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ゲオマ  作者: 偽薬
12/13

毛羽毛現 (四)

 人外に化しているならば。

 野に放つのが危険な存在に成り下がっているとしたら。

 おそらく現今のこの国で、そうした存在に歯止めを掛けられるのは自分だけなのだろう。

 そう思い込むのは却って危険なのは理解しているが、多少の自覚がなくては流石のリョウとて身がもたない。

 決して正義の味方たらんとしているつもりはない。ただ、そうした形でリョウはリョウなりに世間との接点を見出し、なんらかの因果があってこの世に生を受けただろう自分の精神との折り合いをつけているのだ。

 否。

 この際思い切って正義の味方であると、自分にいい聞かせるのもいいかも知れぬ。

 正義とは何ぞやという根本論を他者と交わす気は毛頭ないが、おそらくリョウの倫理観は世間のそれから大きく逸脱はしていまい。つまりはリョウの為す行動イコール、正義であるといえなくもない。

 そのような言葉上の摺り替えになんの意味があるのかといえば、リョウのような係累のいない世になにひとつよすがのない者は、多く、よりひとつでも多く、自分がこの世に存在する理由を欲しがるものだ。

 それでもいくら雑多に種々寄せ集めたところで、親がいる、子がいる、そうした単純且つ堅固な繋がりには所詮勝てないものでもある。


 いずれヒトを超えた力を有した身。

 指針をはっきり定めねば自分だけでなく周囲も破滅に導くことになるだろう。

 リョウの周囲とは未だ有象無象ではあるが。


 そしてリョウはタミコを思う。

 不幸というならあまりにも不幸な宿命を負った女。今は死に、そしてこの世とあの世の境を彷徨しつづけている、

 はずだ。

「いや。あれはあれで既に妖怪か」

 考えてみれば自分と関わった者はタミコにしてもトモにしても皆、ヒトであることを捨てさせられている。原因は自分にはないにせよ、なんらかのきっかけは作っているのかもしれぬと薄く自戒した。

 全く以てすべてが曖昧だ。

 だがそういうものだろう。

 今はただ助けるべき者を、

「救え」

 リョウは左腕、そして右の拳を見る。

「俺にはそれができる」

 エンジンを掛けた。


 ヒトならぬモノがこうして悩み、歪んだヒトを救おうと奔走している。


 その身は驚嘆すべき再生能力に覆われ、

 左腕に闇夜を見通す無数の眼球を備え、

 右手に先達から授けられた大刀を埋め、

 リョウは夜の街を疾走する。



 その後数日間付近住民が何物かに襲われるという事件が続発した。

 目撃者や軽傷で済んだ被害者の弁によれば、襲い掛かってきたのは、強いていうなら大型犬のようなものらしい。しかし他に近しい生物が思い付かない故の発言ではあった。

 まさかこの土地のような、山も、林すらない場所に熊が出没するとは思えない。

 近くの動物園から大型獣が逃げ出したという話もない。

 被害件数が日に日に増すに従い、警察やその他様々な団体に因る大規模な捜索が何度も行われたが謎の生き物の行方はおろか、その正体すら掴めなかった。

 ある者はそれを未知の肉食獣であるとし、またある者は宇宙から来たのだといい、子供の間では妖怪とされた。そしていつの間にか、二流タブロイド紙の釣り書きであったトオリモノという呼称で統一された。

 それもまた妖怪の名である。

 真実妖怪であるならばいったい誰が裁くというのだろう。

 いや、ヒトでないならば裁く必要はない。

 未確認動物であれ妖怪であれ人間を害するものは押し並べて敵である。手に負えないようならば躊躇なく殺すだけだ。

 だからリョウは急がねばならない。

 リョウは拾った新聞で情報を集め、なんとかトモの行方を探そうとしている。場当たり的に

通行人を襲っているのではないとしたら、なんらかの共通点が被害者にあるのではないかと、そう思っている。

 そういえば壁も被害者だな。リョウは軽く顎先に手を添えた。

 壁は死んでも殺されてもしようのない男だ。自分で病院まで運んでおきながらそんな風に思う。そんな男でも目の前でむざむざ殺させるようなことはさせないだけだ。

 共通点。

 久し振りに日中街中に出てみるべきか。穿たれた両目はサングラスででも隠し、腕は上着で隠せばいい。襟ぐりの大きめな服を着れば鎖骨に付いたひとつで視界は確保できよう。

 気は乗らないが仕方あるまい。


 そしてリョウは数年振りに昼日中往来を行き交う人々でごった返す街の中心地を歩いた。途中トオリモノ被害のあった公園や踏切、路地裏などを見て回ったが然して収穫のないままやがて夕暮れを迎えた。

 左右をブロック塀に挟まれた路地裏の小道である。

 今では珍しい木製の電柱に巻き付けられた琺瑯加工の看板。酷く錆びていて一体なにが描かれているのか皆目わからない。

 人通りはない。

 抜ける風は冷たい。

 時間帯を考えれば買い物帰りの主婦だの、帰宅途中の勤め人だの歩いていてもよさそうなものだが、あたりに人影はおろか声も物音もない。大きな通りが隣接しているため無音ということはないが、却って遠くの微かな音の存在がこの路地の静寂を際立たせているようだ。

 ブロック塀の向こうは民家だろうか。

 背の高い塀の向こうには、更に背の高い樹木が見える。葉は枯れ果て風の吹くたびに地面へと落ちていく。

 墓か。

 リョウは鹿爪らしい顔をして、そんなことを考え、そして歩みを止めた。サイズの大きな革のブーツが落ち葉を踏む。

「おい」

 上着のポケットから壁からくすねた煙草を取り出す。生憎中はもう空だった。

「この道に入った時からこそこそ尾けてきてたな」

 煙草の袋を捻り潰し、また元のポケットに突っ込むと、リョウは後ろを振り返った。

 人影があった。

 リョウは酷く面倒臭そうに上着を脱ぎ捨てた。

 前髪の鬱陶しい、青白い顔をした小男だった。

 気障たらしく口元に張り付いた薄笑みがなんともリョウを不快にさせる。

「なんの用だ」

「探しました。大いに」

 ミササギリョウさん。

 男は実に見た目に似つかわしい神経質そうな声でそういうと、小さく一歩リョウとの間合いを詰めた。

「誰だ、あんた」

「私、治水顎人と申します」

「チスイ? 知らないね」

「そうでしょうとも。私もあなたのことはあまり知らない。ただとある方から、あなたならばウルメタミコさんの行方をご存じかもしれないと伺ったもので」

「潤目民子は知ってるが、行方は知らないな。こっちが聞きたいくらいだ」

 賺した口調ではあったが、それはリョウの本心でもある。行方を知り、あの薄倖の女と再会してどうするつもりかまでは考えていない。

 その時ちょうど、リョウの頭上にある街灯に明かりが灯った。そして薄闇にまみれていた異形なる肉体があらわになった。

「おお」

 治水顎人はそんな感嘆符を口にした。リョウの半身を目の当たりにし驚いているのは確かなようだが、若干の喜悦が籠った声ではあった。

 どうにも気味の悪い。リョウは眉根を寄せた。

「素晴らしいですね」

「なにがだ」

「その、身体がですよ」

「気持ち悪いぞ、お前」

 治水はリョウの全身、特に無数に目玉の付着した左腕を食い入るように見つめている。口は明らかに笑い、目には潤色すら窺えた。

 極めて変態だろうか。リョウは冗談というわけでもなくそう思った。

「素晴らしい。羨ましいですよ、実に」

「羨ましいだと?」

 いってる意味がわからねえとリョウは軽い怒気を絡ませて返す。

 治水はまるで鉄面皮で、軽く肩を揺すった。笑っているらしい。

「私はね、ミササギさん。私は」

 妖怪になりたいのですよ。

 リョウはそれは不快な顔をした。

「聞いたところによると、ウルメタミコさんは半年ほど前までは普通の人間だったそうじゃないですか」

「だからお前、タミを探してるのか?」

「そうです。私は是非共ウルメタミコさんにお話をお伺いしたい」

「妖怪になる方法でも聞くつもりか」

 仰る通りと治水はやけにはっきりとした発音でいった。リョウは言葉を重ねるたびに不快感が増している。

「失礼ですが、ミササギさんはヒトでいらっしゃる?」

「いう必要はねえな。ヒトだろうとなんだろうと、俺は俺だ」

「そうですか。残念ながら私は人間なもので」

「残念?」

「はい」

「ふん。どうして妖怪なんぞに憧れる」

「正確にいえば、私は長生、そして老いることのない肉体が欲しいのです」

「ふん、随分わかり易い理由だな」

 その願望は真っ当だといって、リョウは踵を返した。治水にはもう用はないといわんばかりの所作である。しかし治水のほうはそうはいかないようで、

「鳥辺トモをお探しなのでしょう?」

 わざと一段声の調子を落として、リョウの広い背中にそんな言葉を投げた。

 リョウは振り向きもせず、後ろ手に治水の胸ぐらを掴んだ。よく届いたものだ。

「タミの行方は知らねえ。トリベトモのことを教えろ」

「それは横暴な」

 絹製の高級ネクタイを鷲掴みにされても治水は眉ひとつ動かさない。

「俺はお前と取り引きするつもりはない」

「本当にウルメタミコの行方をご存じない?」

「なんだと」

「いえ。なにかしらの情があって、その所在を口にするのを憚られているのではと」

 するとリョウは鼻を鳴らして治水から手を離した。

「もういい、失せろ。鳥辺はひとりで探す」

 治水はどこか楽しそうに歪んだネクタイを直すと、

「トリベトモは妖怪になったのです」

 と、矢張り楽しそうにいった。

 そんなことはリョウとて知っている。あんな状態の人間はいまい。

「お前、その原因知ってるのか」

「生憎それは存じ上げません」

「ふん。だったら鳥辺に聞けばいい、妖怪のなり方をよ」

 すると治水は厭ですよ、あんなみっともない妖怪、私の趣味ではないですとリョウあたりにはわからないことをいい、続けて、

「どうにもトリベトモは、彼女なりの断罪行動を遂行しているようですね。私の調べた限り彼女に襲われた者たちの共通点は、襲われる前に何らかの社会倫理に反した行動をとったという点のみでした。因に彼女が妖怪と化して、」

 重ねて因みにといって、私は妖怪と化すことを異化と呼んでおりますと挟む。

「異化して最初に襲ったのは、カベマサル氏」

 あれが最初だったかとリョウは声に出さず思った。

「私はカベマサル氏がどのような罪を犯したのかは知りません。しかし良からぬ噂の絶えない方ですので」

「まあな。あいつはいいとこもあるが、基本的には屑だ」

「それで、カベマサル氏の次に襲われたのが満員電車で痴漢行為をした男。その次が万引きした少年。そして恐喝した男。それから暴行した少女。どこから監視しているものか、彼女は罪を犯したその日のうちに罪を犯した者を処断しているのです」

「なるほどな」

 盲滅法歩き回っているよりは、少しは近付けたようだ。リョウはこの不快な出会いも満更無駄ではなかったと思っている。それを見透かしたのか治水はにこりと笑った。

「もしトリベトモを見つけて、どうなさるおつもりですか」

「手に負えないようなら斬る、、、か」

 斬れるか、俺に。リョウは静かに自問する。

「何故です。世の中の汚れを少し雪いでいるのでしょう? 放って置いても良さそうに思いますが」

「あの女が望んで妖怪になったとは思えないからだ。だったら」

 救うしかねえだろ。リョウは背中でそういって歩き出す。

「救うというのは、殺すということで?」

 そう声を投げられ、リョウは考える。本当に自分はどうするつもりなのかと。ことと場合によっては見つけ出してから考える暇はない。

「トモが人間を害してるなら。そしてあいつの意思が」

「意思が。つまりは人間トリベトモを維持しているのか、はたまた心の芯から異化しているのか。そういうことですか? もし心だけはヒトであるならば?」

「ヒトは斬らない」

「それは身も心も妖怪だとしたらお斬りになると、そういう意味ですか?」

 いや。リョウは奥歯を喰いしばり、顎を動かすことなく続けた。

「ヒトに仇為す妖怪だけだ」

「あなたは人間の味方ですか」

「味方も糞もあるか。俺がそう決めただけだ」

 そしてリョウは、もう沢山といわんばかりにそれは大きな溜め息を落とすと、相変わらず振り向きもせずに後ろに立つ小男にいった。

「悪いことはいわない。妖怪になるなんて馬鹿げた夢は捨てろ。どうしてヒトの身で生を享けて、人目を憚る存在になりたがる。やめることだ」

 リョウは上着を着た。

 治水は喜々とした声で返す。

「どうして人目を憚らねばならないのです。私がもし晴れて異化できたとしたなら、堂々と、今より更に堂々と生きてみせますよ」

 リョウは最早聞いてはいない。一刻も早くトモを見つけなくてはと先を急ぐのみ。

 その背に向かって、治水顎人はいう。

「私は人間を超えたいのです」


 リョウは駅前の噴水のある広場にいる。

 陽はすっかり落ち、あたりは夜となっていたが、流石に駅前だけあって人通りは多い。

 リョウは行き交う人々を眺めつつ、目玉の幾つかを露出させて見られるものすべてを具に観察していた。もし治水のいったことが的を射ているとしたなら、いったいいつどこで追跡すべき対象が現れるかわからないからだ。

 ガードレールに腰掛け、生け垣に半身を埋めて、それでも目玉だけは忙しなく周囲の様子を窺う。その様をまじと見れば他人と異質であることは容易に知れるが、特に目立つ格好をしているわけでも奇矯な行動をとっているわけでもないリョウが目立つことはなかった。

 否、たとえ彼の過剰な肉体に気付いた者があったのだとしても無関心を装って素通りしていくことだろう。都市部からは離れているとはいえ、この土地の住民もまたそうした都会人気質は多分に有しているはずだ。

 リョウにしてみればその無関心は決して悪だとは思わない。

 明らかに見て見ぬ振りをされたことなど過去何度もあるが、それでも執拗に自分の身体のことを言及してくる輩よりはマシだと思う時があるからだ。

 下り電車が到着したようで駅出入り口から沢山の人が溢れ出てきた。

 一瞬どこかで大きな声が聞こえたが、それはただの酔っ払いだった。

 リョウは目線をアーケード入り口に移す。白い横断幕に、路上喫煙禁止の青文字。

 自分の感覚がおかしいのでなければとリョウは考える。同時に路上喫煙と殺人が起こった場合、つまり軽重が同列ではない(と思われる)罪が同時刻に発生した場合、トモはいったいどちらに重きを置くのだろうか。

 一発小突かれた仕返しに三発ぶん殴ったら、それはいったいどっちのほうが悪いのだろう。

 リョウは軽く身震いした。

 結局断罪行動という言葉にリョウ自身も騙されていたのだ。たとえ襲う対象が悪事を為した者であろうとも、その判断基準は突き詰めればトモの中にしかない。今はまだいい。しかしその断罪論理の破綻は遠からず訪れるだろう。

 そうなる前に止めねばならぬ。

 トモと浅からぬ縁がある者として。

 リョウは試しに往来のど真ん中で煙草を吸っている数人の若い男たちを殴り飛ばした。男らは当然物凄い勢いで食って掛かってきたがその一人一人をまた丁寧に殴り飛ばす。そしてついでに酷い悪態をついた一人の腹を蹴り上げた。

 まだ足りないな。

 唸り声を上げる男の顔面を蹴る。

 重ねて唾を吐き掛けようとして、それはやめた。

 さて。

 この様子を妖怪のトモが見ていたとして、果たして。

 そう、リョウは自分を襲わせようとしている。

 結局それが一番手っ取り早いように思ったのだ。

 ただ、トモにトモの意識が残っているのなら、リョウに襲い掛かるような愚挙はしないだろう。返り討ちにあうのが目に見えている。

 リョウは相手が現れ易いよう、この時間帯ではもう人通りの少ない公園へと向かった。

 池だか沼だかわからない大きな水溜まりの外周に沿って作られた遊歩道らしきものをそぞろ歩き、


 壁にトドメを刺しに行っているのかもな。


 それはそれで壁マサルの寿命だろうと、そこは冷淡に思う。


 遠くで犬が吠えている。


 夜空の雲の流れが早い。

 上空は風が強いようだ。

 風は地上まで降りてくるものか。


 そして不意に、鳥辺トモならぬ鳥辺トモが現れた。

 正確には、リョウの頭上、常緑樹の枝間に潜む化け物の姿をリョウの目玉のひとつが発見した。

 リョウは素知らぬ振りで相手の出方を窺う。

 ここに来てまだ迷っている。

 本当にトモの心が取り戻せない状況だったとしたなら。

 リョウは我が右手を見る。

 いったい妖怪とはなんだろう。チスイが異化と呼んだ、そんな言葉上の分類はどうでもいいとしても。


 ヒトとモノの違いはどこなのだろうか。


 明らかな異形ではない、形はヒトであったとして。

 いや。

 見た目の問題ではない。

 そうでなくてはリョウは、自分で自分を滅さなくてはならなくなるかもしれぬ。


 トモはヒトを害した。それは揺るぎない事実だ。


 トモの芯がヒトではないのなら。


 しかしその判断は誰がする。


 迷い続ける正義の味方に妖怪は容赦なく襲い掛かる。突然ざざと音がして、リョウの頭上の枝葉が揺れた。リョウは咄嗟に前に飛ぶ。同時に背後でどさりと音がして、リョウは振り返るまでもなくそれが大きな毛の固まりであると判断した。


 異化鳥辺トモ。


 リョウは何も考えずとにかくトモの名を呼んだ。案の定というべきか返事はなく、ただざわざわとした落ち着きのない感覚が返ってくるのみだった。

 リョウは体勢を立て直し埃を大雑把に払うと、異形と向き合った。

 形こそヒトガタではあるが、はたして目の前で蠢くアレはヒトと呼べるものなのだろうか。リョウはしつこく幾度も幾度も考える。判断違いは決して許されるものではない。

 リョウは間合いを空け、じっと目の前の異形を見た。

 分厚い毛の中に鳥辺トモは取り込まれ操られているものか、それとも異形の威を借り得手勝手な正義を行使しているのか。その見極めをする方法は何かないか。


 得手勝手な正義は俺も一緒か。


 リョウは強く口元を引き結んだ。

 そもそもが、微罪であろうと罪を犯した者を襲っている点を考えればトモの意識が強く反映されているようにも思える。

 異形は半歩リョウとの間を詰めた。

 リョウは若干気後れしている。迷いから一向脱し得ず棚上げすることも吹っ切ることもできずにいる。そうした揺らぎはこの場合即命の危険に繋がる可能性も大いにあるというのに。

「トリベトモ、なんだよな」

 今は問うことしかできぬ。

 返答なのかどうなのか、異形は男とも女とも、またヒトともモノとも付かない声でぐうとだけ唸った。

「お前は自分の意思でヒトを襲っているのか?」

 異形はまた半歩にじり寄る。リョウは右拳を軽く握り締め、爪先に力を込めた。

「これ以上ヒトを襲うようなら俺はお前を止めないとならなくなる」

 ぐう。ぐふ。

「正直いって、小器用に止めることなどできないかもしれない」

 ぐふぅ。

 いってる意味わかるかと繋ぐが明確な返事はない。時折吹き付ける風に獣毛の如き毛が揺れるのみ。


 そして異形はリョウに襲い掛かってきた。


 リョウは寸でのところで躱し、左腕で毛の固まりをしっかりと見た。

 一瞬のことだったが、毛と毛の隙間に人間の顔らしきものが見えた。

 目。

 女の目。

 少し吊り上がった、切れ長の。

 記憶にある鳥辺トモの目に間違いはなく、そしてその目は充血し、潤んでいたように

 泣いている?

 それならば。

 異形の第二撃。

 頭足類の触腕のように毛の束を伸ばして、リョウの首根っこを掴もうとしてくる。実に単純に縊り殺すつもりか。

 執拗にリョウの首を狙う毛の束を斬って捨てようにも、いったいどこまでが妖怪でどこからがトモなのかがわからない。リョウは結局なんの良策も思い付かないまま徒に攻撃を躱し続けるしかなかった。

 走り、飛び、体を入れ替えながら毛の隙間に垣間見たトモの顔を探す。

 と。

「なんだ? なにをいってる?」

 トモの口が見えた。一度二度開閉し、確かに何事かいおうとしていたようだったが直ぐさま毛に覆われ、ぐうといった唸りに変わった。

 トモがなにを伝えようとしていたかはわからないが、それでも、トモの行動を疎外したということは毛とトモの意思は別のところにあるということだ。つまりトモは、毛の異形にその身を操られているということ。

 これでリョウのすべきことははっきりした。

 そして、リョウの行動が益々制限されたことになる。

 しかし、トモを取り込むことにいったい何の意味がある。

 リョウは単純にはいかない苛立ちから、無意味とわかっていて叫んでいた。

 耳の隅に笑い声が聞こえたような気がした。

「トリベを巻き込まないで、ヒトを襲いてえんなら自力でやりゃいいだろッ」

 遊歩道に蟠っていた異形は今度ははっきりと応えた。

「此の者は幼き頃より人を呪う」

「呪う? トリベがか。だとしてもお前になんの関係がある」

「それほどに人を呪いたくば大いに呪えと力を貸した」

「つまりはこの近辺で起こった事件は、トリベの意思だったってことか?」

 蟠りはひょいと立ち上がり、ゆっくりと元のようなヒトガタを形成すると、ずるりと動き、ちょうどトモの胸のあるあたりに大きな目玉をふたつ見せた。それがおそらく異形の本来の顔なのだ。

「私は軒下に巣食い、時折暇つぶしに人間を病にかける唯それだけの存在だった。唯それだけで今まで過ごしてきた」

 ずるり。

 毛の顔が動く。隙間隙間にトモが見える。

「だったらこの先もそうしてろ。何をのこのこ出張ってきてやがる」

「ふん。座興よ。この先延々と続く我が生涯の、ほんの一瞬のな」

「もう十分愉しんだろ」

「それは私が決めること。だいたい貴様、見たところ我等と近しい存在だろうに何を人の側に立って物をいう」

「どうでもいいぜ、そんなことは。それこそ」

 リョウは仁王立ちになった。

「俺の決めることだ」

 異形は獣のような声で大笑した。

「私はこの者が気に入ったのだ。離れるつもりはない」

「そうかい」

 リョウは時機を計っている。

 相手は異形だが、こうして会話をし笑い声を発することができるのであれば自分の着想が活かせそうだと思っている。

 巧くいく算段はない。

 取り込まれてしまったトモに、どのくらいの体力が残っているのかもわからない。

 しかしこのまま放っておくわけにはいかないだろう。

 後は意を決するのみである。

「立ち去るが良い」

「無理だな。俺はその女に用がある」

「邪魔をするな」

 ずるっ。

 また毛が動き、トモの口元が露出した。

 も、、、

 もう厭

 それはトモの無声の悲鳴だった。

「なにをいう。お前が望むように私は力を貸しただけだろう」

 私から離れて

「勝手なことを。私はまだ愉しみ足りぬよ」

 これでトモの意思確認は完了した。

 あとはリョウの着想が思い通りいくかどうかだ。巧くいく保証などどこにもなく、そして裏目に出た場合を考えたときに、トモの身の危険が大いに憂慮される。

 毛の固まりはずるりと一歩リョウとの間合いを詰めた。

 迷っている時間はない。

 リョウは駆け出した。

 結局はそんなものだ。

 長い思案を繰り返しても、結局一瞬の判断に身を委ねる。

 妖怪はリョウを追った。

 リョウは公園中央の池の前に辿り着くとぴたりと立ち止まった。妖怪に背を向けているがその姿はしっかりと視界に捉えている。

 毛の妖怪は舞い上がり、宙空からリョウの背目掛け飛び掛かった。リョウは右腕に仕込んだ刀を振り上げた。

「これぐらい躱せるだろうッ」

 リョウのその言葉通り妖怪は斬撃をすんでのところで躱した。しかしそのせいでバランスを崩し、そのまま池へと飛び込んだ。リョウは透かさず異形を追い、自らも池に飛び込むと水面に顔を出した妖怪を押さえ付け渾身の力を込め再び水に沈めた。もがく妖怪はリョウの全身に毛を絡ませ必死の抵抗を見せる。

「ば、、馬鹿者! なにをするッ、、、私だけでなくこの女も巻き添えに殺す気か!」

 その問いにリョウは答えない。

 矢張り妖怪といえど呼吸ができないのは苦しいらしい。ならばその辺の犬や猫と変わらぬ。

 妖怪は更に毛をリョウの全身に絡み付かせ、満身の力を込めた。ばきばきとリョウの骨が折れる。しかしリョウは眉ひとつ動かさず、一切力を緩めることはない。遂に毛は、リョウの右拳からはみ出た刀もその根元から折ってしまった。

 それでもリョウは両腕に力を込め続ける。

 獣の彷徨のはざまに、か弱い女の悲鳴のようなものが混じる。

 リョウは動じない。

 ここまできて迷ってはいられなかった。

 ざくり。

 リョウの刀を奪い取った妖怪はそれを振り回しリョウの身体を散々に切り刻んだ。派手な水飛沫に混じってあたりに血と肉片が飛び散った。しかしリョウは動じない。痛みはあるが、傷はものの数秒で塞がってしまう。右の耳や下顎も一度は千切れ飛んだがすぐに再生した。

 無数の目は充血し、顔面は朱に染まり、全身は細かく震えている。


「トリベから離れろォォォォォォっ!」


 一瞬妖怪の力が弱まった。

 リョウはそれを見逃さずトモと妖怪を引き剥がし、トモの身体を左腕一本で掲げ上げ、右腕で尚も毛の固まりを更に水の奥へ奥へ、

 奥へ、


 ごぼり。

 葉の腐敗臭とともに大きな泡沫ひとつ。

 それでもリョウは力を緩めない。

 左腕のトモも動きはしない。

 リョウはトモの身を肩に担ぐと、それから更に数分もの間妖怪を水に沈め続け、やがて右腕の力を抜いた。

 身体から湯気が上がっている。

 リョウは一度トモを池の端に置き、水底から毛の妖怪を引き上げるとなんの躊躇もなくその身をふたつに引き千切った。

 急ぎトモに寄り、呼吸の有無を確認する。

 トモもまた呼吸を停止していた。

 リョウは肺一杯に夜気を吸い込みトモに流し込んだ。

 必死に息を入れながら頭の隅に去来するのは、矢張りこれで良かったのかということ。自分が関わらなければ、最悪トモは命を落とすような危険には陥らなかったのではないか。


 頼む、、、息を


 息を


 最早懇願に近く。


 トモの胸が一度大きく膨らんで、そして彼女は大量の水を吐き出した。

 リョウは泣いて喜ぶかわりに、軽く腰を抜かしていた。



 *


「ほう。怒りがね」

「まあ私見ですが、おそらくは」

「実に面白い。実にいい情報です」

「しかし自分も驚きましたな、たまたま入院したところがあなたの病院だったなんて」

「それにしてもミササギリョウ、研究のし甲斐がありそうです」

「先生のご専門は? まさか妖怪学という分野があるとは思えませんが」

「はは。妖怪といえど発見され解明され分類されれば、ひとつの生物ですよ。普段は癌細胞の研究をしております」

「よくはわかりませんが。ミササギリョウ、面白いでしょう?」

「はい、実に。彼の驚異的な再生能力は是非共解明しなくてはなりません」

「はい。それでその、その研究が結実した暁には」

「ご安心を。今後の協力次第ですが、報酬はいい値をお支払いしますよ」

「ありがたい話で」


「なに。持ちつ持たれつですよ、壁マサルさん」




 毛羽毛現編 完

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