崩壊
「あなたは人間は傷つけないなどと仰っているそうですね?」
イタリア製の高級革靴で顔面を踏み付けにして、まるで舞台役者の台詞回しのように朗々とした声で言葉を放つ。
「どうなのです? どうなのです! 私のようなろくでもない人間でもその志は遵守すると仰られるのですか? ええ?」
リョウは顔面をいいだけ踏みにじられても何も返さず、ただ苦痛と屈辱に黙と耐えていた。半裸に剥けたその身体は傷だらけである。
満身創痍の陵霊と、その顔面を踏みつけにする治水顎人。
そのふたりの様子を戦々恐々とした思いで物陰から見つめる壁マサル。
そしてその奇妙な三人のぐるりには、輪をかけて奇怪極まりないヒトとも獣ともつかぬモノどもの屍体群。
「どうなのです!」
治水は再度叫んでリョウを踏む我が足に力を込めた。ごきりとリョウの顎がずれた。
リョウは血反吐を吐き出しながらも、左腕から周囲の様子を窺った。
左腕の視界いっぱいに広がる己が千切って捨てた異形ども。
それは今から半日ほど前のことだ。
壁にいわれるがまま、郊外のこの場所に誘導され、そして欺かれるがままにたったひとりで殲滅した、この場所に群れ集っていただけのヒトではないモノたち。
それを集めたのは誰あらん治水その人であり、リョウの特殊能力をじっくり観察したいが為の謀だったようだ。
発想は治水、実行は壁。
リョウは言葉巧みに壁の奸計に乗せられ、そして、
「さあ! 私の足を撥ね除けなさい! そして貴方の思うがままに!」
リョウは耐え難き屈辱に甘んじながらもそれだけはやってはいけないと思っている。今ここで感情のまま動くことは、完全に闇の世界に堕ちることと同義だと思えたからだ。多分今、指一本でも動かしてしまえばそれでもう箍が外れてしまうような気がしていた。
そうなれば最後だ。
抑制は利かず、治水も、そして壁も一瞬にして血祭りだ。善いも悪いもない。この状態を打破するのにそんなに器用には振る舞えない。
皆殺しだ。
「み、、、」
「貴方は罪深い!」
ごきり。
「人として死んだはずの潤目民子を無理矢理に呼び戻し、鳥辺トモは貴方の毒気に当てられ今では廃人同様だ。それなのに当の本人は何事もなかったかのように日々を過ごしている!」
「勝手な、、、」
勝手なことをいうなといおうとして、リョウは結局口を噤んだ。
それが面白くないのか、治水は酷く冷ややかな目でリョウを見下すと、
「壁マサルさん! この次はどうするのです! どうすればこの男は」
感情を表に出すのですといった。
物陰の壁は踏み躙られるリョウの顔を見ることなく、見られず、怖ず怖ずと口を開いた。
「次もなにも、、、」
正直壁は困惑していた。
彼の目には過去、リョウは感情のまま動いているように映っていたからだ。しかし、今回に限りどうやらリョウは感情を殺している。それとも今までもリョウは感情を殺して行動していたのだろうか。
なにかあったのだろうか。
いずれ壁には与り知らぬことだ。
今のこの状況はすべて、リョウの感情、リョウから怒りを引き出さんが為に行われている。壁の思うに、リョウの驚異的な再生能力はどうも彼の感情の起伏によって左右されるようだからだ。
リョウの体質の研究は、科学者としての治水というよりも、自らの妖怪化を切望してやまない治水顎人にとって不可欠な要素だろう。
破けた皮膚や砕けた骨が目に見える速度で再生していく。
そんな身体能力を有したモノ。
それを研究することは実に直接的に治水の積年の夢である不老、不死への途に通じているのではないか。
その再生能力に長けた細胞が人工的に生成可能だとするのならば、治水のみならず、人類の大望を叶えることは最早夢物語ではなくなる。ただ治水には、仮にその研究が成った暁に、その成果を世間に公表するつもりは毛頭ない。すべてを公表し、溢れんばかりの再生機能を身に付けた人間がどんどん世に現れてしまっては、、、
「つまりません」
治水は懐から細長い煙草を取り出した。
血泥にまみれたリョウの顔を見下ろしながら、こいつには麻酔薬が効くのか考えている。
火を点け、ひと吸いする。普段喫煙の癖のあまりない治水は、顳かみのあたりがすうと冷えるような感覚がした。
「貴方の再生能力を研究し、その成果を小出しに世間に出していくだけで、私は世界の寵児となることができるでしょうね。やり方次第で可能性は無限の如くです。金も力も名声も思いのままだ。貴方の細胞のひとかけらで世の中のすべての者、大国の宰相だろうと世界有数の大富豪だろうと私に逆らうことはできなくなる。それどころか喜悦の笑みをもって私の足下にかしずくことでしょう。まああまり興味のある話ではないですが」
「お前はどうして不死を欲しがる」
「私がそうしたいからですよ。他に理由はない」
壁は物陰で怯えながらも、治水の言葉の内容を材料に胸算用する。
もし本当にリョウの細胞でそんな夢のような結果が得られるのだとしたら、果たして自分はいったいどのくらい情報提供料を請求すれば良いものか、と。
一億や二億ではつまらないな。
「それよりミササギさん。聞いた話によると、貴方右腕に刀を仕込んでいるそうですが、どうして出されなかったのです?」
「なくしたんだよ、ちょっと前にな」
それは本当だ。
以前鳥辺トモを救いにある妖怪と争った際に、リョウの右腕に仕込まれた刀はもぎ取られてしまっていた。
治水はそれは残念ですねえ。一度くらい見てみたかったですなどといっている。
そんな中、壁は周囲に点在する影に目をやった。
治水が用意した安全装置。
麻酔班、三名。
毒薬班、二名。
その周囲には更に、強力な炸薬弾を装填した銃を構えた人間がぞろりと揃っていた。その全員が無論治水の息のかかった人間である。いったい治水とは何者なのだろう、明らかに一介の科学者の域は越えている。
願わくばその狙撃チームの世話にならぬままおとなしく捕獲されてほしい。
それが陵霊と浅からぬ縁のある壁の願いだ。まるで勝手な思いであることは百も承知でそう思う。
さあて。
治水は華奢な右腕を広げて、再び朗々と語り出した。
「なにゆえ。何故貴方は、ヒトならば無条件に援け、ヒトならぬモノは容赦なく斬って捨ててきたのか。それは偏に、実に利己的な考えに根差している! 貴方は決して正義の味方などではないのです。ただ単純に、自分と同類のヒトならぬモノたちが罪を犯すことを嫌っている、いえ、怖れているだけの臆病者に過ぎない! すなわち、ヒトならぬモノが罪を犯さば、同様にヒトならぬモノである自分の立場が危うくなるのではないかという過剰な恐怖心が貴方の行動の根底にあるのです! ミササギリョウ! 貴方はその思い込みとしかいいようのない恐怖心に駆り立てられた、ただそれだけの者! 裏を返せば、貴方のその考えはヒトを害せない理由ともつながる!」
「知った風な口を」
「科学者とは知った風な口を利くのが商売です。しかし強ち間違いではないでしょう?」
リョウは治水の言葉を頭蓋の後ろのほうで噛み締めつつ、大間違いだよとだけ呟いた。
治水は大きく鼻で笑った。
「ミササギさん。貴方はヨウカイを父に持つそうですね。まあ私のいうヨウカイは便宜上の呼び方に過ぎませんが」
「よく知ってるな」
「そうした情報などどこからでも手に入ります。漏れるのがお厭なのでしたら一切口外なさらないことです」
「オイヤじゃねえよ」
そこでリョウはがばりと立ち上がった。無論彼の顔に足を乗せていた治水は大きくバランスを崩し、結果仰け反るように後ろに倒れた。
頭にのぼった血はまだ冷めたわけではない。
結果として自分の意思の弱さを呪うことになるかもしれぬと、リョウは一歩、仰臥した小柄な男に近付いた。
無論リョウの無数の目は、各所に配置された狙撃手の姿をしっかりと捉えていた。
それにしても、なんなのだと思う。
どうしてここまでの思いを自分はしなくてはならぬのだろう。
上げた片足が重い。
リョウは歯を喰いしばった。
歩いていけ。
それでも歩いていけ。
すべてを踏みしめ、弛まず怖れず。
治水のいったことは間違っている。
それでも全力で否定はできない。そうした気持ちが自分の中に僅かでもないとはいい切れない。
しかし歩みを止めるわけにはいかない。
動いていなければ、多分リョウは一分と身がもつまい。
正しいことに意味はあるか。
正しいとはどういうことだ。
決して正しいことをするために生を享けたのではないと、それぐらいはリョウとて承知している。今のリョウの目的は、飽くまで実父を探すこと。だからその途中の人助けは本来、不必要なものである。ただそうした、人の為に動くという行為に、リョウは自分の存在意義を微かでも僅かでも見出していたのは事実だ。
それを踏まえた上で、リョウはいった。
「馬鹿野郎。俺は正しいぜ」
治水は含み笑いをしながらゆっくりと立ち上がった。
「それでも正義を標榜なさるのですね?」
「標榜も糞もあるか」
リョウは目玉の沢山付いた腕を曲げ、大見得を切るように自らの顎先を親指で示した。
「俺の存在が正義だ」
治水はそれは甲高い声で笑った。
いいだけ笑って、その笑いの余韻の冷めぬうち、片手をすうと上げた。
同時に炸裂する破裂音。
リョウは瞬時に我が身体を見る。
痛みはない、血も流れていない。
少し離れた位置から声がした。
壁の声だった。
「そんな。え。治水さん、何を」
壁はふらふらと歩いている。
右手で首筋を押さえているが、その隙間に見えるのはどうやら注射針のようだ。
「ちっ治水さん!」
治水は何度呼ばれようとも返事もしない。ただの一度、感情のまったくない目で壁マサルを一瞥しただけだった。
リョウを見る。
「作戦変更、です」
壁が膝から崩れ落ちた。
「殺したのか」
「いえ、まだ」
死にはしません。治水は鼻で笑いながらいう。
「治水ブランドの特別調合神経毒です。ほうっておけば一時間ほどであの男の心臓は確実に停止する」
か細い声で、そんな、、、と壁がいった。
「解毒剤はあるんだろ」
「もちろん、ここにありますよ」
リョウの問い掛けに、治水は懐から小さな小瓶を取り出して見せた。中には薄紫色の薬液らしきものが詰まっていた。
「よこせ」
治水は丁寧な口調で断った。
「早くよこせ」
「結局貴方は馬鹿が付くほどお人好しなだけなのではありませんか? あの男は旧知の、それも恩義もそれなりにあるだろう貴方を謀ってこの場に連れてきたのですよ? そんなムシケラのような人間でも助けたいとそう仰るのですか?」
「どうするかは俺の自由だ。今はあれこれ考えてらんねえ」
うう、と壁の唸り声が弱く吹く風に散る。
リョウの顳かみが一度ぴくりと痙攣した。
「早くよこせ!」
こんな奴に恫喝など利かぬとわかっていながらリョウは怒鳴っていた。いくら裏切り者の壁とはいえ見捨てることなど矢張りできない。
「助けたいですか」
リョウは当然だと目で示した。
「ではその場で土下座なさい」
「あ?」
「地べたに伏して懇願なさいと私はいっている」
「この、、、」
治水は不適な笑みを口元に張り付かせたまま、リョウの様子を観察している。
リョウはゆっくりと片足ずつ折り、そして地面に両手を突いた。
「頼む。お願いだ。解毒剤を渡してくれ」
「口の利き方がなっていませんねえ。それとも妖怪には礼儀は不必要ですか」
そんなことは知らない。
リョウは内面の熱さを気取られぬよう、血の出るほど奥歯を噛みしめていた。
「ムシケラを助けたがる貴方は、正義の味方などでは決してなく、況してやヒトでもない。ええ。そうですね、」
屑です。
治水はリョウにそう声を落とした。
リョウは何も答えない。
治水は屈み、リョウの顔を覗き込むようにしてもう一度、
「屑です」
いった。
「屑でいい。だから、頼む。その薬を」
壁は短い呼吸を繰り返し、横様になったまま細かく痙攣していた。薬の効果が強く出ているのかも知れない。
「仕方ありませんね、私の負けです。貴方がまさかここまで感情を抑制できるとは計算外も甚だしい」
要望通りこれは差し上げますよといって、治水は小瓶をリョウの鼻面に差し出した。
リョウが見上げるのと同時に治水はゆっくりと立ち上がった。
リョウが手を差し出す。
治水が小瓶を差し出す。
「な」
小瓶は治水の手を離れ、砂礫混じりの地面に落ちた。
「ああ、申し訳ありません。手が滑りました」
治水はまったく悪びれずそういった。
リョウは慌ててその小瓶を拾おうと、
「!」
次の瞬間に治水は小瓶を踏み割り、剰え二度、三度と踏み躙りまでした。
「わははははは! 懇願で世の中巧くいくのなら、これほど楽なことはない!」
リョウは自分自身から理性が剥離していくのがはっきりとわかった。
殺す
咆哮し、小柄な男に襲い掛かる。
小男は手を挙げ、ぐるりに控えた狙撃班に合図を放った。
右肩に、
右胸に、
左大腿、
右頬、
弾が。
「おお。これはこれは」
治水は目を丸くしてリョウの様子を観察した。
リョウは銃弾の衝撃に体勢を崩しながらも傷口を数秒で塞ぎ、声にならぬ怒号を発しながら今度は右足に力を込めた。破裂。
右足が足首から先吹き飛んだ。
獣のような絶叫をまき散らしながら転がる。
驚異的な再生能力があるとはいえ、決して痛みがないわけではない。
瞬間的な痛みはヒトの感じるそれとまったく同じだ。
一瞬にして右足が吹き飛んだとしたら、人間はどうするのだろう。
転がる。
転がる。
転がる。
立ち上がった。
右足は骨格を取り戻し、筋繊維を張るのと同時にまるでミミズのように血管と神経を這わせながら、やがて皮膚に覆われた。
「素晴らしい! なんという再生速度!」
左腕。
股間。
治水は狙撃手に指示を出し、任意の箇所を破壊させてはその部位が再生する様に歓喜の声を上げた。
朦朧とする意識の中、壁マサルは横様にその様子を見、自分の罪深さをつくづく思い知る。
「リョウさん、もういい、、、に、、、逃げ、、、逃げて、、、」
リョウは激烈な痛みに気を失いそうになりながら、
「黙ってろカベ! 今助けてやる!」
「、、、ど、、、」
どうして俺なんかのために、、、
壁は片目から落涙した。
「それではミササギさん。頭を撃ったらどうなりますかね」
やめろ。
殺さないって約束だったじゃないか、、、
鼓膜をつんざく破裂音。
力なく立っていたリョウの頭が吹き飛び、ゆっくりと、ひどくゆっくりと上体を仰け反らせて倒れていく。
カベマサルの意識はそこで途切れた。
*
「頭蓋は当然に、脳のそのほとんどを粉微塵にされて、顔面で残った部位といえば下顎と舌の一部だけ。背中から後ろに倒れた時は流石に生命活動の停止を感じさせたが」
治水は手に持った書類を斜め読みしながら独り言を繋いでいる。
場所は彼の所有する病院の研究室。
「とはいえ、流石に脳の再生には時間がかかるらしい」
彼の前には鋼鉄のベッドに拘束されたリョウの姿があった。
身体の各所にチューブを繋がれている。
「最低限の生命維持をこなす細胞は比較的早く再生。が、全体的な再生となるとまだまだ時間が掛かる様子。それとも」
生命活動の根幹である頭脳が破壊されれば、再生機能にも何かしらの障害が生じるということだろうか。いずれ興味は尽きない。
治水の目は輝いている。
頭脳を完全破壊されて尚生命維持活動を停止しない高度生命体など、存在しない。
治水は口元を曲げながら書類を机に置き、メスを手に持った。
眠るリョウの右腕に刃先を置き、すうと引いた。
皮膚が裂け、白い筋繊維が見えた。溢れ出す血液。しかしその赤い液体も十を数える前に完全に止まった。
治水は血液を試験管に掬い取り、ついでに切り取った肉片をピンセットでつまみ取ると丁寧にガラス瓶に入れた。
リョウの意識はまだ戻っていない。
それでも彼の左腕の目玉群は執拗に治水の姿を追っている。
今意識が戻ったところで雁字搦めの状況、流石のリョウとて
「おい」
治水は一瞬どこからその音が発せられたのかわからなかった。
「おい」
再び。
緩慢にリョウの顔面を見る。まだ完全には再生し切っておらず、半分崩れている。
「目が覚めましたか」
「俺はどのくらい眠ってたんだ?」
「三日です」
「壁は?」
「他人の心配より、今ご自分が置かれている状況を」
「壁はッ!」
「きちんと解毒剤を与えておきましたよ。私とて医者の端くれ、無駄に命を奪うような行為はしたくありません」
「どこにいる」
「この病院内に。自由はありませんが、健康状態は良好です」
「本当だな」
「嘘を申し上げても仕方ないでしょう」
「ふん。吐き気がする」
リョウは口の端から涎を垂らし、非常に不明瞭な発音で言葉を重ねた。
栗色の髪の毛は半分以上生え揃っておらず、まるで歌舞伎の四谷怪談に出てくる於伊和のような容貌である。
「吐き気だけですか? 他に痛みなどがあれば仰って下さい」
「なにいってる。どうせてめえの研究とやらが完成すりゃ俺はお払い箱だろうが」
「ご明察」
治水はくるりと背を向けた。
「あ。忠告しときますが、無理矢理ベッドから動かないことです。今度は頭だけでなく全身が吹き飛びますよ。いくら貴方といえど全身木端微塵にされて再生できるかどうかは自信がないでしょう?」
どのみちここにいても死ぬんだろうがといったリョウの言葉を背に、治水は廊下に出た。
動こうが動くまいが待っているのが死であるならば、リョウなどは当然前者の死を選ぶ。
しかし、壁が生きているのなら助けなくてはなるまい。
そして、この病院は破壊すべきだ。
「、、、、、、」
不図リョウは、タミコはどうしているだろうかと思った。
今も天か地か、はたまたおいそれとは通じることのできぬ世界からこちら側の様子を見ているのか。
不幸を重ね自ら命を絶った女と、今の自分。どちらが不幸なのだろうか。
いや、そんなものは比べられまい。
不幸というなら転んだだけでも不幸だろうし、大金を手にしても幸運を感じぬこともある。そもそも幸福感などは自分の意識ひとつでいくらでも得られることができよう。
ただウルメタミコという女がいて、ミササギリョウはその女に積極的に関わり合いたいだけなのだ。
好意はある。
ただ恋愛感情とは違うようである。
タミコに顔も声も名も知らぬ母を幻視しているということはないだろうか。
単純にヒトや動物の名残がそうさせるものか。
それは今考えても詮のないことだろう。
今はまずこの状況から脱する方法を見つけなくては。
リョウは左腕の目玉で室内の様子を観察した。
サイコロの内部に作られたような無機質な部屋である。ど真ん中にリョウの拘束されているベッド。リョウに繋げられているチューブ類は途中でひとつに纏められ、円柱形の銀色の筒に流れ込んでいる。その真横に横幅の広い書き物机。ペン立てとノートパソコン。反対側の壁に配電盤か何かの鉄の扉が見えた。
吹き飛ぶというからには爆薬でもベッドに仕掛けられているのだろうか。その起動スイッチは九分九厘電動であるはずだ。であるならば停電にさせればどうにかなるのではないか。
リョウは浅い知恵でそう考え、一度思い付くとそれしかないような気がしてきた。それはとても危険な賭けであることに気付いていないのか、敢えて考えないようにしているのか、とにかく配電盤を凝視する。実際見ているのは左腕からだが、顔も自然とそちらに向くようになってしまっている。それは偏に、少しでも普通の人間らしくなろうとリョウなりに努力した結果であった。
遠い。
ざっと見積もって二メートルはあるだろうか。加えて腕も脚も頑丈に拘束されており、動く箇所といえば首が少しだけだ。
他の方法を考えたほうがいいのだろうか。
しかしいずれ時間はあるまい。
酷い目眩と吐き気は延々続いている。
先から強い睡魔にも襲われている。しかし眠っている時間はないだろう。次に目覚めた時どうなっているものか。
あるいは二度と目が覚めないかもしれない。
リョウは取り留めなく思案を重ねる。
喉も酷く渇いていた。
「反吐が出る」
なにもかも。
どくどくとチューブから薬液がリョウの体内に流れ込む。
次から次から、普通の人間であるならとっくに致死量に値する分量の麻酔薬が。
そしてリョウは、知らず眠りの世界に落ちていた。
ばたばたと跫が響く。
ふたり、三人、、、いやもっとか。
いそがし
いそがし
、、、電だ。自家発、、、る。
停
「停電?」
リョウは目を覚ました。
麻酔薬はいまだリョウの身体に流れ込んでいた。そのことから考えるに、外部の騒音で目が覚めたということは考え難い。即ち、リョウの再生回復の速度がだいぶ上がっているようだ。
「停電って聞こえたが」
どうやら電力供給が不安定なようだ。
あたりは全くの闇である。
時間感覚はまったくない。
試しに右手を動かしてみる。拘束していた革のベルトが若干緩くなっている。
これならば肩の関節を外せば抜けそうだと思うが早いか、リョウは若干半身をずらした。痛みを忘れる為に、どうしてこんなタイミング良く停電が起こったのだろうなどと考える。偶然にしては出来過ぎている。これもなんらかの罠と考えるべきか。罠なら罠で乗ってみなくては先には進むまい。
ぐうと唸ってリョウは右腕を引き抜いた。
左腕、両脚も抜く。
ベッドから離れれば吹き飛ぶと治水はいっていた。しかし今はその治水が駆け付ける前にここから離脱しなくてはならない。
意を決するいとまを自らに与えず、リョウは背中を鋼鉄の寝台から引き剥がした。咄嗟にドア側に転がるが、特別なんの反応もない。停電のお陰か、それとも狂い医者のただのはったりだったか。
「まあいい」
リョウは走り出した。
廊下はそれでも真闇ということはなかった。
非常灯や常夜灯の薄明かりの中、時折走る人影にリョウは身を隠しながら取り敢えずはと壁の存在を探した。おそらく自分と同じか、もっと劣悪な場所に監禁されているのに違いあるまい。
いや、もしかすると今の停電騒ぎ自体壁の齎したものであるかもしれない。
いずれ生きていれば、いいだけぶん殴ることもできる。
そんなことを考えながらリョウは病院を駆け巡る。
そういえばこの数カ月、リョウの身辺で起きた様々な出来事の、その発端も病院であった。
もっともそこは人気のない山間の廃病院であったが、そこでリョウはタミコやカベと出会い、そして自身のアイデンティティの原型のようなものを獲得したのだ。
めらり。
病院の中庭に火が見えた。
放火か事故か。それとも。
リョウは階上へ向かおうとしていた身体を翻し、二階下の地表を目指した。
もしかするとあの炎、タミコではあるまいか。
そう思っている。
その基準は量れぬが、ウルメタミコは悪人どもを地獄へ連れ去る。
牛と馬の頭を持つ鬼を従えて。
その彼女の乗る炎に包まれた車は、以前リョウが粉微塵に破壊した。しかし、もとより在り様が違うモノである。復元など案外容易いのかもしれない。
リョウは力一杯疾駆する。
炎の正体は火車ではないかもしれない。
早く中庭に。
転がるようにしてリョウが中庭に飛び出るのと、病院中庭に別棟として建てられていた自家発電室が爆発するのはほぼ同時だった。
炎に照らされるいくつかの焼死体。
「おい、、、」
リョウは呟いた。
そして中庭にいたのはリョウの直感通り、いや、期待通り、
「タミ、、、コ」
火車に乗った潤目民子であった。
とても。
タミコは涼やかな声で話しはじめる。
「とても悪い。悪い気配が」
そして炎に包まれた車に乗った女は、とても冷たい目線を燃え崩れる建物からすうとリョウに移した。
その顔は間違いなく潤目民子であるが、目が、目に、まるで生気がない。
タミコの両脇を固めるように近侍する、牛頭、馬頭。
「悪い気配?」
「そう」
「あの焼けた死体は」
「私の往く途を邪魔した者たち」
「だから燃やしたのか」
「ええ」
屈託のない笑みとはああいうものをいうのだろう。
不覚にもリョウは一瞬だけであるがタミコのその笑顔に見惚れた。そして次の瞬間にはおのれに対する物凄まじい嫌悪寒に身震いした。
「リョウ」
「なんだ」
「この病院は非常に良くないところです」
「知ってる」
知っているが、タミコの存在を放置していいものではない。
屋上に人影が見える。
あれは。
壁か?
いや、チスイ。
「この病院をどうする気だ」
「破壊します」
「どうして俺を助けた。停電を起こしたのはタミコだよな」
「貴方は悪ではない」
「それはお前の基準だろう?」
「当然です。私の基準。しかしこの世にそれ以外の基準が必要ですか?」
「え。あ」
リョウは返答に詰まった。法などといった答えはあまりにもこの場にそぐわないように思えたからだ。
タミコは指先を五階建ての建物に向けた。
がらりと炎の車の車輪が廻る。
「まだ中には壁が」
「壁マサルですか」
あれは悪です。タミコは前に落とすようにそういった。
話し合いは無意味だろう。
既にタミコに魂半分呑み込まれているリョウは彼女に危害を加えることなど到底できず、くるりと転身するとまた病院の中へと走り出した。
身体のすべてを、目に入った物すべてを使って、ドアを窓を壊し、声の限りに叫ぶ。
逃げろ! ここから逃げ出せ!
リョウの脇を擦り抜けて、人間と、治水が連れて来たのかはたまた作出したのか判然としない異形のモノたちが、まるで沈没する船から逃げ出す鼠の如く走り抜けていく。
「カベ! カベマサル!」
リョウは血塗れになりながらドアを窓を破壊する。
怒りにも似た興奮に身を任せ、血と汗をまき散らしながら正義の味方を標榜している異形の男は叫び続ける。
地響きが起こり、天井から細かい砂礫が舞い落ちてきた。
爆発音。
叫喚。
炎。
リョウは目のひとつで中庭の様子を窺った。
出口から逃げ出す人々が出ていく端から燃やされていく。
「タミコ、やりすぎだ、、、」
まるで話に聞く地獄のような有様だった。
そしてリョウはこの夜もっとも奇怪な邂逅を果たす。
薄汚れた四十絡みの男だった。
その干し魚のような男は、監禁されていた部屋の鉄扉が壊されたにも関わらず外へ出ようともせず、ただリョウの様を眺めていた。
時折口を開け、手を伸ばし、
「リョウ」
リョウはびたりと動きを止めた。
ぼう、と窓の外に大きな火柱が上がり、あたりが赤々と染まった。
「リョウだろう」
瞬時にしてその男が何者かを悟ったリョウは脱力感いっぱいにいった。
「なんで、、、なんでこんなところに」
確認せずとも直感で知れる、探し求めていた父だ。
父はがさがさに掠れた声でいった。
「私にもわからない。数年前に突然拉致されて、そのままここに」
治水顎人とは、世に存在する妖怪を分析研究し、そして自らを妖怪化させたいと願っている男である。資金力も何らかの権力もあるらしきあの小男に、実子とまともに暮らすことすら放棄した男ひとりの自由を奪うことなど造作もないことかもしれない。
それにしてもリョウにとっては何とも皮肉な展開だった。
しかし今はとにかく時間がない。
早く出ようとリョウは物心ついてから初めて出会う父親に向かって手を伸ばした。
その時。
一段と大きな地響きがして、廊下が大きく割れた。あまりの炎の力に、脆くも床が崩れ去ったようだ。
「早くこっちに!」
リョウは叫んだ。
炎にしっかりと照らしだされた父の顔は、隻眼だった。
「親父!」
手を伸ばす。届きはしない。
「お前の!」
「あ?」
「お前の目は、我等の」
「聞こえねえ!」
「そのひとつひとつ、すべてが我等一族のものだ!」
「なに?」
「お前が生まれた時、お前には目玉がひとつもなかった! お前は我等墓を守る一族の最後のひとり! 滅びゆくしかなかった我等の仲間がふたつの穴しかなかったお前に皆ひとつずつ目玉を譲った! もちろんその中には私の目も含まれている!」
「話は後だ! 早く!」
「我等一族の血は絶やしてはならない! 老いたる仲間は皆お前にすべてを託したのだ!」
「聞こえねえ! 早くしろ!」
更に手を伸ばす、しかし父親はわが子のその手を握ろうとするのを既に諦めている。
「いいか、リョウ! 我等一族は生き続けなくてはならない! 生き続けることが即ち墓を守るということなのだ!」
「墓? なんだって?」
がらがら。
「糞! 崩れる!」
「リョウ!」
「親父!」
がらがらがらがら。
「親父ィ!」
病院の天井が床が崩れる。
父はふ、と憂いと喜びと諦めの綯い交ぜになった表情を見せ、酷く小さな声で呟いた。
「大きくなったな、霊」
「親父ィィィ!」
その叫びを最後に、病院は崩壊した。
リョウが気を取り戻した時には夜は明けていた。
どこをどう逃げたものか、リョウは病院から離れた小高い丘の上にいた。
崩れ去った病院には消防車やパトカーが所狭しと停車している。
夥しい数の人間が忙しなく動き回っているのが見える。
リョウは呆然とその様子を見ている。
勿論まわりには父もタミコもカベも、そしてチスイの姿も見えない。
病院の崩壊に巻き込まれたものか、炎にまかれたものか。
うまく逃げおおせていてくれと願うのは奇跡を祈っているようなものだろうか。
結局なにもできなかった。
リョウは力一杯地面を殴りつけた。
自分は普通とは違う故、どこかなんでもできると慢心していた。優も劣も人並み以上であるならば、人とは違う生き方ができると、どこかでそう信じていた。
それもすべて目の前で崩れ去った。
涙も出ない。
「こんな、、、こんなのってあるか」
左腕に疼痛を感じて目をやると、目玉がひとつ潰れていた。父親がいっていた、イチゾクのその誰かの目。顔も名前も知らぬ。
いや、父親の目玉なのかもしれない。
リョウは幽鬼の如く立ち上がった。
生きる意味が消え去ってしまった、そんな喪失感に気を失いそうになりながらも。
また、先の見えない地平を歩かねばならなくなった。
歩けるのだろうか。
しかし自分は守人であるという。
いったい何から何を守れというのか。墓とはなんだ。
眼前にあるのは閉ざされた世界か。
それでも多分、
歩いていくしかない。
歩いていくしか。
それがおそらく、陵霊であり続けるということだろう。
リョウは一歩踏み出した。
今は見失った繋がりを求めて。
ゲオマ 〜第一部〜 完