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ゲオマ  作者: 偽薬
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構太刀 (二)

「刺されるかもな。危険だ」

 随分簡単にいうのねとタミコは投げるようにいった。簡単にいおうが難しくいおうが一緒だろと俺もぞんざいに返した。

「リョウは学生? 学校は?」

「ぼつぼつ行こうと思ってる」

 冗談だったのだがタミコは無反応だった。

「今いくつ?」

「生まれて二十年は経ってないはず」

「私はね、二十二才。恋人はいる? 私はね、今月のアタマに別れたの。大学生。年下」

 そこで俺は気付く。

 この質問はタミコが自分の精神をまともにつないでおくための作業なのだと。適当に間の手を入れるが上策だ。


 ごと。


「ん?」

 物音がした。場所はどこだと、俺は視神経の拡散と集中を繰り返した。

 大小様々の眼球群がきょときょとと廃屋内を隈無く観察する。

「あ」

 数秒目を離した隙にタミコが消えていた。これだけ付いていても目が離れることもあるのだなと、俺はどこかのんびりと思った。そして正直、少し気が楽になる。俺は善意の人ではないからだ。飽くまで個人的な理由で行動している者に過ぎない。どれほど不運だろうと不幸だろうと、実際のところ女幽霊などにかかずらっている暇はない。

 今はヒビノを探すことに専念しよう。俺は小さく声に出していう。声に出してしまうというのは、多少なりとも責任は感じている証拠なのだが、今更どうしようもあるまい。もしかするとタミコは何か目的を見つけ立ち去ったのかもしれない。そう思うのは、俺の良心を護ろうとする卑怯な自己弁護だろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 今はヒビノを探すことに集中すべきだ。タミコよりヒビノに話を聞くほうが父に近付ける気がする。俺の行動の指針はその程度の曖昧なもの。大袈裟に難しく考えるな。

 なにせヒビノは、生者ではないタミコに気付き、話をし、剰え襲いかかったという珍奇極まりない男なのだ。この世のものならぬモノの姿を見、声を聞きまたは聞かせ、触れられる男などそういるものではない。

 俺の目的は親父を探すこと。

 人助けではない。

 ヒビノを探す。

 足を出す。

 歩く。

 いや、歩けと我が足に命じる。どうにもいけない。気になる。

「くそ」

 次の瞬間には、タミコを探すのもヒビノを探すのも歩き回るのは一緒だと、俺は半ば走るようにして動き出していた。


 タミコの魂はどこへ消えたものか。

 病院内には未だにざんばら髪の女や、幽霊強姦未遂犯が徘徊している可能性もあるというのに。

 一度死んでいるのだから二度死ぬことはないだろうがと、それでも俺は大股に先を急ぐ。左腕の目玉どもをフル稼動させて。

 どちらを探すも一緒だと思い切っておきながら、俺は結局タミコの姿を探していた。


 ごとごと。


「ああ、」

 そういえばあの物音。

 上から聞こえてくるようにも思う。いや鉄筋コンクリート製の建物だ、正確には二階天井裏か。二、三歩歩き電線や配管管理のための戸板を見つけ、俺は壁を蹴って跳ね上がった。派手な音を立てて戸板が外れる。再度壁を蹴り、天井裏へと侵入する。水道管でも破けていたのか酷く黴臭い。上がってすぐに鼠の頭骨と猫の頭骨が並んで朽ちていた。その向こうにあるのは木札か。筆文字で経文が記されている。信心は結構なことだが病院には馴染まないと思う。まあ、もとから天井裏に祀っているものだ、馴染むもへったくれもないだろうが。

 どこから紛れ込んだものか羽虫が一匹鼻先を掠めていった。

 目線を前方に集中させる。

 蛇がいた。

 鱗の一片一片が数えられるほど大きな蛇だった。それでは先ほどの物音は、この蛇だったのか。

 と、その時、ちょうど俺の右耳の横を走る配管から声らしきものが聞こえてきた。咄嗟に耳を当てる。内容まではよく聞き取れないが、きいきい叫ぶ女の声と、なにやら逼迫しているような男の声がした。時折響く物音の反響の度合いから内壁は相当しっかりとした防音がなされているように思える。ならば、便所か、風呂か、あとは霊安室か。

 目標がはっきりと定まったわけではないが埃まみれになった甲斐はあった。俺は天井裏から飛び下りると階下へと急いだ。いずれの部屋も地下にある。


 地階に降りると男の声がはっきりと聞き取れた。

 ヤメロ! クルナ! ユルシテクレ!

 続いて派手に物音が響いた。音のした方向に俺は走った。壁につけられた札を横目に見て。

 男便所ではない、

 女便所、違う、

 用具室、

 洗濯室、

 給湯室、

 浴室、がたん!

「ここだ」

「うわああああああああっ!」

 男の叫び声、ヒビノだ。

 乱暴に浴室の戸を開け内部に入った。

 そこには、人の身ながらヒトならぬ世界を歩んできた俺ですら見たことのない、

 それは大きな太刀を片手で持つモノ。

 男か女か、総身に闇を纏い唯一露出した双眸は猛禽か肉食獣のようだ。その後ろにはタミコが立っている。逆方向、俺の目の前には腰を抜かした男がいた。

「あんたがヒビノか」

 声を掛けると男は手に持った懐中電灯をこちらに向け、再度叫んだ。

「また化け物だぁぁぁぁぁ」

「バケモンはバケモンだがな、俺はあんたを助けにきたかもしれないバケモンだ」

 いってる意味が分からず、暫時呆然とするヒビノ。太刀を持った影は俺の存在は意に介していないようだった。

「たったっ助ける、かも?」

 俺は頷いた。するとヒビノは転がるようにして俺の足にしがみつき、頼む頼むよと繰り返した。よく見れば上等なジャケットの背中が切り裂かれていた。顔や腕にも切り傷。失禁もしていた。

 タミコの口が開き、タミコならぬ声で話しはじめた。

「その者、存外はしこくてな。難儀している」

 すると影が、がらりと音を立てて牛馬でも胴切りできそうな太刀を肩に担いだ。どうやらタミコを操って喋らせているようだ。

「あんたは?」

「私は切る者」

「キルモノ?」

「うつしょでは構太刀と呼ばれている」

「カマエタチ? カマイタチ?」

「どちらも同じだ。通り名のひとつ」

 こいつを切るのかいと、俺はヒビノを示していった。ヒビノは喉の奥から悲鳴をもらした。

「切るとも。それがウルメタミコの願い」

「なんでその女のいうことを聞く」

「いうことを聞いているのではない」

 じゃり。影は俺に一歩近付いた。

「ウルメタミコはな、特別よ」

「特別?」

 俺はヒビノごと一歩下がった。奴と事を構えるのはまずいと直感している。

「とても特別だな。故に私はこの者を私たちの世界に招き入れたいと切に思っているのだよ。しかしそれには生け贄が必要だ」

 奴のいう「私たちの世界」とはなんだろうか。問い質したくはあったが、俺は話を先送りした。

「こいつ、ヒビノが生け贄かい?」

「無論」

「こいつを殺せば満願成就かい?」

「その者を含め、ふたつ」

「へえ。それじゃあこいつと」

 俺はまた一歩下がる。場合によっては自分一人でも助からねばと今は思っている。

「後は俺、か?」

 俺は薄情だろうか。人間に過去一度としてまともに相手をされなかった俺が、たとえばここで人間を見捨てて逃げ出すことは、はたして薄情なのだろうか。

「貴様は切らぬ。ウルメタミコの魂が欲していない」

「どういうことだ?」

「私は未だ胡乱な身。しかしそれでもこうしてうつしょに顕現できておるのはウルメタミコのお陰よ」

「わかんねえ」

 少し前のことだがなと影はタミコの口を借りて話しはじめた。



 或る雨の夕暮れ。

 母が家を去り、父に殴られたあの日、民子は遊び場にしていた神社にいた。

 雨は止まず勢いを増す。かといって家には帰りたくない。

 雨が降ってきた時、お社に入ろうとしたが南京錠と鉄鎖とで施錠されており、とても侵入できるものではなかった。だから今は注連縄の巻かれた御神木の下で雨宿りをしている。だが、跳ねっ返りが激しく民子の膝から下は泥だらけだった。流石にこれではまずいと民子は御神木を中心に辺りを見回してみた。どこかに雨を凌ぐのに適当な場所はないだろうか。

 お社の屋根伝いに裏側に回ってみた。板壁の一枚が腐り剥がれかけていた。小走りに近寄る。両手で板壁の隙間を広げる。思ったよりは広がらなかったが、小柄な民子はなんとか中に侵入することができた。

 黴なのか、民子の鼻孔に微かな甘い匂いが漂う。

 内部は何度か見たことのある社の中ではなかった。

 錆だらけのプロパンガスの小型ボンベや矢鱈に大きな置き時計、神社なのに卒塔婆、スコップ、ゴムの胴長、そして一番奥にリンゴ箱をふたつ繋げたくらいの大きさの木箱があった。

 恐怖感がないわけではなかったが、その時は好奇心が勝っていた。

 民子は木箱の蓋に手をかけた。

 封印が為されていた痕跡はあるが、大分風化している。つまりは簡単に蓋は開く。

 民子は迷うことなく木蓋を開けた。

 中には棒状の錆びた鉄が一本収められているのみ。

 そして、それを視認した途端風のようなモノが鋭く弾けた。

 民子は無意識に左手で自らを庇った。


「ウルメタミコは意識を失いはしたが、本来ならば私の太刀で首が飛んでいたのだ」

「何故切った? あんたの封印を解いてくれた、いわば恩人だろ?」

「封印されていたのだ、弱っていたのだよ。眼前の食糧を逃す手はあるまい」

「食糧だと?」

「ヒトがモノを喰うように、私もヒトを喰らう」

「ふん、悪食が。封印ってのは誰でも簡単に解けるものなのか?」

「否。紙を貼ったり破いたりしただけでどうにかなるものではない。封印に必要なのは時と場所、あとは個人の資質よ。解くのは施すの、いずれ誰でもできるというものではない。誰でもできるというのであれば、私はとうの昔に自由の身だわ。加えて、幸か不幸かウルメタミコの身は常人ではなかった。これは殺してしまうには惜しいと思った」

「俺がわかんねえのはそこだ。タミコはどう特別なんだ」

「ウルメタミコはな、そう。有り体にいうのなら母となり得る素養のある女。我が太刀を寸前で躱したるは偶然に非ず」

「母? て、あれか。タミコはヒトじゃねえモンを生み出す力があるっていうのかい?」

「ヒトもヒトならぬモノもよ。本来そのふたつにそれほど違いはないのだ」

「下世話な話、どう生まれる?」

「キサマはどう生まれた?」

「知るか。それを覚えてるんだったら今の苦労はねえ」

「まあ、変わらぬよ。いずれにせよ我が封印を解いたのがウルメタミコであったことは全くの僥倖であった。私は自由の身と、子を生す術を同時に手に入れたのだからな」

「だからタミコの身体に侵入して?」

「侵入とはなんだろう。私はウルメタミコの影となったのだよ」

「いい方はどうでもいいさ。それより、タミコの親父を殺したのは、あんたか」

「半分正解だ」

「半分?」

「殺意はウルメタミコのもの、行使は私」

「タミコは自分の親父に殺意をもった」

 なにせ自分を犯したのだから。

「だからあんたは」

 賭けと女と酒に溺れ一切家庭を顧みなかった男。タミコの父を、太刀で切り刻んだ。

「どんな音がするんだ?」

「なにがだろう」

「ヒトを切るとさ」

 ヒイイと足下のヒビノが悲鳴を上げた。すっかりその存在を忘れていた。

「その男渡してもらおう。私は一刻も早くウルメタミコの身を完全に我が方へ引き込みたい」

 なんとか時間稼ぎをしなくては。なにかいい案をひねり出さなくては。俺は内心の焦燥を気取られぬよう、顔面の筋肉を意識的に固めた。

「でも、なんで最初。あー、この病院に辿り着いてすぐか。その時にこいつを切り捨てなかったんだ? こいつ襲ったんだろ? タミコをさ」

「ああ。あの時はウルメタミコの拒絶する思いが私の身体を動かす寸前に」

 ああわかったと、俺は矢鱈と大きな声を出した。

 いい加減鬱陶しくなってきたので足にしがみつく男を蹴り飛ばした。ヒャアアとそれは情けない声を発してヒビノは転がった。慌てて入り口から廊下へ出ようとするが、そこには影が太刀を構えていた。いったいいつの間に移動したのか。

 行き場を失ったヒビノはばたばたと埃を舞い上げて部屋の隅にうずくまった。

 小動物のように震えている。憐憫の情はわかない。当然の酬いだろう。

「切り刻む前に針女が連れ去ったんだな」

 つまりヒビノは、女妖怪に命を救われたことになる。

「針女というのか、あのモノは」

「さあね。昔の人間が付けた名前だ。だいたい、ただ女というんじゃタミコとかぶる。話しててややこしくなるってもんだ。そうだな、あんたにつけられたカマエタチと同じさ」

 影はふむと唸り、

「さて、少年。そろそろよろしいかな」

 と、太刀を構え直した。

 困った。ここまできて俺にはどうにもできない。一切なにも閃かなかった。

 とりあえず小声で少年てなんだよと返した。


 どうする。


 この際ヒビノはいい。それよりタミコを影から解放せねばなるまい。


 母などにさせてはならない。


 どうする。俺には武器はない。特記するような怪力もない。超常なる能力もない。

「実は指が飛んだりしてな」

 飛ぶわけはない。

 俺は人より目が多いだけの、矢張りヒトなのだ。


 影が動いた。このままでは確実にヒビノの首が飛ぶ。ちらりとタミコを見る。ぼうと立つその姿に意思は感じられなかった。


 太刀の切っ先が動いた。

「お助けえええ!」

 ごんと鈍い音がした。

 影が俺を見た。

「邪魔をするな」

「悪いな、性分だ」

 俺の履いているブーツは爪先に鉄板の入った安全靴だ。だから俺はそろそろと靴を脱ぎ、影が太刀を振り下ろすその瞬間、太刀目掛けふっ飛ばしていた。

 片足だとどうにも動きにくいのでもう片方も影目掛け飛ばした。

 影は無言で身をかわした。身をかわしたということは、あの影自身にも物理的作用は有効ということか。

 さてそれで。

「少年」

「リョウだ」

「リョウか。亮、涼、龍…霊か」

 がらがらと音を立て、影はこちらに向き直った。太刀を引き摺っているその様から、本人のいう復活の不完全さが窺い知れる。

「小僧一人、その気になれば今の私の弱い力でもなんとかなるのだぞ。邪魔をするな」

 俺は正直慌てた。玉砕覚悟とは微塵も思っていないからだ。

「去ぬのだ」

「断る」

 しかし口をついて出た言葉は思いとは裏腹だった。


 次の瞬間には影は俺との間合いを一息に詰め、鉄の塊のごとき太刀を振り下ろしてきた。

 横様に飛んでかわす。

 タイル貼りの壁が大きく崩れた。

 息つく間もなく第二撃。

 砂礫が舞う。瓦礫が飛ぶ。

 風圧。左上腕の目玉が太刀の軌道を追う。

 なんという力と速度だろうか。これで不完全だというのなら、完全復活したとしたなら一体どうなることか。

 逃げながら、強烈に過ぎる影の付け入る隙を探した。このままでは確実に殺される。

 第三撃。寸ででかわす。続け様返す刀が飛んできた。俺は咄嗟に無謀にも右手で防ごうとしてしまった。

 無駄な抵抗だ、無意味だ、手を引っ込めろ!

 次の瞬間には宙空に、俺の右掌半分と小指から中指までが飛んでいた。極度の興奮状態故痛みは感じない。ただぬるぬるとした血液が邪魔に思えた。転がる。

 

 駄目だ、敵いやしねえ。


「おいヒビノ! 走れ!」

 いうが早いか、ヒビノは脱兎の如く走り去った。本当に素早い。

「小僧!」

「へ。俺に夢中になり過ぎだ。どうするよ、目的の奴はもういないぜ? 俺の命で我慢するかい?」

「キサマはウルメタミコが欲しておらぬ、殺しても無駄だ」

 だが。影が睨む。

「私の意志でキサマを切る」

「無理だな」

 逃げ足なら俺も早いと、俺もヒビノのあとを追うようにして全力で駆けた。廊下には既に奴の姿はなかったが、どこへ逃げたかなどはすぐに知れる。



 *


 病院の前庭に停めたジャガーに這々の態で辿り着くと、日比野こと、本名壁マサルはシートに滑り込むようにしてエンジンをかけた。早くしろ早く早くととにかく慌てる。

 比較的アンダーグラウンドな世界で呼吸を繰り返してきた壁ではあったが、過去あれほど怖い思いをしたことはなかった。

 幽霊に欲情する男壁マサルをして、今晩の体験は度を逸している。

 二度も殺されかけるなんて。なんと実在感の強い化け物どもだろう。そう思っている。

 なんにしても命あっての物種だろう、一刻も早くここから離脱せねば。

 ジャガーの前輪がひび割れたコンクリートの地面を咬む。ばりばりばりと音を立てて車は動き始めた。突如助手席のドアが開き、眼前に目いっぱいの腕が迫ってきた。壁はハンドルを握ったまま叫んだ。

「早く出せ、あの影が来るぞ」

 両目を布で覆った若い男は鞭で打つような厳しい口調で壁にそう命じた。

「なんなんだよもう」

「早く出せって」

「今日はなんて最悪なんだ」

「自業自得だ、クズ」

 殴られた。

 壁は悲鳴を上げるが影に対する恐怖心が勝っているのだろう、ハンドルを離すことはない。

 車も悲鳴を上げて病院の敷地から飛び出た。

「お前はなんなんだ! いきなり俺の目の前に現れやがって!」

「好きでかかわり合いになってんじゃねえ」

 また殴られた。

「殴るなよ! 俺が何したっていうんだ!」

「してるじゃねえか、山ほど」

 殴られた。

 殴。

 殴。

「俺の名前はミササギリョウ。よろしく」

 目玉男は左腕を車外に出した。追跡者を警戒しているのか。

「自己紹介されたってワケわからねえよぅ」

「うるせえ。お前はクズだ」

 殴。

「何度殴っても飽き足らない、最低な野郎だ」

「くそ。その最低野郎になんの用だコノヤロウ」

「俺もまた最低でね」

 いってる意味わかんねえよ。顔が痛えよと壁は半泣きで訴えた。リョウはするすると顔に巻いた布を取り、こんな顔のおっさん見たことねえかと壁に尋ねた。壁は再度叫んだ。

 顔面中央に穿たれたふたつの穴。その空ろに見える赤黒い肉。他の部位が整っているだけにその欠損は際立って異常に、壁の目には映った。

「こんな顔って保証はないがね。今のとこ他に手掛かりがねえ」

「し、知らないよぅ」

 壁は前方とリョウとを交互に見ながらいった。

「な、なんだよ。なんなんだよ」

 砂利道が終わり、車はやっとまともにアスファルト鋪装された山道に出た。

 月とちぎれ雲。

 ダム湖の照明。

 小さな町灯り。

 タクシーと擦れ違った。

 壁は無音が怖いのかラジオのスイッチを入れた。


『…未明に石動町にある旧店舗で見つかった首つり死体は同町に住む銀行員、潤目民子さん二十二才と判明。死体の状況から自殺と見て間違いないとの発表があり』

 慌てて壁がチューニングをいじろうとするのを制して、

「おい、これ。あの女のことだろう」

 と、リョウはいった。壁は今はもうその顔を直視できない。小声で布巻いてくれよと懇願する。リョウはそれには無言で従った。

「自殺は死に方がどうであれ変死扱いだな。おい、この土地は検死はどこがやるんんだ?」

「そんなの俺が知るわけないだろ」

「知っとけよ馬鹿野郎」

「無茶苦茶いうなよぅ」

「うるせえ。大学病院はあるか?」

「麓にあまり大きくないのが」

「そこ行け」

「な、なんでだよ」

 いいから行けとリョウはまた壁の頬を殴った。確かに何度殴っても飽き足らない下種な行為を壁は趣味にしている。またそのことがわかっているのか、壁も特別抵抗はしない。殺されぬだけましだと思っている。

 リョウは着いたら起こせと声高に宣言して腕組みをして眠ってしまった。

 ラジオはサッカーの結果を告げている。

 壁は頬を腫らして泣いている。


 くねくねと蛇行する山道には街灯もなく、時折蛍光塗料の塗られた死亡事故発生だの、事故多発地帯だのといった野立て看板が視界を横切っていくのみ。

 リョウが音もなく目覚めた。

「なんでヒビノ?」

「…はい?」

「なんでヒビノって偽名にしたんだよ」

「偽名じゃないですよぅ」

「偽名だろ。殴るぞ」

「え。いや、あの、なんかかっこいいかなと」

「ふうん。本当の名前は?」

「か、壁マサルといいます」

「いい名前じゃねえか」

 といいつつリョウはまた壁を殴った。

「いいか、カベマサル。お前がやったことは人間相手のことじゃねえ、だから警察に突き出したってしようがねえ。だからよ」

 俺が断罪してやるぜと、脅迫じみたことをいった。

「あんたはいったい何者なんだ」

「善意の第三者だよ」

 善意ィ? 壁は頭のてっぺんから声を出し、車を急停車させた。

「おい、追い付かれるぞ」

「へ。追っかけてくるものか」

 降りろよこの目玉野郎と、壁は態度を急変させ、いきり立っていった。

 リョウは酷く億劫そうに革張りのシートから身を剥がした。車外には既に壁の姿。リョウの出て来るのを待ち構えている。

「疲れてんだよ、寝かせてくれ」

「うるせえ! おりゃあな、善意だ正義だとぬかす奴らが大嫌いなんだ!」

「お前の好き嫌いはどうでもいいよ」

 リョウも車外に出る。

 もうじき夜が明ける。

「正義の味方気取りやがって!」

 そう叫んで壁が飛び付いてきた。上背がある分それなりに力がある。しかし野山ばかりで生活してきた自然児の相手ではない。リョウはあっという間に壁の長い身体をアスファルト道路に組み伏せていた。

 両手でぐいぐいと地面に押し付けられながら、壁は泣き叫んだ。

「殺すんなら殺せよ化け物!」

「開き直ってんじゃねえよ、早く車出せ」

「いやだね。行きたきゃ自分一人で行け!」

「大学病院まで行ったら解放してやっからよ」

 そうリョウがいった途端、壁の顔から険が消えた。現金だ。

「ほんとか? ほんとだな?」

 薄笑みすら浮かべている。壁は小躍りするような動きで再び運転席に乗り込んだ。リョウも急いで助手席に飛び乗る。遅れては多分、壁に急発進されるからだ。

「しかしあんた、なんだってそこまであの女に関わる?」

「俺にもよくわかんねえ」

 実際リョウが最初に関わろうとしたのは壁だった。時々刻々変わる状況に合わせたり流されたりしているうちに今がある。

 ふたりがジャガーに乗り込んで、壁がエンジンを吹かしたその時、


 ごん!


 車の天井に何かが乗っかった。

 壁は暫時固まる。天井からは鉄板が凹む音、そしてざらっざらっと固い物に何か細かな物が沢山触れるような音がする。リョウはそれを髪の毛だろうと判じた。

「おい、カベ。影野郎じゃなくて、針女のほうが追い付いてきやがったぜ。随分とお前にご執心のようだな」

「か、からかわないでくれよ。どうする?」

「振り落とせ」

 壁は車を急発進させた。

 リョウが針女と呼ぶヒトならぬモノは、一度見初めた男がいるとそれはしつこく追い回すのだという。カベはその事実を知らぬまま、おそらくは過去に自分がおかしてきた女の魂と同様の感覚で接触したのだろう。全く以て愚かだ。

「手はっ、手は出してない!」

 蛇行する道との摩擦でジャガーの太いタイヤが鳴る。

「綺麗だねって口説いただけだ! 顔見て逃げ出したんだ、すぐ!」

「随分色男だな、それだけでこのご執心ぶりだぜ?」

 針女とはそういうモノだと、リョウは学んだ知識から知っている。


 幸い対向車が来ることはない。ジャガーは猛スピードで唸りながら走り続けた。

 天井からは物音はしない。

 リョウは点けっぱなしになっていたラジオを静かに切った。

 壁はハンドルの動きを幾分緩やかにし、気持ち減速した。

「落ちた…のか?」


 べたん!


「うわあああああっ!」

 フロントガラスいっぱいに女の濡れそぼったような髪の毛が散り、その真ん中には土気色した顔、歯のない口はフロントガラスの表面を大口空けて吸っている。

 じゅぼ、じゅぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ、、、

「なんで吸ってんだよぅ」

「前をちゃんと見ろ!」

「見えないだろこれじゃ!」

「窓開けて顔出せ!」

「それじゃあ食われる!」

 車内の男二人の不毛な論争をうつろな黒目で見つめていたかと思いきや、女は棒のような身体を捻り、今度はボンネットにへばりついた。

 真正面に壁を見据える。

 壁は泣き笑いのような声を上げて、何故か嘔吐いた。恐怖に酔ったか。

「おい目玉! なんとかしてくれよ!」

 リョウは畜生と一声発して、窓を開け足から身を乗り出した。なるべくまっすぐ走れといい残して車の屋根に立った。

 不安定な場所に立つと風圧はまるで凶器だった。リョウは裸足の両足に力を込めた。

 たたき落とすしかないなと、へばりつく女を見る。

 右手を固めた。そういや、右手切られたよなとリョウは思ったが興奮状態が持続しているせいか痛みはない。しかし流石に傷口を広げるような行動をとるのは賢明ではない。

 一度右手を見た。

 赤黒く血が凝っていたが、あれだけの傷が既に塞がっていた。

 骨ごと切り落とされたんだぞ。我がことながらリョウは驚く。右手の指を三本もなくしたのだ、普通に考えれば大怪我である。その痛みに気を失ってもおかしくないほどの。

 矢張り自分は普通ではないのだろうとリョウは思った。だが今はそれでいい。肉体が普通ではないと嘆くのは、とうの昔にやめたのだから。

 ヒトとヒトならぬモノの間に立つのであれば、このカラダは必要だ。そこに自分の存在意義を見出すのであれば尚のこと。


 欠損した部位を意に介すことなく、リョウはへばりつく女を思い切り殴り飛ばした。

 女を殴るのは気持ちいいものではないが、この女は危険だ。

 三発殴ったところで女は剥がれ落ち、車高の低い車の下を転がっていった。リョウは透かさず後方を確認する。襤褸キレのような固まりが転がっていくのが見えた。ひょいと身体を翻し中へ。壁に対しては表情だけで済ませた。もう一度右手を見る。矢張り痛みはなく、傷口が破けているようなこともなかった。

「こ、殺したのか?」

「もともとが生き死にとは別んとこに居るような奴らだ、死にはしないだろ」

 いいつつリョウの本心は、死んでしまっては寝覚めが悪いと思っている。

「また来るかな?」

「来るだろうな」

「また来たら、また助けてくれるか?」

「ああ」

 それより病院にはまだ着かないのかとリョウは問うた。壁はやや興奮が沈静化した口調で、

「もう麓は近いはずだ」

 といった。

 聞いているのかいないのか、リョウはさも不快そうに汗掻いちまったぜとぼやいている。


 麓の大学病院に到着した。

 リョウは助かったといって降車しようとするのを、壁が珍妙な声をあげて止めた。

「なんだ」

「だってあんた、またあの女が来たら助けてくれるっていったじゃないか」

「じゃあどうするんだ」

「びょ、病院に何の用?」

「多分タミコの死体自体はここにある」

「それが?」

 そう壁が問うのをリョウはハタと動きを止め、軽く腕を組んだ。

「あの女、しつこそうだよなホント」

「え? あ、うん。だからあんたが守ってくれるんだよな」

「ああ、そうだよ」

 それじゃすぐ用事済ませてくるから、少し待ってろといってリョウは颯爽と走り去っていった。壁には何が何やらわからない。大学病院の敷地に巡らされた高い塀を難なく乗り越えていくその背を目で追い、不意に思い出したように周囲を見回し車に乗り込むと、しっかり施錠した。

 うるさいくらいの虫の声。合間に壁の荒い息づかいが挟まる。

 このまま待っているのがいいのか、とっととできるだけ遠くに逃げた方がいいのか、逡巡するもすぐに思い至る。針女と自分が知り合ったのはこの近辺ではなく、遠く宇和島地方であるということに。

 四国宇和島から海を挟んで、ここまでいったい何百キロ離れているか。その距離をやってきたのなら中途半端に逃げても意味などまるでないだろう。

 壁は熱病に罹ったような細かな震えを起こす。特異な性癖故怖い目には何度か遭遇しているが、今回のように直接的に命の危険を感じたことなどただの一度もなかったからだ。

 喉も痛みが走るほど乾いている。

 逃げ出したい。逃げ切れるものではない。その鬩ぎ合いに耐えきれずに、壁は今度は本当に吐いてしまった。

 窓を叩く音。

 壁は心臓の飛び出るほど驚いたが、吐瀉物が出切っていなかったためにガボガボといった音が車内に響いた。

 リョウだった。肩にそれは大きな袋を担いでいる。

 どうも車のトランクを開けろといっている。壁は滑稽なほど狼狽えながら従った。

 どしりと後方が沈む。続いてトランクを閉める振動。その振動を身体に感じ取って壁は今、とても厭な想像をしている。助手席に乗り込んできたリョウに嗄れた声で早速聞いた。

「あんたまさか、死体を…」

 リョウは吐瀉物にまみれた壁の顔を見、平然とそうだと答えた。

「なんの真似だよそりゃあ」

「早く出せ、かなり派手に強奪してきたからさ」

「え? 強奪?」

 ばたばたと慌ただしく走る数人の跫が聞こえる。あちこちで明滅するライト。声。

 壁はエンジンを掛け、ジャガーを急発進させた。

「無茶苦茶だ」

 無茶苦茶だ、あんたは。壁は泡を飛ばしていう。リョウはぼそりと返す。

「ニンゲンの常識じゃあな」

 車の両サイドを景色が飛ぶように流れていく。

 辺りの闇色は薄れ、次第に早暁へと近付く時刻。

 リョウは市街地に紛れるまでに一台でも対向車とすれ違った時点で車を乗り捨てるつもりでいたが、幸い道程の周囲には民家が少なく、生活道とも離れていたためその心配はなかった。あとは安心してウルメタミコの縊死死体を隠しておける適当な場所を見つけるのみ。

 死体なんてどうするんだという壁の再三の問いかけをいいだけ無視して、リョウは暫時眠りに落ちた。放浪生活が長いせいか、短時間でも深い眠りを得られる体質になっている。

 轟と、まるで場違いな大鼾が響いた。

 どこへ行くんだよぅといった壁の声など届くものではない。壁は、苛立ちと恐怖の綯い交ぜになった複雑な心持ちで右側に寝る男をちらと盗み見た。左腕上部の無数の目玉が一斉に閉じている。と思いきや、肘近くの比較的小さいひとつがぱちりと瞼を開け、壁を見た。壁は思わず目を逸らし、やや置いてまた左腕を見た。比較的小さいひとつが瞼を閉じるが、今度は別のひとつが目を開けた。まるでひとつひとつに意思があるようだ。

 化け物めと壁が改めて認識したように呟いた。

 鉄拳が飛んできた。

「ね、寝てたんじゃないのかよ」

「今ので起きた。蒸し暑いな」

 欠伸をしながらリョウは答えた。本当に熟睡していたらしい。


 駅前に1LDKの貸事務所があったのでリョウは壁に借りさせた。ついでに古着屋で上着も買わせる。

「酷い出費だよ」

 元がとれるもんでもないしと壁がぼやくのをリョウが耳聡く聞き取って、

「じゃあここで解散するか?」

 と、上着を着ながらいった。上着を着るのは勿論、人目に付かないようにするためだ。壁はヤだなあ冗談だよと空とぼけている。

「ハラ減ったな。カベ、なんか食いもんゴチソウしてくれよ」

「はいはい…」

「ホントお前、金持ってんのな」

「今更なにいってる…」

「へ、悪いな。ビフテキとか食いてえけど」

「ビフ…」

 あんたいつの時代の人間だよと壁は素っ頓狂な声を上げた。

「ビフテキなんつって、昭和だよ昭和」

「昭和? なにいってる今は平成だろ」

「違うって、そういう意味じゃなく」

 これだから山育ちはと壁は顔を押さえた。山育ちは関係ねえだろとリョウはもそもそと反駁した。

「まともに学校行ってないからな」

 額に浮いた汗を拭いながら呟く。

「学校行ってないことを理由にしては駄目だ」

「駄目か」

「駄目。知識がないことを恥じるのなら学校云々ではなく、種々学んでこなかったことのみを恥じるべきだ」

「ほう。なんだか含蓄のありそうな言葉だな。墓のセールスやるより宗教作ったら?」

 あ、それもいいねと軽い調子で乗った後、墓のセールスはしてないけどねと付け加える。おそらくはこのような軽薄な感じこそが壁の本領なのだろう。

「まあいいや。テキトーに買ってくる」

 そういい残して壁は立ち去ろうとしたのをリョウは呼び止め、煙草を無心した。壁が差し出した煙草を受け取り火を点けてもらう。

 小走りに立ち去った壁の背を、はだけた襟元に隠されたひとつで見送った後、リョウは外国車の頑丈そうなボンネットに腰掛けて煙草をふかした。

 蒸した外気。

 青々と染まる盛夏の蒼穹に紫煙を散らし、次にあの影と対峙した場合どうするのが良策かと思案する。真っ向勝負で敵う相手ではないことは十分過ぎるほどわかった。

 力も技術も向こうが上。果たして俺が奴より勝っているのは。

「あ?」

 そこでリョウは気付いた。


「おおい」

 壁が紙袋を抱えて戻ってきた。

 中にはパンと牛乳そして沢山の缶詰が入っていた。リョウは缶切りはあるのかと問い掛けて、またも壁に笑われた。


 ジャガーを裏路地に停め直して、リョウと壁は大学病院から強奪してきた大きな袋を貸事務所が入った古ビルの裏口から運び入れた。場所はビル内四階。エレベーターはなし。これは骨が折れる。


「さあ教えてくれ、この死体をどうするんだ」

 常に携帯しているという練り山葵を大事そうに懐にしまいながら、壁は尋ねた。

 さあてなあ。上着を脱ぎ、腕組みをして窓から外を眺めていたリョウは、

「あのカマエタチはタミコを自分らのハハオヤにするとかいってたよな」

 小声ながらも滑舌良くそういった。壁も気持ち小声になって、カマエタチってなんだっけと聞いた。

「あの、でけえ刀振り回してた影だよ」

「ああ、あの化け物」

 壁の声は甲高い。コンクリートの打ちっぱなしの室内では、耳障りなほどひしひしとよく響く。

「タミコをハハオヤにして、ばかすか仲間増やして」

「化け物も妊娠するなんて、どう想像すりゃいいか」

「お前が想像する必要はねえだろ。今の俺には、そうなるとシャレならんってことがわかってるだけで十分だ」

「そうだな。あんな化け物が沢山増えたら、日本はどうなることか」

「実際仲間増やしてどうしたいのかまではわからねえけど、人間的には良くない徴候だろ?」

「あんたは人間の味方かい?」

 リョウは今度は無言で煙草をせがんだ。壁も心得たもので何もいわず差し出した。

「人間の味方、なあ。どうだろうな。ただタミコが気になる」

「惚れたか?」

「鼻へし折るぞ」

 リョウは本当にやりそうだ。壁は顔を隠して身を引いた。

「関わっちまった以上ほっとけねえ、それだけだ」

「だからってどうする? タミコちゃんはもう死んでるんだし。ああ、成仏させてあげようとかそういう?」

「いいや」

 リョウは部屋の真ん中に置かれた大きな袋を見た。紙のタグに二十代、女と記してある。

「タミコはあの影が見初めたことでもわかるように、なんていうかソッチ方面の素養があるんだろう?」

「そっち?」

「ソッチでもアッチでもいい。なんとなくわかるだろ、そっちの世界だ。あの影、カマエタチや針女が罷り通る世界だよ」

「なんとも怖い世界だ」

 好んでその世界に片足を突っ込んでおいて壁は抜け抜けとそういった。あまり懲りていないのかもしれない。リョウはしばらく壁の間延びした顔面を眺めていたが、矢庭に猫といった。

「猫ォ?」

 壁はびくりとして後ろを見た。猫などいない。

「猫をな、一匹でいいんだが掴まえてきてくれ」

「猫なんてどうするんだ」

「いやさ。昔から猫が死体を飛び越えると死人が生き返るっていうだろ」

「そ…そんな迷信」

「迷信だろうとなんだろうと、方法がある以上俺は試してみるぜ。それにさっきもいったように、普通の人間じゃ駄目でもタミコには効きそうな気がするんだ。だいたいが考えてもみろ、タミコはまるで無になったわけじゃねえ。思考回路はふらふらと世の中をさまよったままじゃねえか」

「あんた、そんな理由で病院から死体盗って来たってのかい?」

「まさか。いずれ母とやらになったとして、肉体を手もとに置いておけば対処のしようもあるかなと思ってな」

「どっちにしてもマトモな話じゃないね」

「幽霊とヤるのが趣味の人間がなにいってやがる」

「いやマ、それはそれ。でも、あんたのいう思考回路。魂というか、タミコちゃんの本質はあの影が握ってる。死体はもう必要ないんじゃ」

「だからわからねえって。ただ考えられる限るのことを試すだけだ。それでもこの世に存在してる以上、霧や霞よりは掴みどころはあるように思うがな」

 なにせカマエタチは、リョウの放った靴を意識的に躱したのだから。

「んん? つまりは化け物出産させるにはあのカラダが必要ってこと?」

 壁は目で袋に入った元ウルメタミコを示し、そういった。

「病院に置いておいても身元引き受け人がいないだろうし、無縁仏で燃やされるか、そのまま大学かなんかで解剖の勉強に使われるか」

「流石に本人の意思確認なしに献体扱いにはしないと思うけど」

「そうなのか? なんにしても形を留めなくなったら意味はない。なんにしても、もしタミコの身体が燃されたことがカマエタチに知れたら、奴はタミコの魂を捨ててどこかへ去っちまうと思うんだよ。だから俺は死体を手もとに引き寄せた」

「だったら奴も俺たちにかまけてないで、とっととタミコちゃんの死体を盗りに行ってりゃ良かったのに」

「それは多分、あいつが封印された時代が関係してるんだろう」

 壁がわからないというと、リョウは吽といって昔は土葬が当然だったからさと続けた。

「タミコのカラダを母にするために必要な生け贄、みっつのうちの二つ目を手に入れて」

 二つ目の生け贄とは誰あらん壁のこと。壁は思い出したのか小さく戦慄した。

「それからタミコの死体を手に入れに来ても十分間に合うと踏んだんだろうな。奴のアタマだと、無縁墓でも掘り起こしてさ」

「それじゃあその死体は、あの刀の化け物を誘き寄せるための餌かい?」

「そういう意味もある」

 誘き寄せてどうするよと、壁は大袈裟な動きで頭を抱えた。あんな強烈な奴、野放しにできるかよとリョウは返した。これだから云々と壁はぶつくさいう。

「いいから猫手に入れてこい」

 鮭缶でも置いておきゃ寄ってくるだろと、リョウは投げやりにいった。壁は頑として拒否した。

「駄目だ。俺、猫だけは苦手なんだ」

「どうして? にゃんこだぞ? 毛むくじゃらのちみっちゃい生き物じゃねえか」

「うぅ、やめてくれ。想像しただけで鳥肌が立つ」

 本当に壁の首筋には鳥肌が立っている。どうやら冗談でいっているのではないらしい。

 なんだか知らないいけど生理的に受け付けないんだと壁はいった。

「ああ、わかったよ。俺が行く」

 リョウは出口に向かう。その背に壁が声を投げた。

「ひとりにすんなよ!」

「うるせえな、こんな真っ昼間に襲ってきやしねえよ」

「なんでわかる?」

 昔っからお化けは夜出るもんじゃねえか。ぐいと振り向いてリョウは鼻息荒くそういった。顔面のふたつが空ろとはいえ、振り向くという所作はするのだなと壁はそんなことを思った。

「襲って来たら大声で叫べよ」

 間に合えば助けてやると、リョウは部屋を出て行った。

 壁は袖口で汗を拭った。夏とはいえ、今日は本当に湿度が高い。


 数分後、リョウは片手に鯖虎の牝猫を抱えて戻って来た。壁はわかり易くぎゃあと悲鳴を上げ、部屋の隅へと逃げた。

「可愛いのに。変わった奴だ」

 猫は暴れることなくヤーとかアーとか鳴いている。まだ稚いようだ。壁は隅っこで何でもいいから早くしてぇと叫ぶ。最早悲鳴に近い。余程怖いようだ。駄目駄目、夜にならないととリョウは余った缶詰からノンオイルのツナ缶を選ぶと、これどうやって開けるんだっけとひとりでいいながら缶蓋を開け、猫に食べさせた。

 常に強張っていたリョウの表情が若干緩んだ。

「猫が好きだなんて、趣味が合わないな」

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