが壁際にある。錆びたバケツとホース。水道管が天井から延びており、蛇口も確認できた。蛇口の下は石造りの洗い場のようになっている。

 恐らくこの六人の中で最も度胸があるであろうトモが、作業台に近寄っていった。

「あああ」

「どうした、鳥辺さん」

 なにがあると坂野が歩み寄り、トモと同じように作業台の上を見た。

「これは…」

 特に何があったわけではない。鉈や包丁や鋏や、刃物が数種類置いてあるだけなのだが、そのどれもが一様にどす黒く変色していた。

「ここは動物の剥製を作る工房か何かなんだな」

 坂野は明らかに吐き気を堪えながらそういった。しかしトモがやんわりと否定する。

「それならそれで、動物の皮なりがあってもいいと思います」

「いや、だからさ。今はもう使われてないんだよ、きっと。片付けちゃったんだろ」

「道具は置きっぱなしにしてるのにですか?」

「ま、まあ、そういうこともあるだろ」

 あちこちを物色していた古葉が、ふたりの間に割って入ってきた。

「これなんだろうな」

 古葉は小さな壺を持っていた。蓋は開いている。

 先ずトモが覗いた。

 乾いた板状のものが見えた。一見すると、漢方の薬局に並んでいる物と大差ないように思える。

「乾いてて何やらわからんね」

 坂野もそういった。そうだよなと古葉が壺を棚に戻した、その時だ。

 上の方から俄に物音が聞こえ、続いて女の声が地下室に投げ込まれた。

「下に行ってくれるなんて、手間が省けるわ」

 四ツ元の声だった。がちゃがちゃと金属音も聞こえる。

 坂野が階段に走った。

「四ツ元!」

 他の誰も動けずにいたのだが、ややあって坂野の畜生という怒鳴り声が聞こえたことによって、


 更に奥深くに監禁されたことを知った。


 坂野は鉄扉を乱暴に叩きながら、すぐ傍にいるだろう部下の名を連呼する。

 返事などあるわけがない、どうせ既に立ち去っているとトモが思っていると、

「殴ったり蹴ったりしても開かないわ。死期を早めるだけだよ」

 四ツ元の声がした。

「死期だとぅ…」

 坂野はへたり込んでしまった。

「まあ、そのほうが好都合だけどね」

 四ツ元の声は幼いだけに、こうした状況下で聞くと酷く神経を逆撫でする。トモは小走りに階段に寄り、上へ向かって声を投げた。

「何の真似なの? あなたが私たちを監禁したいがために集めたのはわかった。その目的を聞かせてよ。なんで私たちなの? やっぱり、いなくなっても探す人がいないから?」

 暫く無音だった。結局立ち去ったかと誰もが思っていると、

「その通りよ。捜索願いが出されたりしたら面倒だものね」

 と、若干今までの四ツ元らしからぬ口調で言葉が返ってきた。

「これからどうする気なの?」

「知りたい? 知らない方がいいと思うけど」

「教えなさい」

 あはははは! 場違いなけたたましい笑い声に、トモは更なる不快感を覚えた。

「なにがおかしいの」

「だって鳥辺さん、こんな状況なのに高慢なんですもの。生まれつきなのね、その偉そうな口調」

 こんな状況でなにをいっているのだろうと、正直トモはそう思ったが、四ツ元を逃がすわけにはいかなかった。

「ごめんなさい。私の口調が気に触ったんなら謝るわ」

「ううん、もういいの。ていうか態度悪い方がいいの。私の心が痛まないから」

「どういうこと?」

「あなたは少しだけ特別なのよ」

「だからどういうことよ」

「やっぱり良心が痛むのよね。だから最初は、まったく私と無関係の人間探そうとしたのよ。ケータイのサイト使ってね。でも、坂野さん、あなたも偉そうだから」

 トモは坂野を見た。坂野は片方の眉を上げ、苛立ちをあらわにしている。

「まあいいかなって思ったのよね。ムカつくから、消えても。そりゃ職にあぶれるのはイヤだけど、ほんと嫌いなのよ、偉そうな人」

 だから萩くんは巻き添えね、それはごめんなさいと扉の向こうで四ツ元はいう。

「まあ、カメラマンさんも音声さんも巻き添えは巻き添えだけど。それはこの際運がなかったと思って頂戴」

「だからッ目的は何ッ?」

「ふふ。大声出さなくても聞こえるわよ、馬鹿ね」

 ふっとトモの眉間が熱くなった。

「あなたたちには餓死してもらう。そこ、とても乾燥してるし、温度もすごく低いでしょう。だから死体は腐らないの」

「いってる意味がわからない。だいたいなんで私たちが死ななくちゃいけないの?」

「それは偶々よ。偶々私の周囲にいて、そして既にお気付きだとは思うけど、行方を眩ましても当面平気だから。だから、こんな酷い目に遭ってる」

「餓死させてどうしようというの?」

「聞いてどうするのよ」

「教えなさい」

「ふふ。いいわよ」

 四ツ元の声に喜色が混じったようにトモには思えた。

「使うの」

「は?」

「使われるの、あなたたちは」

「使われる? どういう意味?」

「この集落はね、昔からそうしてきたのよ。人体に勝る薬はないの」

「は? 薬? 馬鹿なこといわないで! そんな冗談聞きたくもない」

「冗談であるものですか」

「ほ、本当に私たちを薬にするというの? そんなの有り得ない…」

「ふん。辻橋を、あなたたちの常識で量らないでほしいわね」

「まさか四ツ元さん、ここの出身なの?」

「当たり。私は生まれも育ちもここ辻橋よ」

 ちなみにいうと、本名は五階なの。トモはああと吐息をもらした。

 五階といえば、昨晩葬列が出てきた家ではないか。

「昨日のお葬式」

「そうね。あれ、見当たらないかな、何処かに棺桶あるでしょう?」

 トモは階段を駆け降りた。なんのことやらわからない男たちは青い顔してその姿を目で追うのみ。

 隅に、筵に覆われた座棺があった。トモは手を伸ばし、蓋に手を掛けた。釘が打ち付けてあるのだろう、びくともしない。

「乱暴にしないでね、身が崩れることもあるから」

 四ツ元、いや五階の声がいう。

「それ一応、生きてた頃は私の兄だったのよ」

「こ、これも薬だっていうの? 実の兄を、干して、砕いて、煎じて呑むの? ねえッ!」

「煎じるばかりでもないけどね。生食することもあれば、酒で練って塗布することもあるわ。腕を折れば腕を。胃を病んだら胃を。単純でしょ。人体に勝る妙薬なしよ。捨てる部位はないの」

「ふ、ふざけないで!」

「ふざけてるってそう思いたいわよね。私が逆の立場だったら、多分気を失っているもの」

 五階のいっていることは冗談ではない。それはこの地下室にある、道具や跡や匂いが無言のうちに証明している。

「まあオトナシクしていれば? 女は飢えにも強いらしいけど。でもまあこの状況」

 生き残るほうが辛いかと五階は矢張り楽しそうにいった。

 トモは再び扉に寄ると空唾を呑み込んだ。

「あなたさっき、私が特別だとかいったわよね。あれはどういう意味?」

 なんとか五階を引っ張って、打開策を見つけようとする。トモはその実逞しい人間なのだろう。

「そう。女がひとりどうしても必要だった」

「どうして?」

「雑貨売ってる清水さん」

「え?」

「清水さんチ、ふたりで行ったでしょ」

「あ、あのお店の」

「そう。あそこの奥さんね、子供ができないの」

「だから何?」

 推測しなさいよ、馬鹿ね。五階はわざとトモを煽っている。トモは怒りに任せるような真似はもうせず、

「ごめんなさい、わからない」

 といった。

 聞いて後悔しないでねと五階はいいだけ間を置いた後、

「おぼこの子宮が欲しいのよ。不妊治療のために」

 そういった。続けて笑う。

「最初は私がその候補だった」

「あなたが候補…?」

「清水家はね、辻橋で最も尊い家系なの。その血を絶やすことはできないの。だから、奥様の治療は急務だった」

「そんなに子供が、血を絶やしたくないのなら、その女の人と離婚して、それこそあなたが嫁げばいいじゃない。なにも人を殺して、」

 効かぬ治療を。

「駄目よ。清水家に嫁げる家系もまた、決まってるの。今の奥様がその唯一の資格者」

「そんな旧弊…」

「有り得ない? そうね。でも、そうした風習は辻橋では息をするより当然なこと」

「だったらあんたが薬になンなさいよ!」

「だから最初は私だったっていったじゃない」

 でもね、もうその資格がないのよと五階はケラケラと笑った。

「幾ら辻橋を愛してるといっても死ぬのはいやだわ。だから私は、清水家に世継ぎが生まれないという話を知った時点で。ね、坂野さん」

 トモは坂野を見た。坂野はその強すぎる視線から顔を反らした。

「手近にいたのがあなただけだったから。その後しばらくして萩くんが入社してきた時はかなり後悔したものだわ」

 そういって五階はまた笑った。

「死にたくないんだったら、鳥辺さん誰かとヤッたら?」

 今そこで。

「そうか。それで私は助かるのね」

 トモは冷静にそういった。本気なのかどうなのか真意は知れない。

「ねえ。どうして私が処女だと?」

「調べたからね、隅から隅まで」

「わかった。もういい」

 結局は感情に流されて、トモは打開策を見出すことを投げ出した。一生分の恥を掻かされたような、気を失うほどの怒りがずくずくと額の真ん中辺りに凝っている。

 五階が何か捨て台詞を吐いて立ち去った後音もなく寄ってきた古葉が、さっきのアレは本気かとトモに尋ねた。

「アレ?」

「誰かとヤルってやつ」

 次の瞬間には、鳥辺トモは拳で大男を殴り飛ばしていた。


 ぽちょん。


 ぽちょん。


 この貯蔵庫の水道は生きているようで、気付けば延々と水滴が落ちている。

 誰も止める者はいない。


 ぽちょん。


「水だけでも飲めば、少しは長く生きられる」

「少しはな」

 その会話を聞いていたかのように、ごぼごぼと音がしたかと思うと水滴が落ちなくなってしまった。慌てて古葉が栓を捻るが、最早水は一切出ない。元栓を止められたに違いない。

「畜生! 畜生!」

 大男は暴れる。


 男たちはおのおの微妙な距離をとって座っている。

 トモは階段に腰を掛けていた。立てた膝に頬杖を突いて、ぼんやりと考え事をしながら。

「昨日の鉦と太鼓の音は、多分この離れへの…」

 少し視界を上げれば筵に覆われた座棺。五階の実兄が納められているという。

「あの棺桶を運ぶ葬列の鳴り物だったのね」


 チン、

 ドン、

 ジャラジャーン、


 四ツ元が誰にも頼まれていない買い物に自分を付き合わせたのは、大事な人身御供を検分したいなどと辻橋の誰かがいいだしたのだろうか。

 トモは今、思考を連ねることで現実逃避している。

「薬として合格だったわけよね」

 私のいったいどこを見て、とそう思う。

「いや。駄目駄目。とにかく」

 なんとか脱出せねば。しかしこの状況、打破する術はあるか?

 屈強そうな男もいないわけではないが、多勢に無勢だろうと思う。辻橋の住人がどれほどいるのかわからぬが、この地下室内の人数よりは確実に多い。

 いずれ貴重な素材なのだろうから、下手は打ってこないだろうが。

 素材。

 トモは叫び出したい衝動をぐっと堪えて、とにかく脱出する方法を模索する。何にしてもまずはあの忌々しい鉄扉をこじ開けねばならない。


 今は遠くに聞こえる虫の声に混じって、轟々と空が鳴っている。



 *


 リョウは走っていた。

 この土地は本当に良くないと、そう思っている。

 異境者の侵入にはとうに気付いているだろう。

 見つかるのは不味い。

 リョウは迷う。相手は人か。人外か。

 人であるならば断罪するのは自分ではない。しかし壁のいうのが真実ならば、ここの人間は皆ヒトならぬモノと判断しても構わないのかもしれぬ。

 今はそのどちらともいえない。だから迷っている。

 一刻も早く、自分の動きを決定できるような証拠を掴まなくては。それには、壁が怪しいといっていた民宿の離れを見つけるのが手っ取り早いだろう。

「ん?」

 集落のほぼ真ん中に提灯の群れが見えた。リョウは立ち止まった。けそけそと何やら話をしている。意識を向ける。

「しかし、まだ死んではいない」

「しかし、一刻も早くと仰せだ」

「しかし、女のみを出すことは」

「しかし、宗家の言葉に抗うと」

「しかし、反抗を食らうは必定」

 幻想的な灯かりに包まれて、影色の住人たちは話し合う。

 ひとりの若い女が進み出て、

「私に任せて」

 といった。どうするのだと、影色の住人たちが問う。

「簡単よ。女だけ犠牲になってくれたら、他の皆は助けるというの。あの自侭な連中なら、喜んで女ひとり差し出すわ」

「なるほど、それは良い」

 妙案だ妙案だと住人たちは小躍りをせんばかりに喜んでいる。

 リョウはこっそりとその人影を追った。


 轟轟。


 リョウは空を見る。

 あまり時間はないのかもしれない。


 女と住人たちは竹林に囲まれた大きな物置きのような建物に消えた。

 リョウは息を殺し、中の様子を窺った。

 やがて、ごとごとと物音が聞こえ、なにやらいい争うような声が聞こえて後、女がひとり増えて戻ってきた。

 リョウはその、増えたひとりを知っている。知っているといっても顔を見知っている程度だが、このような場所で再会を果たすとは、その女もつくづく徳がないのだろうと思う。

 女は両脇を男に抱えられ、酷く青い顔をしている。

「食う、のか」

 リョウは獣のような姿勢で、再びその後を追った。


 男女は地区内で唯一街灯の灯る電柱のある家、清水邸へと消えた。


 轟々。轟々。


 リョウは家屋の外周を見て回り、ふんと鼻を鳴らすと、すいと音もなく軒下に入り込んだ。

 耳を澄ませば、床板の上の話し声が聞こえてきた。

「ごめんなさいね、トリベさん。予定が速まってしまって」

 人が動く音に合わせて、ぱらぱらと塵がリョウに落ちてくる。

「とりあえず服を脱がせましょう」

 いったい何の話をしているのだと、リョウは首を捻る。やがてばたばたと数人の足音が聞こえ、リョウに降りかかる塵芥が増す。

「いやよ! 離して!」

「手と足を押さえて!」

「いや!」

 切れ切れに聞こえる声と激しい物音でリョウは床上の状況を判断する。


 まだだ、まだ待て。


「さあ奥様、お召し上がり下さい」

「冗談じゃない! せめて殺してからにしなさいよ!」

「あは。せっかくの新鮮な子宮。もったいないとの仰せよ」

「いやァァァッ!」


 リョウは床下から右手を突き上げた。

 板一枚の床は脆く砕け、身体を捻った勢いそのままに回転しながら躍り出る。

 男が三人、女が三人。

 女のひとりは丸裸に剥かれていた。

 突然の闖入者に誰ひとり動けずにいる。

 リョウは素早い動作で裸の女を抱え、今度は壁を突き破らんばかりの勢いで外へ飛び出た。

「あなたはあの時のバ…」

「おう、覚えてたか!」

「離してよ! 私を抱えて走ってたら、すぐ追い付かれる!」

「けどあんた、裸で」

「身軽な分、普通に走るより早いわよ!」

 こうしてリョウと全裸のトモは夜の辻橋を疾駆した。まだ地下室にスタッフがとトモがいうのへ、

「助けたいか? あんたそいつらに差し出されたんだろ?」

 後方には追いかけてくる男女。

「あんたは何者?」

 両の乳房が揺れるのもお構いなしに、リョウに手を引かれたトモが叫んだ。

「俺は陵霊」

「リョウさん、なんで助けるの? 目的は何?」

「目的なんてねえよ」

 俺は俺の思うように生きてるだけだと、リョウも必死に走って言葉を返す。矢張り相手が人間である以上、力で対抗するのは極力避けたかった。

「あなた半月前、潤目と一緒にいたわよね」

 ウルメとは、トモのいうように、半月前の事件でリョウとともにいた女。トモが学生時代いいだけ虐めた女であり、また、あの事件の数日前に自殺をしていた。

 リョウはああアレなと語勢を緩めた。

「俺もあの後どうなったのかはしらねえ。あの日以来会ってねえんだ」

 走る走る。

 後ろの追っ手は数を増している。

 とにかく壁の車まで行けば、女ひとりぐらいは助けられるかも知れぬ。リョウはそれだけを考えてとにかく走った。


 ニンゲン相手の方がタチ悪ぃや。


 轟々と空が鳴っている。リョウはその音を聞きながら走り続ける。トモの手を引きながら。


 アルファロメオが見えた。

 壁が所在無さげに立っていた。

「カベマサル! エンジン掛けろ!」

 リョウの声に、壁がゆるゆると首を振った。

「ああ、糞」

 壁の後ろには、手に鉈を持った男がいた。

 そして車の周辺には、手に手に月明かりを反射して鈍く光る獲物を携えた辻橋の住人。

 リョウは立ち止まった。

 トモが後ろで乱れた呼吸を整えている。

「すまない、リョウさん」

「いいよ。俺の判断が甘かった」

 それよりと、リョウは壁に、着ているジャケットをよこせといった。壁がジャケットを放るとリョウはそれをトモに掛けた。

「リョウさんは裸の女に縁があるのかな」

 壁のそんな冗談も、この状況下ではどこか痛々しい。

 リョウはいう。

「なんとかみんな助けたかったけど、これじゃ無理かもな」


 轟々。


 轟々。

 雷だろうか。月はいつの間にか雲に隠れていた。


「さあ、観念してトリベさんを渡して」

 もっともあなたたちも生きて帰れないけどねと追いついた女がいった。

 リョウは総身に闇を纏ったまま答える。

「どうしてもこの、トリベさんを喰うのかい?」

「ほほ。食べるのは私じゃないわ。この辻橋の守り神様よ」

 そういって若い女は後ろに立つ、小作りな顔をした色の白い女を顧みた。その女の肩を抱くように立つ、七三分けの男。

 リョウは状況のすべてを把握できぬまま、

「人を喰うなんざ守り神とはいわねえよ」

 祟り神だぜと吐き棄てた。

 じりじりと住人たちが包囲の輪を狭める。

 壁が固唾を呑む音が聞こえる。

「よしたほうがいい。あんたらやりすぎだ」

「状況を考えなさい。まさかあなたひとりでこの人数をどうにかできるとでも?」

「さてなあ」

 リョウの胸の内では、トモと壁の存在を無視するなら、本当にどうにかなるかもしれないと思っている。今まで闇と共にあった身だ、腕にはそれなりに覚えがあった。

 それに。

 リョウは包帯の巻かれた右手を見た。

 ざ、と山刀を持った男が襲いかかってきた。

 リョウは素早く体を動かし、男の手を捻りあげた。面倒だから折る。男はぎゃあと悲鳴を上げて、刀を地面に落とした。

「よしなさい、連れの男がどうなっても構わないの?」

 見れば壁の首筋に鉈がぴたりと付いている。リョウは小さく舌打ちをする。

「おい、女」

「五階栄子」

「ゴカイさんよ。俺がもし、ニンゲンなんてどうでもいいと思ってるとしたらどうする?」

「なにをいってるの?」

 風が吹く。

 雲は流れ、月明かりが再び下界を照らす。


 闇が払われると、そこには異形の姿が顕現する。


 五階以下、辻橋の住人たちが息を呑んだ。

 ざんばらに伸ばした栗色の頭髪が風に散り、月光よりも蒼い顔はその半分を布で覆い隠している。太く長い首、張った肩幅、頑丈そうな骨格に確りと張り付いた筋肉。そして何にも勝り男の姿を異化させているのは、左腕にびっしりと張り付いたいくつもの眼球だ。

「あ、あなたは、人じゃないの?」

「どうだかな」

 ヒトかどうか、俺にも判断つかないとリョウはいった。それでも。

「ただ俺はこんなナリだが、あんたらに比べりゃマシだ」

「…そうかしら。私たちは私たちで過去から未来へ、この辻橋をつないでいくだけよ」

「それは他人を犠牲にしてまで守らなきゃならんもんか」

「連綿と続く過去からの想いは、人ひとりの命より重いの」

「俺はな、みんなを助けたいんだ」

 轟々。

 五階も一度空を見た。

「もう諦めなさい。トリベさんも、あなたも、辻橋を次代へつなぐ糧になってもらう」

「無理か」

 轟々。

「無理ね。諦めて頂戴」

「違うんだ。俺が助けたいのは、トリベやカベだけじゃねえんだ」

 その時リョウの頭上が赤く染まった。

 轟々と音を立てて、宙空から真っ赤に燃えた車がやってくる。

 それを曵くは二匹の獣面の鬼。

 牛頭と馬頭。

 轟々と聞こえる音は紅蓮の炎が燃ゆる音。

 五階はその炎を色を失った瞳で凝視していた。目の前の現実があまりにも強烈すぎて、許容できないのであろう。

 現実とはいつも個人的なもので、個人が許容できぬものは幾ら実際に起こった事象であっても現実として認識されないことが往々にしてある。

 その逆も然り。

 幻覚でも妄想でも個人がこれは現実であると認識したなら、どんな冗談めいた出来事であろうともその者個人の中では揺るぎない現実となるものだ。

 今のこの光景は。

 目玉だらけの少年と、その向こう、今まさに地に降り立たんとする火の車と二匹の鬼。

 壁がぼそりといった。

「火車か」

「知ってるのか、カベ」

「まあ。生前悪事を働いた人間が死ぬと、どこからともなく飛んできて死体を地獄に持って行くってやつだろ」

「おう。だが、悪事も度を超すと」

 牛頭が辻橋住人の手近なひとりの頭を鷲掴みにして、燃え盛る車に放った。物凄い絶叫が響き、あたりに人の焼ける臭いが漂った。

 更にずむ、ずむ、と歩く。

 身の丈一丈筋骨隆々な体躯に誰もが戦慄する。

 一見してこの世のモノではないことが知れる。

 この世のものならぬモノどもが跋扈する現実は、それでも矢張り現実だ。

 ヒイと呻いて壁を脅していた男が逃げた。馬頭がすぐに追い付き、牛頭と同様に車に放り投げた。一瞬にして灰と化す。

 信じられない有り得ないと、五階は口を開きっぱなしの状態で繰り返す。

「この集落で行われていたことも十分有り得ないぜ」

「くどいわね」

「くどいぜ、俺は」

 またも絶叫。

 先から蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う住人を牛頭と馬頭が掴まえては放り、掴まえては放りしている。

 壁やトモはその光景に、地獄とは斯くなるものかと幻視する。

「ゴカイさん、あんたは人を喰ったのかい?」

「ええ」

 ずむ。牛頭が大股に五階に歩み寄り、

「この鬼は、あなたが喚んだの?」

 ずむ。

「いや。まったく知らんさ」

 ずむ。

 牛頭は五階を素通りし、後方のふたり、恐怖に立ち竦む清水家の夫婦に手を伸ばした。

 タスケロタスケテと泣き喚く声が響く。五階や、その他の生き残り数人が遠巻きになんとか抗う術を模索するが結局、

 辻橋内で貴種扱いされていた夫婦も炎の中へ。

 ヒトのものとは思えぬ断末魔がリョウの鼓膜を打った。

 リョウは煩悶している。

 たとえ人を喰う人であっても、この場は助けておくべきだったかと。目眩を起こすほどに恐ろしい二体の鬼を相手にどうにかできるかは別として、自分は傍観していて良かったのかと。

 正義の味方たらんと欲しているわけではない。

 ただリョウは、誰かの力になりたかった。

 自己満足といわれても仕方がない。それでも、誰かに必要とされるニンゲンになりたいとどこかで願っている。

 それとも、どこか思い上がっていたのだろうか。天賦の能力を駆使し、弱い人間を助けなければならないと勝手に思い込んでいたところはないか。

 この世の善も悪も決めるのは所詮人間で、その基準など時が経てば如何様にも変容する。人並みの倫理観ならリョウの中にもあるが、それを憑拠に何者かを善だ悪だと決めつけるのは横暴極まりないのではないか。ちっぽけな自分に、そんな権利のあるはずもない。

 目の前のあの鬼二匹には、なにか明確な線引きが、悪人を焼くという炎の車に放り込む基準があるのだろうか。

 自分も早くその線引きをしないと今に大変なことになるとリョウは地獄の片鱗を見ながら思う。

 牛面の鬼は、有角の頭を振り回し、筋肉が盛り上がり丸みを帯びた身体をトモに向けた。

 馬面の鬼は、鬣を燃えるように逆立たせ、長く筋張った四肢を踊らせながら壁に迫った。

「どういうことだ」

 リョウは一瞬混乱するも、壁にしてもトモにしても過去にどうやって生きてきたのか詳しく知っているわけではない。いや、壁に関しては、火車に乗せられても致し方ない男だろうことはわかっている。

 とにかく助けねば。

「トリベ!」

 リョウは左腕を伸ばし、トモの手を取ろうとしたが牛頭の手が一瞬早かった。リョウは咄嗟に組み付く。牛頭が吼えた。大地を揺るがすような咆哮だ。今更リョウは怯まない。

「トリベ! あんたは何をした? どうして連れて行かれようとしてる?」

 トモは真っ白い顔をして、

「私、高校の頃、潤目を…虐めて、たから?」

 切れ切れにそういった。

 リョウは叫ぶ。

「誰かを虐めて、それで地獄行きなら、世の中ほとんどの奴連れてくんだな?」

 なあ! そうなんだろ! リョウは尚も叫ぶ。牛頭はなにも返さない。そもそも言葉も通じていないのかもしれない。


 ごとん。


「そう。私が世の中を清浄にする」


 また新手だ。リョウは心底うんざりして、声のした方、火車を見た。

 緋色の単衣に朱の羅を羽織った、目の大きな女が立っていた。

「ウルメタミコ」

 トモの表情が固まった。

 火車から姿を現したのは、トモが高校生の時分散々虐めたクラスメイト、潤目民子だった。

「あなた、潤目…あんた自殺したんでしょ」

 直接か間接か、いずれその原因は自分にもあるかも知れぬと、その報せを聞いた時トモは思ったものだ。

「死ぬも生きるも、それすらも儘なりません」

 といって、タミコはリョウを見た。リョウは左腕の目で、こっそりと見返した。

 その女はと、タミコはしなやかな指でトモを指差した。

「その女は、罪のない私を責め苛んだ。未だに私にはわからない、どうして私があんな目に遭わなくてはいけなかったのか」

 私物をなくされ、悪評を流され、衣服を裂かれ、汚水を掛けられ、黒髪を切られ、皮膚を焼かれた。

 タミコはトモに、それは酷い仕打ちをされた。

 確かにそれは許されるものではない。

 しかし、はたしてそれは、燃やされるほどの罪だろうか。否、罰の軽重も感じるは人それぞれだ。殺すに値する罪はないとのたまう者がいるように、いかなる罪も命で償えと思う者もいるだろう。


 トモは泣いていた。

 丸裸にされ、人の灰で汚れた顔を伝う涙は黒い。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 今更遅いとタミコは静かに威嚇した。

「私が何をした? いってごらん」

「なにもしてない。あなたはなにも」

「ならば」

 リョウは成り行きを見守っている。

 タミコの登場に連動するように、牛頭も馬頭も動きを止めていたからだ。

「ならばどうして、あのような酷い仕打ちを」

「あなたが…」

 トモは泣いている。鼻水にまみれ、喉を嗚咽で鳴らして。

「あなたが綺麗だったから」

 それが他人を責め苛む理由になるのだろうか。正直リョウには理解できなかった。

 タミコは、それはゾッとするような目でトモを見下した。

 その顔はリョウが見ても、


 震えがくるほど

 美しかった。


 タミコは火車から降りた。

 その動きはふわふわしていて、いかにもこの世の住人ではないことを如実に示している。

「リョウ。あなたは以前、自殺した私の死体を盗み、私にかりそめの生を与えた」

「聞き齧りの反魂術だ、その後はどうだ」

「血の通わぬ身など、腐り落ちてしまったわ」

「それじゃあ今のあんたは」

「私にもわからない。いえ、わかりたくないだけかもしれない」

「そうか。余計なことしたな」

「生きてる間に散々苦しんで、死んでみれば呼び戻され、」

 今はもう生きてもいなければ、死ぬこともできない。タミコは遠くを見る。

「私ね、妖怪なの」

「妖怪」

「リョウも妖怪よね」

「俺は…」

 タミコは笑った。

「だから私、潤目民子って名前も捨てなきゃいけない」

「そういうものか」

「そういうものよ」

 牛頭と馬頭に意思はあるのか。

 リョウはタミコと話をしながら、鬼二匹の様子を窺う。

「タミコ」

「無理よ」

「まだ何もいってねえ」

「そのふたりは貰って行く。ひとりは私を犯そうとした男だしね」

「…あの車ン中に放り込む判断はタミコがしてんのか?」

「どうかしら。いわないわ」

「どうしても連れて行くのか」

「どうしてもよ。リョウの願いでも、このふたりをこの先も生かすことはできない」

 しょうがねえな。

 リョウはそういって、右手のひらを上にして差し出した。

 掌から肘まで包帯の巻かれた右腕。

「タミコ。お前の連れ、斬って捨てるぜ」

 ピンと伸ばしていた指を、力強く握った。

 包帯が裂け、血飛沫が舞い、リョウの右腕から分厚い鉄刀が現れた。

 牛も馬も手にした罪人を離し、リョウの急襲に備える。

 リョウは一躍炎に駆け寄ると、右腕を思い切り振り下した。

 炎が弾けた。

 赤い女は怯まない。

 トモも壁も、そしてリョウも熱風と煙に顔を顰めた。肌が灼ける。鼻腔が痛い。

 その存在を忘れ去られていた感のある五階も、手で我が顔を覆っていた。


 リョウは一刀のもとに、燃え盛る車を破壊していた。

「少なくともこれで、焼殺はできまい」

 タミコは竹扇で口元を覆い、ホホと笑った。

「ならば捻り殺しましょうか。それとも」

 潰しましょうか。タミコの両目が怪しく輝いた。

「リョウ。あなたはどちらを先に助けるの? トリベ? カベ? あなたがどちらか一方にかかずらっている間に、どちらか一方は確実に死にます」

 確かにそのふたりの間には隔たりがある。

 トモに牛頭、壁に馬頭。

 たとえリョウが電光石火の動きをしたとしても、同時に二匹の鬼を斬ることはできない。

 リョウはタミコを睨んでいる。

 ごろごろと、炎を纏った車輪が転がっていく。

「火車の正体は猫だっていうよな」

「知らないわ、そんなもの」

「お前は猫のお陰で生き返ったんだものな」

「そうね。だから何」

 ごろごろ。

 壁のほうへと車輪は転がる。

「なんでもねえよ。ちょっとだけ考える時間が」

 リョウは走った。

「欲しかっただけだ!」

 時間にすると、どれくらいか。

 リョウは右拳で殴りつけるように鉄刀の切っ先を牛頭の眉間に捩じ込むと、走った勢いそのままに前方に身体を捻り込み、牛頭を真っ二つに切り裂いた。

 牛頭は一瞬なにが起こったのかわからぬ仕草をして、膝から落ちた。

 タミコは無言のうちに馬頭に指示を出す。

 リョウは空いた左手でトモの羽織っていたジャケットを掴むと思い切り引っ剥がした。

 めり。

 馬頭に鷲掴みにされていた壁の頭骨が軋んでいる。

 めりめりめり。

 壁はリョウに見捨てられたのだと思い、目に涙を貯めた。

 リョウはジャケットを壁目掛け放った。

 火車の残骸である車輪と今まさに頭を潰されんとしている壁の間に、秋物の高級ブランド製のジャケットが飛んできた。ジャケットに火が引火したことで、ほんの一瞬だけ馬頭の目が奪われる。しかしそれだけの微小な時間で間を詰めること能わず、壁の顔が更に苦痛に歪んだ。目が血走り、鼻血が溢れる。めらめらとジャケットが燃える。

 リョウは諦めることなく走る。


 あと六歩、


 あと五歩、


 あと四歩、耳から血が


 あと三歩、


 あと二歩、目が、溢れ出そうに、

「りょ、う、さん、


 あと一歩、爆発が起こった。

 馬頭は突然の爆音と炎に、手の力を一瞬緩めた。

 爆風と閃光を切り裂いて、リョウの刀が馬頭の身体を斜めに薙いだ。

 どさりと壁が倒れた。その上に覆い被さるように馬頭の巨躯も崩れ落ちた。下敷きになった壁はぎゃあと悲鳴を上げる。生きている。

「な、なにを? リョウ、あなた、なにをしたのッ?」

 ごろごろと転がるリョウは体勢を立て直しながら、

「壁よう! 生きてるかあ!」

 叫んだ。

 壁は鼻血を拭いながら起き上がると、制汗スプレーかと呟いた。痛みに顔を歪めてはいるものの大丈夫そうだ。

「おうよ。そのスプレー缶によ、火気と高温に注意って書いてあったのをぎりぎり思い出したぜ」

「でもリョウさん、俺のジャケットによくスプレーが入ってたの知ってたね」

「お前車でシューシューしてたじゃねえか」

 俺の目をナメんじゃねえぜとリョウは荒れた息を整える。


 いつの間にか牛頭の身は消え、替わりに牛の角がひとつ落ちていた。

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