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ゲオマ  作者: 偽薬
5/13

火車  (一)

 関東では未だ酷夏の名残が色濃くあって、九月も半ばだというのに不快な日が続いている。

 その点矢張り東北は涼しい。

 虫の声などに夏の終わりは如実に表れている。日中に蝉の声はなく、夕闇が迫った今はコオロギの声がうるさいくらいだ。

 さすがに肌寒さを覚えて、私は手に持った七分袖のカーディガンを羽織った。伸びをし、深呼吸をする。いい加減長時間の車移動に辟易していた。腰が痛い。

 太平洋沿いの道を走っていた時はそれでも少しは楽しく思えていたが、やはりこの遠乗りの目的が自分の望む世界ではないということが、今の憂鬱に似た気分の最たる原因だろう。


 私の名前は鳥辺トモ。

 駆け出しの女優をしている。

 駆け出しだから、選り好みはせず戴いた仕事は何でもこなそうと、そうは思っているが。

 半月ほど前、私は筆舌に尽くし難い体験をした。

 本来であるなら私のデビュー作となるはずだったドラマのロケの最中、私と男性スタッフの数人は落雷に見舞われた。普通に考えるならそれだけで希少な体験といえる。実際スタッフのひとりは落雷の直撃を喰らい、幸い一命は取り留めたものの未だ病床の上である。あの時の人の焦げた臭いは未だに鼻に残っている。しかし、本当の問題はその後に起こった出来事だった。あの体験は、私ひとりの体験として他人に語ったならば、おそらくは一笑に付されて終わるたぐいのものだろう。だが私はその時、状況の突飛さの割には冷静に携帯電話で動画を撮影していたし、また途中からではあるがテレビカメラでも記録を残し、事後それを世間に披瀝することもできた。

 映像自体をねつ造であると批難する声も多く聞かれたが、世間が大騒ぎしたのは事実だった。

 もっともアレをねつ造しようとするなら、いったいどれほどの巨費を投じればいいか。そこまでの大枚をはたくのであれば、テレビ局側も私のような新人女優など起用すまい。もっと話題に拍車をかけられる大物を使うはずである。


 まあ、私がうだうだ考えるべきはそこではない。

 問題は、それを公表したことで私に為されたラベリングだ。


 怪物女優。


 なんのことやらわからない。

 確かに映像には、ヒトガタでこそあれ、ヒトでは有り得ないモノたちが跋扈していたが、私自身はいたって普通である。怪物を見た女優というのならまだしも怪物女優とは…語の響きだけで付けたのだろうが、あまりにも安直すぎる。

 しかし、その映像を公開したことで私に沢山の出演依頼が舞い込んだことは事実で、恩恵を受けておいて文句をいうのも筋違いなのだろう。

 それでも思うのは、私の目指しているのは飽くまで女優であるということ。ワイドショーや特別番組でスケジュールが埋まるのは正直不本意なのだ。最初の数本は、名前と顔を世間に広めるためと割り切って出演したが、それが延々に続くのはご免だった。

 いや、延々と続くことはありえないのだ。

 あの怪物騒ぎがまたどこかで起これば別だろうが、あのような出来事、百年に一度もあってはならない。非現実に過ぎ、非常識も甚だしく、止めどなく非科学的だ。だから、やがてどこかで別の事件が起こり、世間の耳目がそちらに集中したなら静かに忘れ去られる、その程度ののものだ。

 そしてその時は、女優鳥辺トモもともに消えてなくなる可能性が高い。それが困る。

 映像の公表は、イコール大騒ぎになると簡単に想像できていたし、なんらかのブームが巻き起こることも容易に想像できた。そのブームに乗ることは結果として自分の女優生命を縮めることになるのも想像の範囲内のことだったから、なるべく早い段階でこの話からは身を退こうと、そう思っていたのだが、そのような判断は本来的に所属している事務所が下すということを失念していた。そして零細である私の所属事務所は長期的なスパンで私を育てていくつもりなど更々ないらしい。

 もっとも私も経営側の人間であったならば目先の利益を優先させるだろうが。


 半月経った今、まだ世間は小さな町に現れた怪物に夢中である。


 そして、怪物女優である私は、東北のある地域にロケに向かう途中だ。

 幽霊か怪物かは忘れたが、いずれヒトならぬモノが出没するという土地の取材が今回の仕事の概要である。

 車は海沿いの道から逸れ、遠くに小さな山の見える平野部を暫く走る。夕暮れは過ぎ、あたりは既に宵闇が支配していた。ロケ車の専属ドライバーが、予定より到着が遅れていることを告げた。撮影は明日からだから平気でしょうとマネージャーの大月が呑気にいった。

 民家の灯りは見えない。

 比較的都市部で育ち、今は東京に一人暮らしをしている私にとって、その光景は目新しかった。

 薄墨色の空を波形に切り取る山々の稜線。

 控えめな音量で聞こえているラジオの気象情報。

 車内の唯一の光源であるカーナビは、青地に白い一本線のみを表示し続けている。時折思い出したように、この先二キロ道なりですなどという。

 朝が早かったので眠かったが、私は寝そべらないと眠れないタチなので、この無為ともいえる時間を惰眠に費やすこともできなかった。そうこうしているうちにマネージャーの鼾が聞こえてきた。

 眠気覚ましに運転席に向かい、あとどのくらいで目的地に到着するのか尋ねた。ドライバーは芦屋とかいう名前だったか。芦屋はどこか面倒臭そうに二時間くらいかなと答えた。その、あまりのぶっきらぼうさに、私は見下されているのだと勝手に判断した。

 目的地はどこかの県境にある、辻橋という地区。

 昨晩ネットで地域検索をしてみたが所在地以外の情報は得られなかった。

 することがなくなったので携帯電話を取り出し、今自分がこんな窮屈な思いをして見知らぬ土地に向かうこととなった端緒ともいうべき映像を再生する。もう何度見たかわからない。

 崩れたビル。

 影色の男。

 左腕に奇形を持つ少年。

 そして。

 高校の頃散々虐めた同級生に、まさかあのような場所で再会するとは。

 携帯電話の映像は遠巻き過ぎてその顔までは捉えきれていないが、あの顔がもし、大々的に世間に放送されていたとするなら、騒ぎはもっと大きくなっていたことだろう。なにせ、あの時は私もその事実は知らなかったが、その同級生は映像の日付けの数日前に自ら命を絶っていたのだから。しかも彼女のその死体は盗まれている。

 その同級生との過去を穿り返されては女優としてのイメージが悪い。だから私は、映像に映っている女に関して知らぬ存ぜぬを通した。

 あの酷い虐めでも自殺しなかった彼女が、はたして何に耐えきれなくなって自らの命を絶ったものか、下世話な興味が頭を擡げた。

「鳥辺さん」

 不意に名前を呼ばれた。

 顔を上げると、少女のような顔をしたアシスタントディレクター、四ツ元の顔があった。

「なんですか?」

「これから行くとこ、どういうところか知ってます?」

「え? 辻橋ですよね」

 そうです、ツジハシですと四ツ元はいった。色白で少し下膨れ。頬が紅でもはたいたように赤い。某有名菓子チェーンのキャラクターに似ている。

「なんでもその辻橋、昔殺人があったそうなんです」

「昔ってどのくらい?」

「えっと、明治とからしいです。で、その殺人なんですが、犯人は結局見つからず仕舞で。殺されたほうも、どうして殺されたかがわからないっていう」

「怨恨や強盗じゃなかったってことですか?」

 年齢は多分私と同じか少し下くらいだろう。しかし童顔と話し言葉の拙さで、まるで中学生のようだ。

「お金は盗られてなかったそうです。怨みを買うような人でもなかったと」

「それは誰から聞いた話ですか。新聞に書いてあった?」

「いえ。私、先行取材で一日滞在したんです、ツジハシ。その時に知り合ったおじいちゃんから聞きました」

「でも今回のロケは、その殺人事件とは関係ないですよね? 確か民宿の」

「そうです。民宿ゆずり葉の、今は使ってない離れに現れる怪現象です」

「ごめんなさい。私の怠慢ですが、その怪現象というのをあまりよく把握してないのですが」

 私がそういうと、何故か四ツ元はエヘヘと照れ笑いをした。

「ありがちですよう? 誰もいないはずなのに人影を見たとか、音を聞いたとか」

「それだけですか?」

「はい」

 それでは本当に先ほどの殺人云々というのはまるきり関係ないらしい。単なる話題のひとつだったようだ。

 それにしても、そんな類型的な、しかもどこで流れているかもわからぬ噂を典拠にしてこれだけの人数をかり出すとは、テレビ業界というのも奇怪なところだと思う。人件費だけでいったい幾ら掛かっているのだろうか。私は退屈も手伝って、無為な胸算用をする。

 四ツ元は飴食べますと聞いてくる。私はいえと断る。

「民宿があるということは、観光地か何かなんですか?」

「違いますよぅ」

 四ツ元は笑う。そんなに突拍子もない質問だったろうか。

「そのツジハシってとこ、炭坑なんです。今はもう閉山したらしいですけど」

「ああつまり、その昔はそれなりに人が居て、栄えてた?」

「どうなんですかね」

 そんな大きなトコじゃないですよと、四ツ元は飴をしゃぶりながら答えた。

「私が行ったときも、人をつかまえるのが大変で。スーパーも何もないんですもん」

「それじゃそこに住んでる人は、どうやって生活してるんですか?」

「そこまではわかりません。田圃も畑も見当たりませんでした」

「そうなんですか」

 私にいわせれば、さっきの殺人事件の逸話よりも今の話のほうがよっぽど奇異で気味が悪い。

「そんな土地で民宿の経営を持続させられるものでしょうか」

「それはぁ、どうにかなるんじゃないですか。わかりませんけど。で、私は本館って呼ばれている方に一泊したんですけど」

 その日の宿泊客は彼女ひとり。対する従業員も老婆がひとり。基本的に素泊まりだそうだが、別料金でおにぎりくらいは出せるといわれたそうだ。

「これは私の想像ですけど、おそらくはその民宿、昔からの惰性で営業しているだけなんじゃないのでしょうか。商売でやってるというよりは、廃業するタイミングを逸しただけ、とか」

 あーなるほどと軽い返事をして、四ツ元はにこやかに車の後方を指差した。

「だから今回は、食料をたくさん買い込んでます」

「たくさん…」

 私は思い出して落ち込む。ロケの予定は移動日を含めず三日もあるからだ。そんな場所に三日もいては気がおかしくなる。ああ、とそこで気付いた。だから四ツ元は、私と仲良くしようと色々話し掛けてくるのかと。他に女性はいないのだし当然といえば当然だ。

「四ツ元さんはどう思う? その、影とか音とか、録れると思う?」

「あ! 鳥辺さんて、ホンモノ見てるんですよね!」

 私の歩み寄りの意味を含めた質問は軽く横にどけられてしまった。

「本物というか」

「違うんですか?」

「いえ。作り物ではないですから、本物って表現でもいいのかな」

「どうでした?」

「どうって?」

「ホンモノの怪物。怖かったですか?」

 ただでさえ子供のようなのに、喜々とした表情で尋ねる四ツ元はまるで少女のようだ。

 実際既に質疑応答が億劫になっていたのだが、こうした作業を要領よくこなしていくことも今後に向けて必要なことだと割り切って、下手糞な作り笑顔で、

「怖かったですよ。気を失うくらい」

 と答えた。本当は一瞬たりとも見逃してなるものかと刮目していたのだが。

「ああいう映像、撮れたらいいですよねえ」

 四ツ元はきっと何も考えずにそんなことをいった。


 ポンと電子音が鳴った。

 カーナビが目的地に着いたことを告げた。

 時刻は夜の九時を大きく回っていた。


 この先三日の拠点である民宿ゆずり葉に撮影機材や食料を運び入れて、私は私物の入った鞄を持って自分に宛てがわれた部屋、一〇二号室へと向かった。

 民宿は平家建てで、廊下を挟んで五部屋ずつある。四ツ元がいっていた通り、今日もどうやら他に宿泊客もなく、ひとり一部屋でもまだ空き部屋があった。

 部屋は酷く黴臭く埃っぽかった。私は襖を開けるなり、大きなくしゃみをした。とりあえず灯りを点けようと思ったが、天井からぶら下がっているのは肌電球ひとつで壁にスイッチが見当たらない。紐を引くのかと暗い中目を凝らして電球を見てみると、電球の付け根にねじ式の電源があった。多分これかと捻ってみる。

「あ。やっと点いた」

 またくしゃみが出た。

 私は窓を開けた。途端に秋虫の音がそれは大きく耳に入ってきた。竹林を挟んだ向こうはどうやら民家のようだが、多分廃屋だろう。

 これは早々に寝るのが得策かと考えていると、

「鳥辺さぁん」

 と情けない声で呼ばれた。振り返ると四ツ元が半泣きの顔で立っていた。

「どうしたの?」

 先ほど少し話をしたお陰で、少しは気楽に返事ができた。なんとなく過去を思い返して、今までもこうしていれば良かったのかなと思った。

「坂野さんがぁ」

 坂野とはこのロケのディレクターである。

「坂野さんが何?」

「冷たいビール買ってこいっていうんです、こんなに真っ暗なのに」

 四ツ元の目線を追って私も再度外を見た。確かに暗い。考えてみれば私は、これほどの闇を経験したことがない。街灯が少ないせいか。

「ビールって、このへんにコンビニとかあるの?」

「ないですって。私、前に来た時散々探したんですから」

「じゃあどこへ買いに行くの?」

 だったらついでに煙草をといいかけて、ADも大変ねといい換えた。

「大変ですよ。怖いですよ、こんな田舎の夜道は」

「だって四ツ元さん、前も来たんでしょ?」

「前来た時は夜出てません」

 それじゃあ先行取材の意味ないじゃないといいかけて、私は今度は口を噤んだ。大して意味はないのだけど、目の前のこの子には優しく接してみようと思ったからだ。どうしてそう思ったかは自分でもよくわからない。

「お酒売ってる店はどこ?」

「清水って家です」

「清水? 個人宅?」

 住居兼店舗か。いずれにしても、もう十時近い。

「早く行かないと店閉まっちゃうんじゃない? もう閉まってるかもだけど」

「はいぃ。だからですね」

「ああ、そうか」

 やっとわかった。要は夜道が怖いから買い物を付き合ってくれとそういっているのだ。しかしそれを出演者に頼むか。

 部屋の何処かから、ヨツモト早くしろと声が飛んだ。他人事ながらカチンときた私の上着の袖をつかみ、童顔のADはふるふると首を振った。私は小声でわかったといって、小さな憤りを呑み込んだ。

 流されるまま、私は外に出た。

 月が明るく、意外に視界は確保できた。

 後ろから四ツ元がしがみつく。怖いのはわかるが歩き難いったらない。もうちょっと離れてといったら、このカーディガン可愛いですねと返された。まったくよくわからない。

 それにしても。

 鋪装のされていない路地、板塀、ドブ板、建物は木造ばかりで屋根は赤錆の浮いたトタン葺き。まるで時が止まったような風景だ。いや、おそらく止まってしまったのだろう、炭坑の閉鎖が決まったその時から。ざっと見る限り千人規模の集落のようだが、点在する灯りから判断するに、今はその十分の一も住人はいまい。

「あ、違うか」

「え? 何かいいました?」

 十分の一も残っていると判断すべきなのだ。ここがもともと炭鉱の町であったのなら、炭鉱の閉山とともに無人地区となっていても不思議ではないのだ。

 やはり永く住んだ土地からは離れ難いものなのだろうか。

 いったいここの住人はどうやって生計を立てているのだろう。

 しかし、多くの人が住んでいた跡というのは、その者たちが去ってしまって後は、うら寂しいというか、もの悲しいというか、少し不気味ですらある。

 清水宅は割合すぐに見つかった。

 唯一灯りの点いた電柱のすぐ傍の家だ。

 看板もなにも出ていない、本当に酒を売っているのだろうか。

 私はガラス戸の中を覗く。暗くてよくわからない。

 念のため私は、もう一度ガラス戸や建物正面を観察した。どこにも屋号や営業時間などの情報はない。後ろを見ると、半歩下がった位置に四ツ元が立っていた。まるで私を頼りにしている。私は溜め息を落とした。

 ガラス戸を叩く。返事はない。

 誰もいないのか。

 もう一度、さっきより強めに。

「すいませーん。お店おわりですかー?」

 矢張りなんの反応もない。私は振り返り、ほんとにココと動きだけで四ツ元に尋ねた。四ツ元は必要以上に頷いた。

「他の清水さんてことは?」

「ええと、この地区には清水姓は一軒だけなんです」

「ああ、そう。もう十時だしね。寝ちゃったのね」

「そうなんですかねえ」

「まあ、ビールは諦めてもらうしかないわね」

 それじゃ私が怒られますと四ツ元がいうのへ、

「なにいってるの。それで怒るような理不尽な上司なら」

 私が怒鳴りつけてやるからと、無理矢理宥めた。正直いうと、早くシャワーでも浴びて眠りたかったのだ。

「帰りましょ」

 私が再三促すと四ツ元は渋々従った。よほどディレクターが怖いのだろう。まるで後ろ髪を引かれるように無意味に後ろを気にしている。しかし、いくら機嫌を損ねようとない袖は振れぬのだから致し方あるまい。

 私は向きを変えようと身体を捻った。

「え…」

 街灯の光が届くか届かないかくらいの境界に

「足?」

 草履履きの足が立っているのが見えたような気がした。四ツ元を見ると、彼女はしゅんとして俯いている。私は少し苛立ちつつ、そしらぬ顔で光の向こうに意識を向けた。

 やはり誰か立っている。確認できるのは足のみだが、確かに。

 私たちふたりは光の下に立っている。つまりは草履足からは、私たちの姿がはっきりと見えているだろう。その女ふたりを見て、あの位置に立ち止まるということは、いずれ良くないものではありそうだ。

「誰?」

 私は思い切って声を出した。四ツ元が一度私を見て、そして私の目線を追い、びくりと全身を震わせた。

「誰なの? 何か用?」

 返事はない。そのかわり、草履足が提灯を持っていることがわかった。私の腰にしがみついていた四ツ元が、わあレトロなどという。根本は呑気な子なのだ。

 あまりいい状況ではないと思う。目の前の草履に提灯が何者であれ。

 ちかちかと街灯が明滅した。私は思わず上を仰ぎ見た。視線を戻した時にはもう草履足は消えていた。四ツ元に問うと、向こう側に消えたと民宿とは逆方向の道を指差す。

「あっちか」

 暫く道の奥を見つめる。すると、仄かな灯りが、ひとつ、またひとつと増えていった。

「ひ、ヒトダマですか?」

 四ツ元がそんなことをいうので、私はカメラ持って来てないわね、残念などと返す。怖かったから強がってみせたに過ぎない。

 またひとつ。ぼんやりとした灯りが増えた。

 近寄って確かめてみればいいのだ。それで万事解決する。離れた場所で憶測を交わすから事実は歪曲され、どんどん真実と乖離していく。私はよしとひと呼吸置いて、おぼろな灯りの集まる方へと歩きはじめた。

「あ、ああ、鳥辺さん…」

 確かめてみれば何のことはない、光源には人が居て…頭でそんなことを考えながら、砂利道を踏む。思ったよりは距離がある。

 じゃり、じゃり、じゃり、

 灯りはふわふわと落ち着かなくうろついている。集まっては離れ、離れては寄り添い、数を数える必要はまるでないのだが、私は何度も数えるのに失敗した。

 人? 話し声が聞こえた気がした。目を凝らす。浴衣か、なんだろうか、とにかく和装をした人数が手に手に提灯を持ち、何事か話し合っている様子。

 結局人か。私は肩の力を抜いた。

 それにしてもこんな時間に提灯片手に寄り集まって何をしているのだろう。

 祖霊祭は先月終わっている。

 それとなく聞いてみればいいのだが、もしかすると私は、生きているモノのほうが苦手なのかもしれない。それとも、時間と見知らぬ土地であることを考えれば、それが当然なのだろうか。

 勉強ばかりせずにもっと普通に人と付き合っておくべきだったかと今更こんな場所で思う。まあ、それだけ必死に勉強していたからこそ、大学在学中に司法試験合格などという離れ業ができたのだろうけど。

 提灯を持った集団は総勢で十人はいるだろうか。老若男女すべて和装で、私は話し声を聞いたような気がしたのだが、今は誰も無言だった。

「あれ…」

 和装ばかりでもないのかな。

 よくよく見れば礼服姿の男性の姿も見える。

 いや、先より人が増えているのか?

 それにしてもどこから来た?

 私はあたりを見回す。どの家も真っ暗で引き戸の玄関も開いていなければ、外灯すら灯していない。

 私はどこか狼狽して、人数を数える。一、二、三………十、二十。

「あれ。またわからなくなっちゃった…」

 暗いばかりではない、なんなのだろうこの、急激な視界の悪さは。

 結局二十六人まで数えてやめた。それにしても、三十人以上はいるだろうこの集団は、何故一言も言葉を発さず、また一様に俯いているのか。

 もうもうと霧が立ちこめていた。道理で視界が悪いわけだ。

 しかしさすがに薄気味が悪い。

 宿に引き返そうと四ツ元の姿を探したその時、私の目の前を大きな木桶のような物が横切っていった。

 いや、あれは木桶ではない。

 樽状の棺だ。

 もしかしてこの集団は葬儀の最中なのだろうか。

 それにしても今時座棺など、

「鳥辺さん」

「え?」

 四ツ元がいた。四ツ元は青い顔をして、もう大丈夫もう戻りましょうといった。なにが大丈夫なのかわからないまま、私は無言で賛成した。


 宿に戻ると、男連中は既に就寝したのか宿はしんと静まり返っていた。四ツ元に買い物を頼んだ坂野を含めて。まったく人騒がせなことで腹が立つが、まあこれで、気弱なADが理不尽な理由で怒られることもないだろう。

 シャワーは明朝にしよう、今はただただ眠い。埃っぽい押し入れから黴臭い布団を引っ張り出して、私は倒れ込むようにしてうつ伏した。気付けば下に敷いていたのは掛け布団のようだったがもうどうでも良かった。

 四ツ元はひとりで寝れるだろうか。そんな余計なことを考えて眠りについた。


 チン、

 ドン、

 ジャラジャーン、


 チン、

 ドン、

 ジャラジャーン、


 ああもう、うるさいな。


 朝起きると、片頬に畳のあとがくっきりと付いており、大月に大層叱られた。その際昨晩妙な音が鳴っていなかったかと問うたが、舌っ足らずに否定された。大口を開けて寝てたから気付かなかっただけじゃないのと、ぼんやりと思う。

 それにしてもなんだったのだろう、あの鐘、いや鉦と太鼓の音は。

 朝食は買い置きの菓子パンだった。ペットボトル入りの温いコーヒー牛乳を添えて。

 機械的に顎を動かしつつ、まだ赤い目をしている四ツ元に昨晩の鉦と太鼓の音を聞いたかと尋ねた。四ツ元は赤い目に青い顔をしながら、聞きましたよと掠れた声で答えた。

「鳥辺さん、変わってましたよねアレ」

「なにが?」

「昨日のアレ…」

 カメラマンの古葉が、なんだこしあんかよといってパンを放った。朝陽の差し込む民宿の広間である。

 四ツ元は私に寄ってきた。

「そうよね、お葬式よね」

 見たのが私ひとりではないのなら、あれは現実の光景なのだろう。

 古式床しい葬儀の情景。

「ていうか、気付いてなかったんですか?」

「え? なにが?」

「あ。気付いてなかったんですか…」

 だからなにがと私が問い重ねると四ツ元はどこか困ったような表情を見せ、やがて膝先を合わせるように更に寄ってくると、

「鳥辺さんの真後ろで、ものすごい形相で鳥辺さんのこと睨んでいる人がいたんです」

 といった。

「私の後ろ?」

 それは気付かなかった。

「本当に気付いてなかったんですか?」

「ええ。それは男の人? 女の人?」

 それはわかりませんと四ツ元は答えた。いやいやと私はいう。

「睨んでるのがわかったんだから、男か女かくらいは。服装とか体格とか」

「おぼえてないです。そんなに大事なことですか?」

「そういわれると…」

 たしかにそんなにこだわることではないだろう。要は、自分の様子に腹を立てていたかもしれない何者かがあの瞬間真後ろに立っていたということだ。

 ゾッとした。

 まるで気配を感じなかったこともそうだが、わざわざ真後ろで睨み付けるほど腹に据えかねているのなら、なにか一言あっても良さそうなものだ。それを無言のままで、ただただ睨み付けているだけなんて。

「それはいつぐらいの話?」

 えっとと、四ツ元はウーロン茶の蓋を開けた。どうも食欲はないらしい。

「鳥辺さんが灯りのほうに寄って行って、そう、昔の棺桶みたいのが出て来た時」

 物珍しさも手伝って、四ツ元の固まっていた目線が一度出棺の模様にシフトしたのだそうだ。

 気付くと睨んでいた者の姿はなくなっていた。それをきっかけに一気に恐怖感に襲われ、四ツ元は宿に戻るべく意を決して私の元へと寄って来たということらしい。

「ねえ、四ツ元さん。あなた昨晩、あの提灯を持った集団の声、聞いた?」

「声、ですか。もう、とにかく怖くてあんまり覚えてないですけど、たしかに聞いた記憶はないです」

 うん。ないですと四ツ元は繰り返した。

「そうよね。声しなかったよね」

 不思議というなら、私はそこが一番不思議だった。幾ら葬式でもなんらかの話ぐらいはするだろう。もしかするとこの地域の葬式は無言で執り行うのが習わしなのだろうか。あの座棺にしてもそうだ。葬式の風習は地方ごとで様々だというし、いずれ私が気にしても仕方のないことではある。


 気付けば、常に不機嫌そうな顔をしていろのが知的に見えると勘違いしているディレクターと、乱暴に振る舞うことが男らしいと頑に思い込んでいるカメラマンが今日の打ち合わせをしている。


 日が暮れるまで出番はないので、ひとりで周辺を散策してみるのも悪くないかと私は外に出た。この集落を現実のものとして受け止めるにはやはり、もっと目で見て手で触れてみる必要があると思うのだ。

 シャワーを浴び着替えをして宿の玄関へと向かった。帳場と書かれた簡素な木札が下がっている部屋があったのでそれとなく覗いてみたが、達磨ストーブと椅子が一脚あるのが確認できたのみで誰もいなかった。到着時はそれでも老婆が姿を見せていたが、本当に他には誰もいないのだろうか。それならば掃除が行き届いていないのも合点がいく。

 サンダルを突っ掛けて外へ出た。

 天気は快晴だが、矢張り東北、時折吹く風が実に涼しい。

 民宿の位置関係を覚えるために、少し離れた位置から外観を顧みた。

 木造の平家建て、後ろに鬱蒼と葉を茂らせる大樹、そして竹林。

 周囲に点在する家屋。そのどれもが白茶けていてまるで生活感が見えてこない。山の辺には鉄筋コンクリート製らしき集合住宅が見えた。それも多分、今は廃墟なのだろう。

 少し歩くと拓けた土地があり、畑かと近寄ってみたが生えているのは雑草ばかり。

 不意に昨夜から煙草が吸いたかったことを思い出し自動販売機を探したが、見当たらない。仕方がないので昨夜と同じルートを辿って清水宅を目指した。ついでに冷たい飲み物でも買おうと思っている。

 どこかの軒先で風鈴が鳴っている。

 清水宅のガラス戸は開いていた。中を覗くと、棚に乾物や即席麺、菓子類、雑誌いくつか、殺虫剤、花火、包帯、金物と雑多に並んでいた。煙草もあるようだし、奥にはガラス製の保冷庫に入った飲み物も見える。ただ人の姿が見えない。何度か店の奥の住居部分に声を投げてみたがまるで返事はなかった。よく買う銘柄の煙草を手に持ち、飲み物は何があるかと保冷庫の中を見た。

 なんとも古臭い缶が並んでいた。子供の頃祖母の家に遊びに行った時、一度だけ見たつぶ入りのオレンジジュース。大胆な原色使いの缶コーヒーもある。コーラもあるが、見慣れた形ではなかった。

 やはり誰も出てこないので、代金を目立つ場所に置けば大丈夫だろうと思い、保冷庫のガラス扉に手を掛けた。しかし鍵でも掛かっているものかびくともしない。力を込める。みしっといった音がして、ぱらぱらと床になにかが落ちた。

 鉄錆だった。

「やだ。なにこれ」

 扉は開いたが、中の缶のほとんどは錆びていた。

 冷えていないとかそういった次元ではない、こんな物飲めるわけがない。よくよく見てみれば菓子なども厚く埃を被っていて、今はもうどこにも売っていないような物ばかりだった。

 雑誌は?

 手近な一冊を手に取った。内容はともかくとして、私は雑誌を引っくり返し、発行年月日を確認した。

「しょ…昭和六十年?」

 なんだそれは。私が生まれる前に発行されたものじゃないか。

 私は店内を見回す。なんなのだろうここは。

「!」

 物音がした、ような気がした。私は煙草を置いてそそくさと店を出た。

 外に出て息をつく。

 胸に手を当て、速まった鼓動を落ち着かせる。なんだろう、とても息苦しい感じがした。いや結局、この店も廃屋だったということか。

 振り向くと店の前に七三分けの男が立っていた。私は死ぬほど驚いて、小走りに立ち去った。何一つ悪いことはしていないが、何故か逃げなくてはと思ったのだ。


 ここは良くない。


 本気でそう思う。

 具体的な論拠はなにも挙げられないが。


 ああもう。煙草などスタッフの誰かから貰えば良かったではないか。特に何があったわけでもないのに、私は今、店を覗きに行ったことを酷く後悔している。常に理性的たらんと欲し、冷静であることが自分の常態であると決めている私としては、このような曖昧な理由に因る後悔など、生まれて初めてに近い。

 何となく覗いた店で何となく怖い思いをして、何となく後悔している。

 何もかも曖昧だから払拭する術も思い付かない。まるでイヤになる。

 歩きながらそんなことを考えつつ、もう一度清水宅を振り返った。

「な、」

 何なの?

 七三の男が路地に出、まんじりともせずこちらを見ていた。

 昼の光に顔はぼやけて、その表情までは判別できない。

 私は早々に男の視界から消えようと、目に入った曲り角を折れた。竹林に挟まれた砂利道があり、地蔵尊が二体汚い木の祠に安置されていた。砂利道の先に目を投げてみると、なんだか向こう側が矢鱈に清浄に見えた。決して今いるほうが不浄というわけではないのだけど。こっちが暗く、向こうが明るい、ただそれだけの違いでそう思えたのかもしれない。

 後ろを気にして、私は歩いた。

 竹林を抜けた。

 明るいそこは、やはり清浄な感じがした。

 少年がひとり虫網を持って遊んでいた。

「ねえ、ボク」

 私が呼ぶと、少年は赤トンボを追うのやめ、こちらを見た。

「きみはこのへんに住んでるの?」

 少年は首を振った。こちらの存在に驚いているのか表情が固まっている。

 私は来し方を指差し、あっちへは行ったことあるかと尋ねた。少年はすると、まるで恐ろしいものでも見たような表情になって、大袈裟に否定して見せた。

「あ、あ、あ、」

「え? なに?」

「あ、あっちには絶対行くなっておばあちゃんが」

「おばあちゃん?」

 ああ、質問が悪かったのねと私は言葉を替えた。

「ボクはどこから来たの?」

 少年は後背を指差す。私の顔を凝視したままで。指は山を指差している。

「あの山? あんなとこから来たの?」

 見た感じ結構な距離がありそうだ。いったい目の前の少年はどれくらいの時間を掛けてここまでやってきたのだろう。気にはなったが、敢えて尋ねることはなかった。それよりも今は聞くべきことが他にある。

「どうしてあっちへ行くなって?」

「トリコマレルって。行くと帰ってこれなくなるって」

「取り込まれる?」

 どういうことと、子供相手に語気を荒くして私は聞いた。

 少年は怯えた顔を見せ、次の瞬間には駆け足で立ち去ってしまった。引き止める間もなかった。

「取り込まれる」

 具体的にどういうことかまったく想像が付かない。精々わかるのは決していい意味では使用されない言葉であるということ。

「なにを真剣に」

 なんにしても子供のいうことじゃないか、真に受けてどうすると自分に聞かせる。そう思いつつ、私は先ほどの七三分けの男を思い出す。無根拠に、あの男なら何か良くないことをやりかねない。

「民宿まで戻るの、怖いな」

 私はこんなに臆病な人間だったのか。いや、多分そうなのだ。臆病で本来的に弱い自分が存在しているのを自覚しているからこそ、往々にして攻撃的に振る舞うことが多くなるのだ。弱いが故に攻撃的で、計算高くて身の程知らず。世の人々はそんなに矛盾しているのだろうか。不安だ、なにもかも不安だ。

 携帯電話を持って出忘れたのでマネージャーと連絡を取ることもできない。


 じゃりじゃりじゃり。


 砂利を踏む跫。

 さっきの少年が戻ってきたのかと最初は思った。しかし違った。遠くに見える人影は明らかに大人の男のものだった。

 私は少し戻って、竹林に身を潜めた。十中八九何事もない、ただの通行人だろうことはわかっている。わかっているがここが良くない土地であるならば、普段は起こり得ないようなことも呼び寄せてしまうのではないか。妄想と印象だけで根拠は皆無に等しいが、私にはそう思えてならない。

 痩身を高級そうな上下に身を包んだ、三十代くらいの男だった。田舎道にはまるで不似合いで、酷く浮いて見えた。

 ざかざかと砂利を鳴らして集落に消えて行く。このあたりの住人には見えなかったし、だとすると商用でこの土地を訪れているのだろうか。格好から考えてもそうだろうとは思う。このような何もない土地に、いったいどのようなビジネスがあるというのか。気になる点は多々あるが、一見まともそうな人間もこの地域にはいるのだなと多少の安堵感はあった。


 来た時とは別のルートで帰ろうかとも思ったが、昨夜の葬儀の様子を思い出した。あの、無音の、しめやかに過ぎる葬儀を執り行っていた家を見ておくべきではないのか。妙な使命感が頭を擡げる。調べるまではしないと思うが、もし何か得るものがあったとしたらディレクターに進言してみるのも悪くない。それによって今回のロケが少しでも実のあるものへと変じればと、そう思っている。

 私は自分でもおかしくなるくらいのこそこそとした動きで、清水宅の様子を確認する。

 誰もいない。

 それどころか、真昼も近いというのにあたりには人っこひとりいない。私はここ、辻橋に来て以来、まだ片手にあまるくらいの人間しか見ていない。これはやはり異常ではないのか。それとも僻地の集落では有り触れた光景なのだろうか。


 結果としては、無駄足に近かった。

 清水宅との位置関係で昨夜の葬列の出て来た家は見当が付いたが、それだけだった。

 葬儀のあった家は五階という苗字。それが収穫といえば収穫。


 なにをやっているんだろう、私。

 気が鬱ぐとどうしても後悔に似た感情に心を占拠されてしまう。

 だから私はこう思うことにしている。もし女優で鳴かず飛ばずでも、私は司法試験に合格している。逃げ道はあるのだ、やりたいようにやればいい。


 夕方。


 民宿ゆずり葉の使用されていない離れは案外大きな建物だった。十畳ほどの和室がふた部屋ある。廊下に設置されている横長のシンクはステンレス製で錆こそないが、なんというか経年の度合いが金属の濁り具合で知れる。

 当然ながら通電していない。

 廃屋でこそあるのだが、内部は綺麗なもので、壊れていたり、汚れていたりすることもなかった。私の目には、今は使用していない部屋にしか見えなかった。要するに、恐怖映像を撮影したい側としてはいささか面白みに欠けるのだ。期待外れといえばいいか。それはディレクター坂野も感じているようで、非常に渋い顔をしている。

 天井も襖も畳も、古いというだけで荒れてもおらず、破れても腐ってもいない。ただどこかから隙間風が入るのか、甲高い風の鳴りだけが時折雰囲気を高めてくれる。しかしこれを以て怪奇な廃屋であるとの映像は無理があるようだ。こうまであっさりした部屋では、マクラの部分を長く撮ることもできまい。ならば本編、つまりは不可解な影だの音だのをしっかりと撮影できねば、この企画はお蔵入りだろう。わざわざ東北くんだりまで来てそれはごめんだ。

「坂野さん、この企画って、発案は?」

「え? ああ。あいつだけど」

 もうじき完全に日が暮れる。坂野の顔が微妙に闇に暈けつつある。

 坂野は顎で四ツ元を示した。四ツ元はどこか緊張した面持ちで、部屋から出たり入ったりしている。

「自分でイチから調べるから是非やらせてくれって」

「話の出元は?」

 さあ。ネットかなんかだろと坂野は投げやりにいう。想像していた情景ではないというだけで、やる気が殺がれたようだ。

 そんなことで諦めるから、こんな企画しかできないのだと私は心の中で思う。

「それじゃあこの民宿の撮影許可も全部四ツ元さんが?」

「ロケハンから何から全部な。そんな必死になるようなネタでもないだろうに」

「そうですよね。影を見たとかその程度なら…」

 なにもこんな遠隔地に来る必要もない。その程度の噂なら都内にだってごろごろしている。

「まあね。でも全部お膳立てするっていうし。四ツ元ももう三年目だしな。そろそろ一人立ちかなとか考えて。でもまあ失敗だ。外観はまだいいとして、内装がこれじゃあ」

「前もって見なかったんですか? 内装」

 うん。それがさと坂野は声の調子を落とした。

「四ツ元の撮ってきたビデオを見た時は、相当いい雰囲気に見えたんだな」

 いやあ実際がこれじゃあ、と坂野は煙草を銜えた。流しの上に禁煙と張り紙がされている。

「どう思います、坂野さんは」

「出るわけねえじゃん」

 曖昧な問い方をしたが、坂野は簡潔に答えた。それなりに聡いところはあるらしい。

「そうなんでしょうか」

 実際私の心は揺れていた。影だの何だの、そんなものは怪現象でもなんでもないと思うが、それ以外の何か恐ろしいものが現出しそうな雰囲気をこの地域は有していると、そんな気がしてならないのだ。

 私は畳の上を歩いた。床板が幽かに鳴るが、ここも永年放置されてきたにしてはそれほど傷んでいないように思う。

「失敗ですかね」

 じゃあ早々に引き上げませんか? 私はその言葉を呑み込んだ。

「失敗は失敗。でも少しはましな映像撮影しなきゃあな」

 一応前向きではあるようだ。私は昨晩の奇妙な光景をいおうかいうまいか迷っている。今は一刻も早くこの土地から離れたいと、そればかりを考えていたからだ。

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