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ゲオマ  作者: 偽薬
11/13

毛羽毛現 (三)

「あんたの所属してた事務所とか知り合いぐらいまだいるでしょ」

 本気なのだろうかこの女。

 人生経験の豊富ではないトモにはその判別はつかない。普通の人はこういう場合二つ返事で教えてしまうものなのだろうかと本気で悩んでいる。一度話の内容を咀嚼しないとその是非がつけられない。即答できない性分なのだ。

 三十秒は間を置いて、トモはいう。

「無理ですよ、それは」

 非常識な人間に対処する方法をトモはまだ自分の中に確立できていない。

 カシマは何ら気にするものなどないようで、頭固えなと乱暴にいった。他人にいわれるまでもなく自分は石頭であると、それはトモも自覚している。

「いいじゃん、あんたに教えてもらったとかいわないしさ」

「、、、いえ、そういうことじゃなく」

 最早トモはカシマの目を見ることができない。理不尽なゴリ押しをしてきているのはカシマのほうであり、トモには一切引け目を感じるところはないというのに。

 それはもしかすると、トモ自身のコンプレックスからくるものかも知れぬ。

 カシマは美しい女だ。

 そしてトモは自分を醜い女だと思っている。その覚える必要のない歪んだ劣等感が裏返り、カシマの意図せぬところで勝手にトモには斥力となり、結局トモはカシマから目を逸らしてしまう。

 カシマは鼻白んだような声を上げて、長い身体を仰け反らせた。

「、、、私が事務所紹介しなくても、どうにかなりますよ」

 その後にお綺麗だしとおべんちゃら染みた言葉を繋げようかトモが迷っているうちに、

「違えよ。あんたみたいのが女優になれた事務所なんだから、多少薹が立っててもいけるかなって思ったの」

 ぴくりと、トモの片眉があがった。

「私みたいの、ですか」

「私テレビ見てる時から思ってたんだよね。あんたってさ、蟹みたいな顔してんじゃん」

 そしてカシマはケラケラと笑った。

 それでもトモはまだ考えている。世の人々はいったいどれだけ罵られたら怒りをあらわにするのだろう。

 そしてそうしたものは普通、いちいち判断をつけて行動するものではないということに、トモはおそらく一生気付かない。


 トモはそして、高校の頃男子生徒に嘲笑された厭な記憶を思い出していた。


 あの時もそう、蟹と呼ばれ囃し立てられたのだ。


 その理不尽な言葉の暴力に限界を感じたトモの取った行動は、男子生徒の目線を自分から逸らせることだった。

 トモは、治水顎人がその行方を捜しているらしい女、当時の同級生であった潤目民子をそれは激しく虐めた。その、ある種突飛な行動にトモに対する嫌がらせはなくなったが、替わりにトモの心奥になんともいえぬしこりが残った。


「なにボケっとしてんだよ。用済んだら出てけよ」

 カシマは変わらず傍若無人である。

 トモはよし怒鳴ろうと自分に号令を掛け、一度大きく息を吸い込んだ。

 ドアが開いた。

「ああ居た居た。よし、カシマさん。あんた地酒の試飲コーナーいって」

 突然戻ってきた男に、トモはまさに息が抜けたように萎んだ。怒りが消えたわけではない。だからトモは、ずくずくと疼く腹の底に凝った不快感をどう解消しようかと考えている。

 カシマはとてつもなく億劫そうにプレハブを出て行った。

「あんたも外出て。なんでもいいから手伝うッ」

 ぼんやりと入り口を見つめていたトモに、男の怒声が飛んだ。トモは驚いて足下にあった段ボールを蹴飛ばしてしまった。中身がひっくり返った。

「なにやってんだよモウ」

「すいません、ごめんなさいっ」

 平身低頭してトモは自分が引っくり返したものを拾おうとする。

「あの、これなんですか? 毛皮?」

「あ? これ? これは市のマスコットだよ。ほれ、人が入って動かす」

「着ぐるみ、ですか」

「それ」

 トモは今、眉間が熱くなるのを感じている。結果がどうなるかはわからないが、瞬時にしてあの女を苦しめる方法は思い付いた。

「これ誰が着るんですか?」

「あ? なに、やりたいの?」

 茶色い毛と赤く笑った大きな口。おそらくはナマハゲをイメージしてデザインされたものであろうが、物凄く不細工だ。

「いえ、私は結構です」

「はは、だべな。女の子はこんなのやりたがらんわな。だから今日来てる役場のニイチャンがやるんだよ」

「そうですか。へえ。、、、あ、すいません。仕事に戻ります」

 トモは派遣会社に電話を入れるのを忘れて、役場のニイチャンとやらを捜しはじめた。そこにはしっかりとした思惑がある。


 役場のニイチャンは、黙々とパイプ椅子を並べていた。

 トモは何気なさを装って近寄り、二言三言話掛けるとその場を立ち去った。


 カシマはセレモニー用の衣装の上に緑の上着を羽織って、仏頂面で紙コップを準備していた。トモは小走りにその場所に近付き、

「さっきの話だけど」

 と、先ほどとは変わって、少し強気な態度で声を掛けた。

「さっきの話?」

「事務所、紹介してあげる」

「なによ今更」

「だからお願い聞いてほしいの」

「お願い? なにそれ、メンド臭」

「そういわないで聞いてよ」

「んだよ、早くしてよ」

「私、着ぐるみ頼まれちゃったのね」

 それは嘘である。

「でも私ああいうの苦手で。だから私の替わりにお願い」

 カシマは当然冗談じゃないといった顔をする。

「いや? 今日一日我慢すれば芸能人になれるのよ? そりゃ確かに大きな事務所じゃないけど、その分デビューは早いかもね」

 なにせ私がテレビに出れたくらいだもの、そうでしょとトモはカシマの顔を見た。カシマは一瞬眉間に皺を寄せ、そして右手を軽く口元に添えた。

 わかり易く煩悶している。

「お願い! ね。前にマネージャーやってくれてた人にはよくいっとくから」

 その、トモのいう元マネージャーは、以前トモと共にある事件を経験したことで精神的に病み、今は家に引き蘢っていると風の噂に聞いた。

 つまりはトモは、口から出任せを並べ立てている。

「本当なのね」

「もちろん。あなた綺麗だから、事務所の人も喜ぶと思うわ」

 おそらくカシマなどは綺麗だといわれ馴れている。しかしそうした褒め言葉は、案外いわれ馴れている人間のほうが効果があったりするものだ。

「それじゃ替わってくれるのね」

 トモの念押しに、カシマは首を傾げながら頷いた。どうにもうまくいい包められた気がしているのだろう。

「それじゃ着替えなきゃ」

 そういってトモは、半ば強引にカシマの手を引いてまたプレハブ小屋へと戻った。

 よもやの少人数でてんやわんやの関係者たちは、そんな怪しい動きをする女の存在など誰も気にしていない。


 プレハブに押し込められたカシマは愕然とした。

 なんなのだろう、この不細工な顔は。

 どうして物を見ずに承諾してしまったのだろうと今更後悔する。

 それでも今日だけ、この屈辱を甘受すれば芸能界への道が開けるかもしれぬと心を奮い立たせ、靴を脱ぎ上着を脱いだ。

「ああ、でもコレ」

 髪が邪魔だ。ヘアゴムやピンは持っていない。しかし、表で待っているだろう女に借りるのもなんだか癪だった。せめてタオルでもあればとあたりを見渡すも、生憎髪の毛を纏めるほどの長さのある布は見当たらなかった。

 と、開いた鞄が目に入った。

 覗いて見るとどうやらそれはあの女の鞄のようだった。カシマは躊躇なく物色をはじめた。

 鞄からは真っ先に細長い木箱が出てきた。木箱はいいとして、その箱を括っている紺色の紐は髪を結ぶのにお誂えのように思えた。カシマは紐を解く。

「これでいいか」

 カシマは藍色の紐を指でつまみ、ひとりいう。

 軽く溜め息を落とし、カシマは今度は箱を開けた。中身は薄汚れた帯。古さ故か、ちょうど良く張りも失われている。決して濡れているわけではないが手に持つとしっとりとしているように感じられた。

 なんにしても何かで長い髪を纏めたい。

 それから無意味に十分はうろうろしたろうか。表で待つ女は本当に辛抱強いようで、一切急かしたりはしないで待っている。

「はあ、、、」

 ようやく決心したものか諦めがついたものか。酷く緩慢な動作でカシマはまず組み紐で長い黒髪を纏めた。結び目が多少不格好だが外から見えるわけではない。

 頭と手足が一体になった胴体部分に潜るようにして入る。ああ臭いと呻き声がもれた。

 大きな長靴を履く。

 大きな手袋を嵌める。

 多分これで完成だろうが、なにぶん室内に鏡はなく確認のしようがない。一度自力で背中のファスナーを閉めようと試みるが、ほとんど無理だった。その時するりとトモの鞄から古びた帯が床に落ちた。

 カシマは籠った声でドア越しに声を投げた。

 ドアの開く音がして、カシマのはっきりしない視界の隅にトモの姿が認められた。きっちり上までファスナーを上げると、

「じゃあよろしく」

 といい残してさっさと出て行ってしまった。

 密閉されたことであっという間に熱が籠っていくのがわかる。

 自分の呼吸音がやけに大きく耳に届く。

 そしてなにより視界が著しく悪かった。

 おそらくはあの奇妙な笑顔の口の部分に覗き穴があるのだろうが、精々そこから確保できる外景は自分の足下ぐらいのものだった。その事実に行き当たった瞬間、カシマはいい様のない恐怖に襲われた。

「ちょっとこ、」

 怖いといおうとして嘔吐く。それが恐怖から来るものなのか、内部に籠った悪臭から来るものなのかは本人にもわからない。

 ぽつんとひとり。

 みるみる肥大していく後悔に追いやられるように、カシマは今すぐに投げ出して帰りたい気持ちでいっぱいになっているが、今更ひとりではどうにもできない。なんで自分はこんな目に遭っているのだと、そう思っている。


 トモは酒の試飲を行き交う人に勧めながら、少し離れた事務所の様子を伺っていた。

 カシマがあれを着たのは確認した。事務所から出てこなければあの中年男が怒鳴り込んで行くだろう。本来あのマスコットをやるはずだった青年には、替わりに自分が中に入ることになったといってある。その青年と中年男がかち合えばなんらかの問題は生じるだろうが、実際マスコットは存在するのだから大騒ぎするには至るまい。

 後は引っ張り出されたカシマにいいだけ恥を掻かせてやればいい。

 方法は幾らでもある。

 あんな不自由なものを着ているのだ、肉体的にも精神的にもこちらが圧倒的な優位にいる。

 トモはカシマの言動を思い返し、薄暗い負の感情を煮え滾らせつつ、若干ぎこちない笑顔で紙コップを手渡すのを繰り返していた。

 そう。激しく怒鳴ったりするばかりが怒りの表現方法ではない。このトモのように酷く陰湿な悪感情の発現の仕方もあるのだ。

 しかし当のトモ本人は、自侭なカシマに制裁を加えてやろうという、どちらかというと義憤で自分は行動していると思っている節がある。いや、そう思い込むことで自分の報復行動を正当化しようとしている。

 

 いやだ。臭い。暑い。帰りたい。

 カシマは安請け合いしてしまったことを酷く後悔しながら、どうにもならない時間を徒に過ごしていた。このままでは済むまい。おそらくはそのうち、時間になっても一向に登場しないマスコットに業を煮やした誰かが入ってきて、

 ドアが開いた。

 カシマは上体を反らせた姿勢でドアのある方向を見た。無理な姿勢をとって尚、入って来た者のつま先ぐらいまでしか見えない。

「なんだ、もう着替えたんか。まだ時間早えけども」

 声を聞くに、先ほど自分を怒鳴りつけた男のようだ。それよりもカシマは、まだ早いという一言に一方ならぬショックを受けていた。

「石島くんと替わったんだってな。結局やってみたかったん?」

 カシマには話がわからない。それどころかよく聞こえもしなかった。そして言葉を返そうにも小声では通らない。

 結局今の姿で外部とコミュニケーションを図ろうとするなら、大声を出すか大袈裟に動くか、後は筆談くらいしかない。

 不自由この上ない。

 カシマは鼻ではなく口から息を吸い込んで、

「これ、どのくらいやるの?」

 と、大声で聞いた。

 ところがオッサンは一旦外に出てしまったようで、実際そこにはいなかった。

 待てど暮らせど返答がないのでカシマは全身を使ってあたりを見回した。首だけ動かすことが構造上できないからだ。

 狭い室内には、またカシマひとりのみのようだ。

 カシマはそれからまた何十分も待たされた。

 外気は低いが、既に汗だくである。

 不快感に顔は歪みっ放しだ。

 そうしてカシマの我慢も限界を三度迎えた頃、あらぬほうから、さで行くかと声が投げ掛けられた。


 瑕疵間怜子はこの先自分が見舞われる災難に、当然だがまだ気付いていない。


 時刻は正午になろうとしている。

 朝の時間帯には冷えていた外気も次第に暖められ、今は動いていると少し暑く感じられる。

 トモは久し振りに額に汗して働いた。他にも煎餅や郷土色豊かな漬け物など様々な出店が出ているが、一番地酒が人気があるようだ。忙しいですねと横にいるふくよかな婦人に話し掛けると、婦人はどことなく自慢げに、

「いつだったかテレビで紹介されたのよ、このお酒」

 といって、顳かみ辺りの汗を拭った。

「それでも昼になったら、あっちの大鍋できりたんぽ配られるから。そしたら少しは休めると思うわよ」

 そして婦人は広場の噴水横に立つ時計を見て、アラヤダ、もう昼じゃないのさと大袈裟に目を丸くした。

 はす向かいのテントから拡声器を持った男が現れ、無料きりたんぽ鍋の配付開始を高らかに喧伝した。するとどうだろう、今まで地酒にご執心だった人の群れが一斉に鍋のほうに流れていってしまった。

 婦人は得意げにいった通りでしょうといった。

「それじゃあ私、お食事行って来ていいかしら? その間お任せしていい?」

 トモは軽く頷き婦人が立ち去って行く丸い背を何気なく目で追っていると、その向こうのプレハブのドアが開いた。

 見るも滑稽な茶色い固まりが危なっかしい足取りで出てくるのが見えた。


 いよいよはじまる。


 トモは一升瓶の口を開栓しながらほくそ笑む。


 たっぷり恥を掻かせてやる。


 トモも無論気付いていない。

 傲慢な女に苦痛を味わわせてやろうと迂遠な罠を仕掛けただけのつもりであったが、それが思わぬ結果を招くことになろうとは。


 すべては瑕疵間があの木箱を無断で開封したことに起因する。


 今日は金曜日、時刻は昼である。

 時折子供を連れた若い母親や、昼休憩に偶々通りかかったOLが面白半分に寄ってくるだけで、基本的にカシマのマスコットは放置されていた。挙句笑い声の矢鱈に大きなおばちゃん連中に囲まれ、暑くないだの大変ねだの労われているのを見るにつけ、その存在意義の希薄さにある種憐憫の情すらわく。

 正確にはその中で苦悶の表情を浮かべているであろう女に、だが。

 トモは完全な精神的優位に自分が立ち得たことを感じて、結局特別なにもせぬまま満足していた。

 トモの自尊心は地味に回復したのだ。

「お待たせ。あなたもお昼どうぞ」

 不意に後ろから声を掛けられて少し驚きながら振り返ると、先ほどのふくよかな婦人が立っていた。

「え?」

「うん。次休憩どうぞ」

「あ、はい」

 トモは軽く会釈をして地酒のテントから離れると、マスコットのほうも休憩のようでふらふらとプレハブのある方向に向かって歩きはじめた。

 ところが、すぐにへたり込んでしまった。

 トモは不適な笑みまで浮かべて近寄り、多少乱暴に着ぐるみを立たせると、

「アラアラ、大丈夫?」

 と戯けた風に声を掛けた。

 着ぐるみは無言だった。ただ波打つような荒い呼吸が身体を通して伝わってくる。

 トモは薄く笑ったまま軽く腕組みをして待つ。やがて荒い息切れの合間にごく小さな声が耳に入ってきた。

「、、、死ぬって、、、」

「大丈夫? ここで脱ぐ?」

 ぜえぜえぜえぜえ、、、再びの荒い呼吸。声は一段と小さくなった。トモは思わず口の覗き穴に耳を寄せる。

「、、、め、、、んなめ」

 何かをいっているようだがよく聴き取れない。尚も耳を澄ます。

「、、、女め、、、に女」

 女?


「あの、蟹女め、、、」


 折角収まったトモの腹立ちがその一言で簡単にぶり返してしまった。

 トモは支えていた肩を抜くと、軽く着ぐるみを押すと実に無様に転倒した。そしておよそあの女が発した声とは思えぬ悲鳴が耳に届いた。

 トモはその様子を眺めながら、口中まるで呪文の如く呟いた。

「絶対いわせない、誰だろうと。あんたみたいな女にはわからないのよ。外見を揶揄されることの辛さが。努力で補いきれないものを虚仮にされる気持ちが。わからないのよ」


 美醜の別は本来的に主観的なものである。

 突き詰めていけば美醜とは個人の嗜好に還元されるものだからだ。

 しかし人は人の言葉を、目を気にする。それは決して悪いこととは限らないが、いずれ限度を越すとろくなことにならぬ。

 そして鳥辺トモはその感覚が一般から大きくずれていた。

 実際トモ本人は気付こうとしないが、高校の頃同級生の潤目民子とて、煎じ詰めれば結局トモ自身より可愛かったから虐めたに過ぎない。


 生真面目な部分を多く有してはいるが、内奥には黒く淀んだ劣等感が渦を巻いている。


 トモのそうした感情はいつも極端なかたちで発露する。


 土埃に汚れた着ぐるみを冷ややかな目線で見つめながら、めらりと色温度の低い炎がトモの芯に灯った。

 極めて純粋な嫉妬の炎。


 トモは知らない。瑕疵間怜子は髪を纏める為にあの帯の入った箱を開けたことを。

 そして、あの帯は、


 治水顎人はいった。

 これは蛇である。人の妬みを喰らう

「ぃ、、、ぃいやあぁっ!」

 突然の叫び声。

 トモは咄嗟にカシマを見た。

「なッなにか動いてるッ!」

「え、、、なに?」

「早くッ! ああ何コレ!」

 さっきまで声も出ないほどだった瑕疵間が大声で叫び、まるで熱湯でも浴びせかけられたように毛むくじゃらの全身を掻きむしっている。

「誰か脱がせて!」

 トモは突然のことに慌てつつも、なんとか暴れる瑕疵間に組み付いて背中のファスナーに手を掛けた。

「どうして? 下りないッ」

「誰か脱がせてよッ! 誰もいないのッ?」

「いるわよ! ここにいる!」

「早く! やだ!」

 ぐっと瑕疵間が丸くなった。いったい何が起こったというのだろう、トモはわけがわからないままとにかく着ぐるみを脱がそうと渾身の力を込めてファスナーを下に引いた。しかしびくともしない。布地を噛んでいるというよりは、裏側から縫い付けられているようだった。

「やだ! 怖い!」

 瑕疵間は立ち上がる。トモは弾き飛ばされた。

 縮んだり仰け反ったり、彼女が自分の意思で動いているのではなさそうだ。

「痛い! 苦しい!」

 苦しむ声が聞こえるものの、その面は歪な笑顔。全身を掻きむしり暴れようとも、その姿はずんぐりとした毛の固まり。トモは周囲を見渡す。流石の騒ぎに人が集まってくるが、傍目には不細工なマスコットが滑稽な踊りを踊っているようにしか見えない。そして一度そうした目線で見てしまうと、

「脱がせてよ! 誰か助けて!」

 そんな籠った悲鳴が聞こえても戸惑いが先に立ち、周囲は互いの顔を見るばかりだった。

「いや! いやぁぁぁ!」

 笑顔の面の奥から聞こえる絶叫。

 そのギャップにトモを含めた相変わらず周囲は二の足を踏み、狂い踊っている着ぐるみをただただ見守るばかり。

「助けて! 助けて! 助けて!」

 いったい何が起きているのだろう。

 いいだけ間を置いてひとりふたりと寄るが、暴れる着ぐるみに手が出せない。

「脱がせて! お願いッ!」

 苦しみもがく笑顔の人形。

 その落差にトモは一瞬狂おしい気持ちの昂りを覚えた。慌てて頭を振った。


 みし。みしみし。


 瑕疵間の絶叫の合間に、異様な音が挟まりはじめた。

 本当に何が起こっているのか。


 みしっ。みしみしっ。


 まるで水気のない枝をへし折ろうとする時のような音。

「おえっ、、、おええええええええええええええええええええええッ、、、」

 瑕疵間はとても厭な声で長い長い嗚咽をもらし、やがて昏倒した。


 その後のことを、トモはいまいち覚えていない。

 誰かが倒れた瑕疵間の衣装を脱がせ、叫び、やがて赤色灯を派手に点滅させた救急車がやってきて、、、

「どうしてあれが、、、」

 トモは気を失いそうな思いで、助け出された瑕疵間から剥がれ落ちた、あの古びた帯を眺めていたものだ。


 而してあれは帯ではないという。

 人の妬みを喰らう蛇。

 はたしてトモの妬みを喰らい、あの帯は蛇となって瑕疵間に襲いかかったのだろうか。そしてトモの嫉妬心が失せたのを感じ取り、もとの帯に戻ったとでもいうのだろうか。

 まさかそんなことが。

 いやしかし。

 あの帯は大蛇の如く瑕疵間に巻き付いて、その身体を締め上げたのか。

 まさかそんなこと。


 瑕疵間は半死半生のていで病院に運ばれた。

 どうにか一命は取り留めたものの、複雑骨折数カ所、軽度の内臓損傷、多数の内出血、そして数分間の呼吸停止に因る脳障害の懸念などをその身に負うこととなった。不可解な出来事に警察の動きも見られたが、どこをどう探しても何も出てくることはなく、結局捜査は有耶無耶のまま打ち切られたようだ。

 そうなのだ、普通に暮らしている人間にわかるような事件ではない。そしてそれを知るトモが声高に事実と思われる原因を述べたところで誰も耳を傾けまい。

「ふう、」

 足下から泥土に呑み込まれるような強い目眩に襲われながら、トモは耳を傾けられても困るだけねと思っている。

 そして、考えたくもないがとトモは考える。

 あの帯はもしかすると自力で鞄から這い出したのかもしれぬ。自分が瑕疵間に対して妬色を示したことを敏感に感じ取ったのではなかろうか。

「毒されてる。そんな、有り得、、、」

 有り得ないとはいい切れなかった。それを否定することは、自分の現実認識が歪んでいると認めるようなものだ。ただ事実がどこにあるにせよ、今度の騒ぎの一因が自分にあるとの意識は確実にトモの中にあった。


 こうしておそらく一生掛けても消化できないような痼りがまたひとつ鳥辺トモの内部に生成された。


 そのせいかどうか、トモはあれから一週間外にも出ていなく、誰とも口を聞いていない。

 派遣会社からは四、五回、劇団からはただの一回着信があっただけで、今はそのどちらからも連絡はない。

 ろくに食事も摂っていない為か、治ったはずの風邪がぶり返し、トモは今酷い高熱と唾液も嚥下できないほどの喉の痛みに襲われていた。

 笑えるほどの身体の震えに寝汗と垢でどろどろになった髪を振り乱し、トモは吐き出すように泣く。

 どうして私は同じ過ちを繰り返すのだろう。


 ごそごそ。


 そして相変わらず床下から物音がする。もしかすると鼠でもいるのかもしれない。ならばこの高熱は風邪ではなく雑菌による感染症か。

 どっちでもいいか。

 死にたいとは思わない。死のうと思うことは勇気ではないというのがトモの持論でもある。しかし今は、死んでもしようがないかと思っている。


 ごそごそ。

 ごそ。

 ごそごそごそ。


 本当に鼠だろうか。


 瑕疵間怜子は大丈夫だったのだろうか。

 トモは怖くて病院に問い合わせることができない。

 瞬間意識は途切れ、刹那夢を見た。

 何かに追われる逼迫感と、何かを追う焦燥感を綯い交ぜにしたような妙な感覚にまみれた、ただただ不快な悪夢だった。

 目を開けるとトモが横たわっていたのは布団ではなく、この部屋の水回りが集められている箇所の少し手前。自分はなにをしているのだろうとは思うが、思うように身体は動かない。

 すうと冷気がトモの火照った頬を撫でた。

 縦の世界を横から眺めて、トモははたしてどこから隙間風が入ってくるものかと目だけを忙しなく動かす。角度を変えるたび眼球の奥の筋肉がずくと痛む。

 板敷きの床の、継ぎ目のひとつが浮いているのが見えた。面倒だがこのアパートを管理している会社に電話を入れなくてはなるまい。そんな日常的なことを考えながら、のたうつような動きで浮いた床板のところまで辿り着く。

 最早汗すら出なくなった震える指で、軽く押してみる。

 酷い黴の臭いがする。

 トモが顔を歪めて指を離すと前より一層床板が浮き上がってしまった。


 ごそごそごそ。


 その、大きく開いてしまった隙間から聞こえる物音。トモは更ににじり寄って隙間に顔を寄せてみた。堪え難い臭いに更に顔を歪めつつも、なるべく呼吸をしないように目を凝らす。暗い空間に床下の様子が見える。


 ごそごそ。

 ごそ。


 床下は意外に広く、改めて集中してみると音源は遠いようだ。


 ごそ。


 それにしても酷い臭いだった。


 、、、たな。


「え?」


 、、、また、、、たな。


「何か、聞こえる、、、」


 またヒトを、、、たな。


 トモは不意に思い出した。

 この臭い。そして高熱。奇妙な声。

 高校の頃、トモは確かにこの声を聞いていた。

 突然の発熱に一週間寝込み、熱に浮かされた状態でベッドの下から聞こえてきた声。あの当時は高熱が原因で妙な夢を見たと思っていたが。

「誰かいるの?」

 ごそごそごそっ、、、

「誰、、、誰よ」

 ごそごそ、

 ざわざわざわざわ

「誰っ」


 鳥辺トモ、またヒトを呪ったな


 ぶつりと意識が途切れた。



 *


 悪い予感というのはあるものだ。

 心の内側をざわざわと撫でられるような不快感。それに引き摺られるようにしてわき起こる焦燥感。

 何かを見聞きしたりすることで喚起されることが往々だが、何の前触れもなくその予感に見舞われることも間々ある。前触れがないのだから無論原因もない。いってみれば気の迷いに近く、時間が経てば感覚は薄れいずれ消えてなくなる、その程度のものだ。

「その程度のもの」

 折角出資者が見つかった、声が色っぽくなる飴の開発を止めてまで、その不安定な衝動に突き動かされるのは愚かを通り越していると思っている。

 ただ。

 虫の報せというのはあるものだ。

 身体の裏側をざらりと嬲られるような

「、、、ふん」

 壁は無為な思考を連ねるのをやめた。

 先からいいだけ落ち着かない時間が流れており、今のこの感覚はなんなのだろうという煩悶と苛立ちに苛まれている。

 治水顎人という怪人との出会いに因り、壁マサルは微妙に変節を遂げたのかも知れぬ。特別深い交わりでこそなかったが、それでも。

 良くも悪くも物事に変化を与えることのできる人間というのはいるものだ。

 治水が自分のそうした素養を意識しているのかどうかはわからないが、いずれ壁は治水に勝手に毒され、あの日以降酷く落ち着かぬ煮え切らない日々を送っていた。

 元来壁は他人を援けることより、利用することで今までを生きてきた。

 利用価値のある人間に対しては有り得ぬほど下手にも出られるし、靴だって嘗める。いや、実際に汚物を啜れといわれたこともあったが、壁は笑みをもってそれに応えたものだ。

 そんな壁であるから、今は利用価値の希薄な、前に付き合っていただけの女のことなどに、脳味噌や貴重な時間を割くことなど、

「どうしたんだろうな、俺」

 まったく集中できない。

 その執着こそが世間でいわれる愛情の一端だということに、壁は気付かない。

 委託会社から上がってきた企画書に目を通してはいるものの、内容などひとつも頭に入っていなかった。

 いや、治水だけでは決してない。

 今年の夏を境に出会った幾人によって、壁は大きく変貌しつつあった。はたしてそれが壁マサルという男に取っていい変化なのかはわからない。

 ただ、思い遣りなどといっては面映いものの、それでも以前よりは格段に他人に対する気遣いめいた気持ちがあるのは確かだった。そうした感覚に気付いた当初壁は、自分も丸くなったものだと片腹痛く思ったものだが、こうして仕事に支障を来しつつある現今の状況に笑ってばかりもいられない。

 久し振りに生身の人間とまともな交渉をもったのが元凶かもしれぬ。

 そんな真っ当ではないことを考えながら、壁は煙草に火を点けた。

 彼は本当に調子の悪い時はメンソールの煙草を吸う。

 携帯電話が震えている。

 音を絞ったテレビからは、目新しい意匠が売りらしい車のCMが流れていた。

 認めたくはないが、未練があるのだろう。短い間とはいえ、一緒にいた時間にいい思い出などこれっぱかりもないというのに。

 基本的に壁は能動的に考え事をこなすほうではあるが、結論をきっちり出すことは稀で、結局は見切り発車で行動することが多い。

 それが原因で痛い目も何度も見てきている。

 しかし結局、今回もほぼ衝動に突き動かされる形で事務所を出た。

 テレビも消さず、大事な携帯電話すら押っ放ってエレベーターの前まで行くと、必要以上に力強く下降ボタンを押した。トモの許へ行かねば。

 ゴンドラが酷い騒音を立てて一階から上がってくる。

 一階、二階、三階、

 壁は無意味に口元を撫で、いかにも苛立っているという面相でこつこつと床を踏み鳴らす。

 四階、五階、

 扉が開い

「ぅ!」

 表記し難い声を上げて、壁は思い切り後方に仰け反った。

 開いたゴンドラの中には鳥辺トモが立っていた。

「と、、、トモ、」

 青白い顔に青い唇。目のふちだけが矢鱈に赤い。

 濡れそぼったような長い黒髪は顔だけでなく肩も背も胸元も覆い尽くしている。

「ああ」

 壁を見つめる双眸に生気はなく、焦点はまるで定まっていなかった。

「あああ」

 よくわからないまでも、とても不味い状況なのではないかと壁は思う。

「マサル」

「え。下の名前で呼ばれるなんて、ひ、久しぶりだな」

「マサル」

 ぞろりと髪の毛が伸びた。

 伸びた髪の束はまるで意思でもあるかのように這い回り、壁の足下に近寄ってくる。

 流石に壁は半歩後退した。

 トモは口の端を少し吊り上げて半歩前へと出、

 瞬間。髪の毛が瀑布の如き勢いで溢れ出、矢張り意思のあるように壁は腰を抜かしまるでスローモーションのように、壁は片手で顔を覆う、ゴンドラの扉が閉まる。意思があろうとも所詮は髪の毛、鉄の扉が閉まるのに抗えることもなく、ずるりずるり、

 扉が閉まり切るその刹那、壁は見た。

 黒髪にまみれたトモの口が助けてと動くのを。

 エレベーターは矢張り騒音を立てて階下へと沈んでいった。長く伸長した髪の毛は扉からはみ出たまま。壁はどうすることもできず、床に突いた手を震わせていた。

 追うべきか逃げるべきか、そのどちらも選択しなくてはならないような行動をトモはしていたと思う。襲い掛かり、そして助けを乞い。

 とにかく下に向かうべきだろうと壁は立ち上がり非常階段のあるほうへと向かった。

 雨曝しの鉄階段は錆も酷く、あってないようなもののビルの管理会社が修繕を施すこともなく、ところどころ手摺が抜け落ちたりしていた。この様子では本当の非常時にいの一番に崩れるのはこの階段ではないのだろうか。そんなことを考えながら壁は走る。世にも怪奇な状況に陥りながらも、壁は何処か嬉しかった。おそらく生涯で初めて真っ当に愛した女に今も頼られていたという事実に心の片隅が浮き足立っていた。だから階下から迫る毛の束に気付くはずはなく、

「ぅわあっ!」

 筋肉のあまりない脚を意思をもった髪の毛に掬われ、壁は揉んどり打って階段から転げ落ちた。

 既に深更に近い世間に、派手な音が響き渡る。

 二階の踊り場でようやく止まることのできた壁であったが、頭と腰を強かに打ち、その顔面は血塗れで前歯も折れていた。意識も失いかけている。肋骨が折れているのだろう、喉から血が吹き出る。なにか言葉を発しようと思うのだがごぼごぼと血の泡が出るばかりで一向に言葉にならなかった。

 目の隅に映る影。

 あれは間違いなくトモだ。非常に緩やかではあるが着実に壁のほうへと近寄って来ている。無論なにがあったのかなど知りようはなく、また知ったところで現況が好転するとも思えない。ただ壁には、このまま死に往くだけの悪業を自分は自らの意志で負ってきたという意識があるだけだ。それを素直に受け容れるほど厳粛な気持ちでこそないが。

 それでもトモに殺されるだけマシなのかもしれぬ、とも思う。

 壁は笑った。

 鼻から血泡が吹き出た。呼吸をするたび目玉の飛び出そうなくらいの激痛が全身を貫く。

 消え入りそうな意識をなんとかつなぎ止め、壁は結局は愛しく思っている女の姿を執拗に目で追った。その狭まっていく視界もまた、赤い。

 女はわさわさと長い髪の毛を引き摺った姿で、跫もなく着実に倒れる男に近寄っていく。辛うじて露出していた腕も脚も、そしてトモの青ざめた顔すらもいつの間にかすべて毛に覆われ飲み込まれていた。

 すべてが覆われてしまうその瞬間、トモの口元は矢張り自らの救難を訴えていたように壁には見えた。

 ああ、、、助けなくては。そうは思うものの身体は動かぬ。

 いや、それどころではない。実際危ういのは壁のほうなのだ。しかし壁は必死に、本当に必死にトモをどうしたら救えるかを考えた。彼の人生でこれほど純粋に、計算もなにもなく他人のことを考えたことなどなかった。

 目から涙を落とすほど。

 ぼとぼとと血を吐き出しながら、壁は歯を食いしばり辛うじて動く部位を使って、身体をよじるようにしてトモならぬトモに近寄っていく。寄れば寄るほどおそらく、自分の死期が速まるということにも気付いている。

 何者かに操られているのか、身体を乗っ取られているのか、それともトモの本心なのか、そんなことは最早どうでも良かった。

 目の前に愛した女がいて、その女が助けて欲しいと懇願している。それだけで十分だ。

 その気持ちに応えて壁はどこへだって往く。

 歯を喰い縛りなけなしの力を振り絞って壁は這いずるようにして階段を降り、

「トモ」

 目の前にはざわざわとした毛にまみれた女。既に顔のほとんどは埋もれており、今は鼻の穴しか見えぬ。

 壁はもう一度その名を呼んだ。

 するすると毛の束が壁の首に巻き付いていく。

 ああ殺される。

 恐怖というよりも、壁は残念でならなかった。死ぬ前にもう一度だけ愛しい女の声が聞きたかった。

 するする、するする、

 気付けば先程までトモだった毛の固まりの胸の位置に怪しく光る目玉がふたつ。おそらくはそれが元凶なのだろう。しかし最早壁にはどうすることもできぬ。

 するするする。

 壁はもう一度トモに謝ろうと息を吸い込んだその時、毛は物凄まじい力でその首を締め上げた。痛みを感じなくなった壁も、その、頭が破裂しそうな圧力に思わず苦悶の表情を浮かべる。しかし、その耐え難き激痛こそが自分に対する断罪であるならば、甘んじてそれを受けねばならぬ。所詮まともに往生できぬ身である。この世に在るうちに少しでも多くの苦痛を受けねばならないのだ。

 地獄の責め苦など、多分この世の様々な苦しみに比べたら可愛いものだ。


 毛は容赦なく咎人の首を締め上げる。

 いったいなんの目的があるものか。

 それともトモの意思なのか。


 壁は黒く途切れつつあるおのれの眼前に、幸せだった数少ない時間を思い描き幽かなうめき声で呟いた。

「、、、も、、、もう少し生きたかった、、、なあ」

 何者かが空から降って


 毛


 断ち切った。

 壁は膝から崩れた。

 毛むくじゃらのトモは走り去る。

 降ってきた何者かは、

「トリベトモだろ?」

 と、その背に声を投げた。

 その声を聞きながら壁は意識を失った。



 結局トモの行方は杳として知れず、またどうしてあのような姿になってしまったのかも皆目見当が付かなかった。

 リョウは肩に壁を担いで近在の病院の玄関に置くとビルに引き返し、壁の胸ポケットからくすねた煙草をふかした。腰掛けているのは九州鹿児島で手に入れた白いビッグスクーター。勿論無免許であり、燃料は、、、

 大分気温が低い。

 リョウは病院に捨て置いてきた壁のことを考える。血みどろの大怪我を負っていたが、多少の野ざらしもあのような男であるからいい薬だろう。

 だいたい罰を科すのは自分の役目ではない。

 断罪は世間の裁量でやってもらったほうがいい。

 煙気を盛大に吐き出しながらそう思う。

 ただ、鳥辺トモはどうにかしなくてはなるまい。明らかに尋常な姿ではなかったが、いやそれだからこそ。

 まだ人間であるうちに。


 既に人間ではなかったら?


 リョウは緩々と首を振った。

 逃げられてしまったのだから今は考えても仕方あるまい。とにかく一刻も早く探し出すことだ。そう思っている割にはリョウは二本目の煙草に火を点け、肺の奥の奥まで煙を押し込んで、矢鱈にゆっくりと細い煙を吐き出した。

 結局リョウは迷っている。

 今までもそうだが、父を捜すという目的以外明確な行動指針を自分の中に確立できていない。であるから、トモが現在どちらの存在に振れているのかそれが気になる。

 ヒトか。

 ヒトならぬモノか。

 ヒトならば助けねばなるまい。

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