毛羽毛現 (二)
トモは矢庭に咽せた。
喉の奥に何かが張り付いているような不快感がある。
アパート脇の線路を汽笛を鳴らしながら電車が走っていく。
トモはゆっくりとそれが通り過ぎるのを待って、いった。
「なにいってるの? 憧れてる?」
「ええ。非常に」
憧れるという意味はわかるが、治水顎人のいっていることはまるで理解できなかった。だからトモは自分の中でシンプルな言葉に変換して、あの子が好きってことと尋ねた。
それは違いますと治水は返した。
「だったら憧れてるって何?」
トモは大して動いてもいないのに汗だくになり、携帯電話を握る掌の中はべっとりとしていた。胸の谷間に汗の雫が滴り落ちるのが感じられる。こんな男にかかずらわってないで一秒でも多く寝たほうがいいとはわかっているが、何故か電話が切れずにいる。
トモの表層の部分は認めないだろうが、多分寂しかったのだろう。電話であるとはいえ、不審な人物であるとはいえ、誰かと触れ合いたかったのだと思う。
背中の位置を少しだけずらすと、背中がやけにひんやりとした。
目を転じるとカーテンの隙間から見える窓に雨滴が滴っていた。
ああ、また黴が増える、、、トモは小さな溜め息をつく。
その間治水が二言三言言葉を発していたようだったが、トモは酷くぼんやりしていた。熱は一向下がっていない。当然である。
「、、、はあ。世の中変わった人、多いわよね」
「とおっしゃいますと?」
「あなたも含めてさ。いかに、今まで自分の見聞きしてきたもの、学んできたものが世の中のほんの一部分だってことを最近痛感してるのよね」
「そうですね。まあ、私は自分が変わっているとは思っておりませんがね」
「ほんとに変わってる人って、自分が変なことには気付いてないものよ」
さあさあと雨音がトモの耳に届く。どうやら鼻も詰まっているようで、酸欠の金魚のようにぱくぱくと呼吸している。
地震でもないだろうに床が揺れて見えていた。やはり寝なくては。
「ああ」
そこで思い出す。
「あなたさ、えっと、陵霊は知ってる?」
「ミササギ、リョウ、さん。いえ、存じ上げませんが」
「そう。そいつなら私なんかより潤目に近いとは思う。連絡先を知っているかは」
なにせ潤目民子は、最早この世の住人ではない。
わからないけど、と半ば喘ぐようにトモは結句を継いだ。
治水顎人は当然ながら陵霊の所在、連絡先を問うた。
「それはほんとにわからない。だってあの人、家もなければケータイだってもってないでしょうし。下手すれば戸籍だって、、、ごめんなさいもういいでしょ、、、」
「ああこれは申し訳ない。ありがとうございました」
トモは親指で電話を切ると、そのまま落ちるように眠った。
白いコンクリートのプールに満々とたたえられた蒼い水。
それを見下ろす私は、生まれて一度も着たことのない白のワンピース姿。
宙に浮いているのか、飛び込み台の上に立っているのか、私の視点はとても高い。
初夏のそれのようなとても心地よい風に長い黒髪が散る。
帽子は飛んでいったのかな。
私はゆっくりと左右を見る。とても開放感があるが、あまり遠くまでは見渡せなかった。
プールを見つめていると無性に飛び込みたくなった。
うまく動かない身体を動かし、私は緩やかに水面へと向かう。
ごぼんと音がし、視界のすべてが蒼に染まった。
清涼感は得られなかったが、それでも気持ちいいと思えた。
髪も目も、身体のすべても白い服も、そのすべてをしとどに濡らして私は笑っている。気持ちいいと思えば思うほど気持ち良さが増すようだ。
ああ息が切れる頃かな、嫌だけど水面に出ないと。
上を見上げると水面がやけに遠い。横をすうと黄色い魚が横切った。
海だったのか。
私は海面を目指し浮上した。泳ぎは巧くはないが、今はなんとかなっている。息は決して苦しくないが気ばかりが急いている。
あともう少し。
日の当たる海面はどれほど気持ちがいいのだろう。
あともう少し。
もう少し。
手が海面に出た。
少し妙な感触。
なんだろうと首を傾げるも、身体のほうは浮上を続ける。
顔が出た。
私は声にならぬ絶叫をあげた。
海面が、いや矢張りプールの水面が、いやこれはお風呂?
ぞろぞろと切れ目のない長い長い黒髪が小さな浴槽いっぱいに溢れて
「うわッ!」
トモは音が出そうなほど力一杯に目を開いた。
身体が思うように動かないので目だけで周囲の様子を見る。髪の毛は自分のもの以外見当たらなかった。
心臓の鼓動が早い。
なんと厭な夢を見たものか。
室内は暗く、雨音はまだ続いている。刹那見た夢かと思いトモは転がっていた携帯電話を引き寄せ時間を確認した。二時五分だった。あと二時間弱で劇団の稽古がはじまるが、熱はまるでひいていなかった。
トモは稽古への参加を断念し、とにかく何か食べねばと立ち上がった。朝に比べれば少しはましなのか、その判断もつかない。
「二時?」
トモはそう呟いてもう一度携帯電話を見た。時刻は午前の二時だった。どうやらあの後半日以上眠り続けたらしい。
きゅう、とおなかが鳴った。
微かだが食欲はあるようだ。トモは目に付いた上着をいい加減に羽織って、財布を握って外へ出た。雨は小振りだったが延々降り続いていたせいだろう、外気がやけに冷えている。歩いて五分の距離にコンビニエンスストアがあるのがせめてもの救いだ。風邪薬は明日にするとして、とにかく何か栄養のあるものを食べなくてはなるまい。
店に入ると先ず肉饅頭の蒸し器が目に入った。時間が時間であるため、中はほとんど空っぽである。念の為おでん鍋も覗いて見る。出汁が染みた竹輪と、煮崩れて輪郭のなくなった大根がひとつずつあるのみ。
トモは無意味にふうんなどと声を出した。
店員はバックルームにでも引っ込んでいるのだろう、店内にはトモひとりだけだ。
どうせ寝込んでいるならと、雑誌を物色する。この時点でトモは、外に出てから体調が良くなっている自分に気付いていない。
映画の情報誌を読んでいると、コンビニのガラス扉がぎいと鳴った。
無精髭の似合うアメリカ俳優のインタビュー記事から目を離し、トモは音に釣られるようにちらりと出入り口に目をやった。
背の高い、細長い女が颯爽と店に入ってきた。ヒールの高い革のロングブーツをかつかつと鳴らし、黒のタイトなパンツと黒革の腰丈ジャケットという出で立ち。しかしなにより目立っているのは深紅の革の手袋だ。グラデーションの掛かった大振りのサングラスも蜻蛉のようだ。夜の商売をしていそうな雰囲気を存分に醸し出している。
歩き方や所作のひとつひとつに気位の高さが良く表れているように、トモには見えた。
そしてトモは、不必要にも我が姿とその女とを比べた。
着古した鼠色のスウェットの上下とサンダル。髪の毛も梳かしていない。
サングラスに隠れてよく見えないが、顔の造作とて。
そしてトモは、感じる必要のない引け目を覚える。
あそこまで容姿が整っている人が世の中には普通にいて、どうして特別容姿にも恵まれていない、技量もまだまだ足りない自分が女優になどなれよう。その為に劇団に所属し、日々精進している事実はどこかへ消え去り、無駄に落ち込んだりする。あれこれ余計なことは考えず、とにかく今やれることをやるべきなのにも関わらず。
女はちらとトモを見、薄く笑った、ように見えた。勿論トモがそう思ったに過ぎない。
トモがそんな、悪い意味での自意識過剰な性格になったのはいつの頃からだったか。トモ本人にもわからない。
女はストッキングと煙草を買って、矢張り颯爽と出て行った。
トモはなんだか店員にまでも薄笑いされながら観察されている被害妄想に陥り、適当に買い物をして店を出た。
雨は止んでいた。
店のある幹道から一本中に入ってしまえば住宅地で、この時間はほとんど無音に近い。そんな中トモは、なにを気にしていると自分にいい聞かせながら歩いている。まったく厄介な性格をしていると自分でも思っている。
時々そうして、気持ちが底まで沈み、やがて大してきっかけのないまま浮上する。
と。
後ろから妙な音が聞こえてくる。
トモは足を止めた。
音も止まった。
歩く。
再び音。
チャッチャッチャッ
振り返るが路地と電柱、その向こうに月が見えるのみ。人の跫ではなさそうだが、どうにも跡をつけられているような感じがして気持ち悪かった。目を凝らして見てみても電柱の影に何者かが潜んでいるわけでもなさそうだ。かといってトモは、過去の経験から既に、気のせいと割り切ることができなくなっている。
「あ、でも、、、」
犬かも知れぬと思った。あの妙な音は、アスファルトに犬の爪が引っ掛かって立つ音なのではないだろうか。犬は猫と違って爪を引っ込めることができないという。
トモは小走りに家路を急いだ。
音は延々ついてくる。今のところ何をしてくるわけでもない。
アパートの玄関が見えた。
ポケットを探り鍵を取り出す。
手に汗が滲んでいる。
チャッチャッチャッ二度、鍵穴に差し込み損ねるチャッチャッ間の抜けた音ではあるが徐々に迫ってきている圧迫感がトモを焦らせチャッる。
鍵が開いた。
玄関の戸を開け、点けっ放しにしていた明かりが目に入った。急いで玄関ポーチに身を差し入れ後ろ手に施錠した。
トモはやっと安堵し、それと同時に慌てていた自分が俄に愚かしく思え、
「お見送りありがとう」
などと冗談めかしていってみた。
耳を澄ます。音は消えていた。
部屋のソファに座り一息ついた。そこでやっと、トモは自分の身が軽くなっていることに気づいた。熱も下がっているようで身体のだるさもない。
外の空気を吸ったのが幸いしたのか、動いて毒気が抜けたのか判断はつかない。しかしこれで、明日には稽古に行けるのだから理由などどうでもいいとトモは思っている。
その後シャワーを浴びて食欲を満たすと更に気分は晴れ、また明日から頑張ろうと素直に思えた。
だから、
その晩、床下から一晩中聞こえていたごそごそという音もそれほど気にならなかった。
目覚めは爽快というわけにはいかないものの、それなりに回復を感じられるものであったのでトモはひと安心した。取り敢えず大事をとって仕事はもう一日仕事は休むことにしたが、稽古には行ける。
たった一日のズレが甚だ気に入らなく早く日常を是正しようと、起き抜けからトモはそれは能動的に家の雑用をこなした。朝食もそこそこにゴム手袋を嵌め風呂掃除をし便器を磨き、シンクにたまった洗い物を片づけ、掃除機を念入りに掛けた。
一息ついた頃には昼を大きく回っていた。
昨日買った残りと即席のコーンスープで簡単に昼食を済ませ、トモは劇団の稽古場へ向かう準備をはじめた。不図化粧でもしてみようかと思った。部屋の隅に追いやられて久しい化粧ポーチを手繰り寄せ、中を見る。実になんの計画性もなく集められた(多分その時安かったから購入したと思われる)最低限の化粧品が雑多に詰まっていた。
トモの中には口紅は紅いもの、ファンデーションは白いものぐらいの認識しかなく、流行りがどうの、自分の顔かたちがどうのと考えるアタマはない。
大学の卒業式に自分なりに頑張って化粧を施して赴き、陰で笑われていたという後聞きの事実が脳裏をよぎった。
そんなのどうでもいいけど。そう思うトモは極めて普段の彼女に近く、それはつまり強がりである。
最近、自分が女であるということをもう少し、いい意味で、自覚したほうが良いのだろうかと思いはじめている。そうした意識の変化は、トモ自身は絶対に認めないだろうが、壁マサルとの浅からぬ接触が遠因となって発露したものだが、時折自分のその変節が鬱陶しく感じられることがあるのも事実だ。つまりは鳥辺トモという人間は、まだまだ未完成なのである。
確かに、世に溢れる人間にいったいどれほどの完成者がいるのかといえば、それはわからない。下手をすれば皆無だろう。しかし、自分は完成された人間だと思い込んでいる人間となるとどうだろうか。
自分の劣質にまるで気付かず過ごすというのはそれだけで罪に近いこともあるだろうが、単純に、微塵の迷いもなく何かに邁進していく力というのはどのような世界にも必要である。
「、、、。」
数分様々逡巡して、結局トモは飾ることをやめた。
何の根拠もないがその時機ではないような気がしたからだ。
一度湿った咳が出た。
勝手に治ったと思い込んでいたが、完全には抜け切っていない。昨日の今日である、それも当然だ。
窓の外を見ると雨こそ降っていないが今日も肌寒そうな空模様だった。
少し厚着して行こう。化粧をやめたかわりに普段着ない服に身を包んで、それでもほんの少しましな気分になってトモは外へ出た。
見知らぬ若い男が立っていた。
一見してトモが思ったのは恐怖感よりも、気障ったらしいその外見からくる軽い嫌悪感だった。さらりとした髪は柔らかく七三に分けられ、必要以上に青白い顔面に小振りの鉤鼻がくっ付いている。薄い唇に縁取られた幅の広い口、少し垂れ気味の目。服装にもなにか共通の理念のようなものが感じられる。
見るからに外見に気を遣うタイプ、つまりはトモがあまり得意ではない種類の人間。
「なにか御用でしょうか?」
明らかにその気障男はトモの部屋を見ていた。
男は白目勝ちに笑い、ええと無声音で答えた。
トモはまさかなと思っている。
相手は小柄な優男。逃げ切れぬことはないだろうが、相手の真意が知れぬうちは下手に動けまい。なにせ相手には自分の居所を掴まれている。
「あなた、治水顎人、さん?」
男はにたりと笑った。
おそらくこいつは自分のことをいい男だと思っている。それだけで十分トモには見下すに足る。ナルシスト嫌いのトモにとっては、勝手に他人の居住所を調べたり不躾な電話を掛けてきたりするのは二の次といっていい。
「こんな。勝手にこんなところまで来て。なんなんですか」
いえね。男は酷く冷静に言葉を返す。
「ほらここ、すぐ近くを」
ごとごとと周囲を振動させて十両編成の列車が走り抜けていった。
「今のはまあ、普通車両ですが。昨日の電話の時に通った電車ありますよね」
「そんなの覚えてるわけないでしょ」
「そうですか。昨日の電話中ここを通過したあの列車、あれは特別な車両なんです。ブレーキ音が独特なのですぐわかる。そしてあの車両があの時間帯に走る路線はここしかない」
「なにあなた、鉄道マニア?」
「その上汽笛を鳴らす位置など限られている」
「それでこの近辺を虱潰しってわけ?」
「ええ。あなたは恐らく、きっちり表札を掲げるタイプだと思いましたので。然程苦労はしませんでした」
確かにトモの居住するアパートで、姓名を確りと明記しているのはトモの部屋だけだ。
「性格でしょうね」
重ねていわれて、トモはなんだか馬鹿にされているような気分になった。
「私の家がわかった理由はいいわ。それで何の用だっていうの? 理由によっては警察呼ぶわよ」
苛立ち紛れに携帯電話を掲げて見せ、少し強い口調でそういった。
治水は一向動じることなく、それは困りますねと然して動じずに返した。
「ここを訪れたのには大した理由はありません。先ほど鳥辺さんが仰られていたように、結局私が偏執的なだけなのでしょう。気になると目で見て確かめずにいられないのです。有り体にいえば趣味ですか」
「趣味で勝手に人の家探して欲しくないわね」
「ははは」
「どうでもいいけど、二度と来ないで。だいたい話はもうないでしょ。今度顔見たら即警察呼ぶからね」
「はは。そう邪険になさらないでくださいませ」
ちゃんとした用事もあるにはあるのですよといって、治水はミササギリョウの外見の特徴をトモに問うた。
「、、、本当に教えたらもう二度とこないで。ミササギリョウの特徴でしょ、、、」
いい掛けてトモは結局いい淀んだ。
「え、、、と。えー。うん。背はあなたより高いかな。痩せ形というか骨張ってるというか。髪は茶色だったと思う」
「お顔は」
「顔は、、、ううん、、、」
「どうなさいました」
「ミササギリョウはね、顔には目がないらしいの」
「らしい、とは?」
「私もちゃんと見たことないし。顔に布巻いてるから、、、」
「そうですか。顔に、目がない? ほう」
あまり感情が表に出ないほうなのか、それとも驚くに値しないのか理解不能なのか信じていないのか、治水は表情を変えずにいる。やや置いて、それでは目が見えない方なのですかと問うてきた。トモは不可思議な表情を見せて首を振る。
「目は見えてるわ。多分普通の人なんかよりね」
「わかりませんね」
「そうでしょうね。後は実物見て判断したらいいわ」
正直トモは実体験に持つ彼の男との出会いも、はっきり口に出していいたくはなかった。心の何処かがまだその存在を認めていない。
あれほど強烈な体験だったというのに。否、強烈過ぎるが故か。
今度は治水が不思議そうな顔をしている。
「ねえ、もういいでしょ」
「はい。ありがとうございました。これはお礼です」
治水は仕立てのいいジャケットの懐から長方形の小さな桐の箱を取り出し、トモに差し出した。藍染めの組み紐が結ばれている。
「どうぞ、お納め下さい」
「なにそれ。要らないわ」
中身を見る前から絶対要らない。トモはそれだけは露骨に表情に示した。
「まあそう仰らずに。ほら」
治水は紐を解き、箱の蓋を開けた。中には古い帯が入っていた。綺麗でもなければ、お世辞にも品がいいようにも見えない。
ところが治水はいう。
「良い品なんですよ、それ。非常に」
「だったら尚更受け取れないって。持って帰って」
治水はそうは参りませんという。
「これを受け取ってもらわねば、私は帰るに帰れません」
「どうしてよ」
いやいや。治水は薄笑みを白面に貼付けたまま引き下がることをしない。
「時に鳥辺さん、これはなにに見えます?」
「は?」
「これは帯ではないのですよ。これは、人の妬みを喰らう蛇なのです。妬みを糧に動く蛇」
「蛇? 妬み、、、?」
革靴を鳴らして治水はトモに近寄った。不意を突かれたのかトモは動けなかった。
「どうしても不必要と仰るのならば、お捨て下さっても構いません」
ぐい、と治水は桐の箱をトモの手に押し付けた。
「あ、ちょっと!」
そして治水は軽く会釈をして踵を返した。
態度は非常に紳士的だが慇懃無礼なのには変わりない。トモは立ち去る男の背を見つつ、嫌悪感たっぷりに口中のみで二度と来るなと呟いた。
残された桐の箱も困りものである。
ジャコが鳴った。
そこでハタと職場に今日も休むと連絡入れていなかったことに気付く。出てみれば矢張り昨日と同じ工場の事務員で、若干の怒気を孕んで困るんですけどと繰り返された。
トモは先の腹立ちと戸惑いを押し殺して取り敢えず平謝りを繰り返したが、結局はもう来なくていいといわれてしまった。それももっともな話だろう。昨日は急病で、そして今日は連絡もないまま休んでしまったのだから。
トモでなくてはできない仕事を任されているわけではない。
人並みに動く手足があれば誰でもできる仕事を延々とこなす。
トモの今の仕事はそうしたもので、それについて不平をいうつもりはない。それを承知でトモは、ルーチンワークを主に扱う人材派遣会社に登録をしたのだ。一度軽い溜め息を落とし、クビになったと派遣会社に連絡を入れた。するとその話は既に伝わっていたようで、派遣会社の事務員にまでわかり易い嫌味をいわれた。トモは声が荒くなりそうになるのをぐっと抑えて、次の仕事を斡旋して欲しいと告げた。事務員はぶつぶつと信用がどうの、社会人としてどうのといっていたが、
「多少登録して頂いた内容と職種の変動があるかもしれませんが構いませんか?」
と尋ねてきた。
トモは少し躊躇したが、結局は自分の中の負い目に負け、お給料さえしっかりいただけるならと承諾する。しばらく検索してみますから、後ほど連絡いたしますと事務員はいって電話を切った。
なんなのだろう。
なにか釈然としない。
仕事の電話も将来も手に持った箱も、まったく思い通りに進みやしない。
トモはそれは大きな溜め息をついた。
舞台の稽古も疲れるばかりで少しも充足感が得られなかった。
普段着ない服に触れてくる仲間もまた、誰ひとりいなかった。
帰路。
肉屋の揚げ物がパック詰め幾らで値引きされる頃、トモは商店街を歩いていた。取り敢えず風邪薬を買っておこうと思っている。
日々秋が深まっていく気配が感じられる。今年の冬こそ何か暖房器具を買おうと思うのだが、経済的な余裕はあまりない。
「あ、そうだ」
ひとり呟いてトモは肩掛け鞄の中を引っ掻き回した。時折手に当たる木の箱の角が腹立たしい。
何処かへ捨ててしまおうかとも思っているが、中途半端なモラリストであるトモにはその踏ん切りも付かない。木の箱は不燃だったか可燃だったか、バラして出すのだったか。そんなことを考えてしまう。
帯は衣類でいいんだろうか?
「妬みを喰うだなんて、、、」
阿呆臭いといおうとして、トモは今まで自分が経験してきた様々な出来事を思い出す。阿呆臭いというならそのどれもが口にするのも憚られるような、世の大多数が知る普遍的な現実とは大きく乖離した体験だ。
はたして他人に披瀝して、いったい幾人が信じるものか。否、素直に信じる者がいたなら喜んで手を取るよりも前に、その者を怖いとすらトモは思うだろう。それほどまでに奇異で突飛な体験である。
色々つらつらと考えて、トモは目的の物を取り出した。
案の定携帯電話には不在着信の表示。留守電を聞くも早口過ぎていまいち何をいっているのかわからない。結局は折り返し掛け直すのが手っ取り早いということだ。
トモは派遣会社に連絡を入れた。
「もしもし、鳥辺です。はい。あ。鳥辺トモ、です。はい。あ、お電話頂いたみたいなのですが。はい。え? 今週末ですか? はい、大丈夫ですけど、、、明日とかは何か仕事は、、、ええ。はい。そうなんですか。週末というと、、、ああ、金曜、というと明明後日ですか。金曜と土曜。え? ああ、わかります。駅の東口出てすぐの広場というか公園というか。はい、販売。はい。八千円。拘束時間は? はい、十時間ですね。わかりました」
二日休んだ報いか、週末まで仕事がないらしい。
「まあ、いい機会だから少しのんびりするか」
今週少し質素な暮らしをすればいいだけだ、問題ない。
やきとんの屋台でパンチパーマの店主に選んでもらった豚串焼きの詰め合わせを買い、珍しくビールを買って帰った。
結局仕事のない間をほとんど稽古場で過ごして、やがて金曜が来た。
トモの本日の職場であるところの駅前広場は、バスロータリーを外周に構えたあまり大きくはないスペースである。周囲を銀行や証券会社のビルに囲まれたつまらない場所だ。広場中央に設置された噴水と、夏に催される商店会主催の夏祭りぐらいが売りだろうか。
トモはそのどちらも足を向けたことはなかった。
今回のように仕事ででもない限りこの町に住んでいる間に訪れることはなかったろう。
集合時間の七時半少し前に到着すると、既に簡易ステージや出店のテントの設営は終了していた。要所要所に秋田物産フェアの幟が微風にはためいている。今回の仕事は物産展の売り子である。
風はあまりないが、ここ何日かに比べると今日は寒い。少し薄着過ぎたかと我が姿を見、トモは口をへの字にした。
緑の上着に係員というわかり易い腕章を付けた中年男性を見つけ、トモは派遣元と自分の姓名を告げた。男は自分は担当じゃないんだけどなどとはっきりしない口調でモゴモゴいった後偶々手に持っていたらしい上着をトモに渡し、
「取り敢えず、そうね。あそこにトラック停まってるでしょ」
と、男は眼鏡の奥の細い目で路肩に駐車しているトラックを示した。
「はい」
「あそこに、ハタハタって書いた段ボールあっから。それ、このへん並べといてくれっかな」
「ハタハタ、ですね。でも今日は販売のお仕事と聞いて来たんですけど」
「ああそう聞いてる? んでも、あれなのよ。知らない?」
知らないとだけ問われても知らない。トモは不器用な愛想笑いで小首を傾げて見せる。
「大雨。秋田。男鹿のほうはもう止んだらしいけど、市内はまだじゃんじゃん降りだって。洪水だもの、参っちゃうよね。ウチらはホラ前乗りしてっからなんとかなったけれども、今日来るはずだった売り子さん達。まあハハハハ売り子ちゅうてもババばかりだけどさ。みんな来れんくなっちまって」
そういえば今朝テレビでそんなことをいっていたように思う。トモは適当に相槌を打った。そんな災害が出ている時に、物産展もなかろうとも思う。
「だから今日はあんたも、売り子と後は雑用と色々やってもらうから」
よく働いたら給料も良ぐなると中年男は矢鱈に大きな声でいって、豪快に笑った。
トモは男にプレハブの事務所に連れて行ってもらい、荷物を置き緑の上着を着ると早速作業に取りかかった。
「それ。煎餅だから乱暴に扱わんでくれよ」
「あ、はい」
ハタハタとは煎餅のことなのかとトモは考えつつ段ボールを運びはじめた。方言なのか商品名なのか。
無論トモは、秋田名物の鰰の煮付け風の味付けが為された煎餅の存在など知らない。
三十分ほどで運び終わった。
さて次はなにをしたものかと周囲を見回す。すると、
「あ。あの人」
緑の上着の群れにひとり、なんとも周囲に馴染んでいない女が颯爽と歩いていた。
魚のぶつ切りを煮込んだ味噌仕立ての鍋の匂いがあたりに立ち込めている。その中を闊歩する背の高い女。服装も顔つきも歩き方も、まるで場違いだ。女もどうやらそれには気付いているようなのだが、簡単に自分のスタイルを崩せないようで微妙な表情を見せている。
トモは思わず女を目で追っていた。
そう、その女とは、数日前に深夜のコンビニエンスストアで見かけた派手な女その人だったからだ。
女は目の前を歩いていた男を掴まえ、何かを尋ねている。軽い腕組みをしつつ、肩幅に開いた両脚が、なんとも女の性格をよく表しているように見えた。
尋ねられた男は蟷螂のようなかくかくした動きでトモの奥、あのプレハブ事務所を指差して何かをいっている。
女は二回ほど頷くと、靴音も高らかに男の指し示したほう、つまりはトモのほうへ向かって歩いて来た。
あの人、あの男の人にお礼はいったのかしら。そんなどうでもいいことを考えながら、トモは作業をしている振りをして女をよく観察できる位置に移動した。はたしてあの派手な女がこのようなのんびりとした雰囲気の催し物会場にどのような用向きでやって来たのか、下世話な興味が湧いていた。
女の背をそろそろと追った。
女は事務所のドアをノックもせずに開けると、声質は低いのだが大きな声で、ナントカマネキンナントカ事務所から派遣云々と告げた。
「なんだ、私と一緒の派遣社員なんだ」
まあ、雑務全般とマネキンとじゃあ違うだろうけど。
薄い寒気に頬を赤くしつつ、トモは無駄な思考を連ねる。
再度周囲を見回すが指示を与えてくれそうな人間がいないので、トモはそのまま簡易事務所から聞こえる声を立ち聞きする。なんとなくこうした行為は後ろめたいものだが、それだけに蠱惑的であると、トモはこの時初めて知った。
当然だが、秘密の会話が交わされているわけではない。それでも、軽い興奮を覚えながらトモが知り得た事実は、女がカシマという名だということと、大雨の影響で今日予定していた県知事の挨拶がなくなり、それに伴いカシマが行うことになっていた知事への花束贈呈がなくなったという二点。
薄いドアの向こうでカシマは、仕事ないならないで、早く知らせてよと軽い怒声を発している。相手をしている男の声が明らかに困ったように、連絡はしたが携帯が繋がらなかったと弁明する。
カシマは更なる怒声で、繋がるまで掛ければいいじゃん、無駄足だろと怒鳴っている。
いや、だからと男は辟易したようにいう。花束贈呈がなくなっただけで試供品を配ったり仕事はあるのだと。するとカシマは、だったら早くしろと乱暴な口調で返した。
最後に、着替えるから出てよと声がして、続いてドアに近付く跫が聞こえた。トモは咄嗟にドアから離れ、近くにあった段ボールの中を覗く振りをした。
我ながら何をしてるのかと思う。
ドアが開き、中からげっそりとした顔をした男が出てきた。それは、トモが最初に話し掛けた中年男だった。
「ああ。あんた。なに?」
「え。あ。段ボール運び終わったんで」
中年男は不審げな目をしつつも何もいわず、一度大きな溜め息を落とした。
「ハァ、、、やっぱり都会の子っちゅうのは扱い難いね」
カシマが都会育ちかどうかは知らぬ。
生粋の都会育ちのトモはいい加減な返事をして、
「次はなにやりますか」
とだけ尋ねた。
「え? ああ。それは?」
男はトモが手に掛けていた段ボールを顎で示した。それはと問われてもトモにも内容はわからない。トモは横目で段ボールの中身を確認した。茶色っぽいものが見えた。
「まあいいや。それ、今人がいるから、その人が事務所から出てきたら中に運んどいて」
少し投げ遺りにそういって、男は立ち去った。
こっちが溜め息つきたいよとトモは思う。これでまた所在なく立ちん坊である。
やることに追われるよりもやることのないことのほうが辛いものだ。
たっぷり一時間待った。
再びドアが開いた時、そこには矢鱈に香水のきつい、清楚な白いツーピースを着た女が立っていた。よくテレビなどで見かける、ミス○○といった雰囲気の格好で、またカシマは、そうした格好がよく似合っている。要するに美人なのだ。しかしこの美人は、性格には多分に難がある。
「ふん」
カシマは陰険な眼差しでトモを見下すと、何か用とまるで己の城が如き口調で言葉を放った。流石にトモも腹が立ったが、
「いえ。事務所内にこの段ボールを運ぶようにいわれたもので」
と事務的な態度を装って答えた。カシマはさして興味もなさそうに鼻を鳴らし、
「何それ」
と、またもどうでもいい質問を重ねてくる。
「さあ。もう中へ運んでもいいですか?」
「勝手にしたら」
いちいち癇に障るいい方をしてくる。それでも自称オトナであるところのトモはぐっと感情を押し殺して、段ボールを抱えてプレハブ内に入った。入れ違いにカシマが外へ。
「うわ。寒い。なんでこんな寒いのにこんな薄着させられなきゃなんないわけ」
カシマのぼやく声を背に、トモは箱を床に置いた。
「夏物じゃん、これ。馬鹿じゃないの、風邪ひくっての」
いったい誰に対するアピールなのだろうか。おそらく声の届く範囲にはトモしかいない。
トモが振り返ると戸口にカシマが仁王立ちで立っていた。
「駄目。無理。帰ろ」
そう呟く女を見るともなしに見ながら、トモはなんなのだろうこの女はと思っている。こうまで自侭に振る舞ってそうして生きて行けるのなら、誰も我慢などしない。
「あなた、私帰るから誰かにいっておいて」
「はい?」
「だから帰るっていってんじゃん」
「帰るって、仕事は」
トモはカシマの頭の先から爪先までをゆっくりと見た。あんたはイベントの飾り、そのための衣装をそうして着ているではないかと、トモ得意のじっとりとした目でいいながら。
「知らねえよ、そんなの。寒いし待遇悪いし、帰る」
会場にひとつしかない事務所を一時間も占拠しておいてよくいえたものだと、トモは飽きれた。目の前の女が勝手に職場放棄するのは正直知ったことではないが、流石に肚に据えかねるものもあったので、
「勝手に仕事に穴空けて、大丈夫なんですか」
それは数日前の自分にいわなくてはならない台詞。トモは自分もろくなもんじゃないわねと思っている。
カシマは鼻を鳴らし、
「あんたには関係ないっしょ。出てってくれる? 着替えたいの」
吐き捨てるようにいう。
トモは心底飽きれて、返す言葉を探す労力も勿体なく感じられ、素直に要請に従った。
ドアを出ると中年男がいた。トモは腹立ち紛れにカシマが帰るつもりであることを告げ口した。我ながら陰険だと思った。いや、トモは元来計算高く陰険な部分を多く持っている。
中年男(おそらくはこの現場の主任だろう)は顔色を変えて事務所に向かうと、鍵の掛かったドア越しに怒鳴った。
「ちょっとカシマさん? 帰るって何? なにいってんの?」
暫くあって解錠の音がし、ゆっくりとドアが開く。
「ああ、頭が痛くて。風邪ですね。帰ります」
カシマは微塵も臆することなく嘘をいってのけた。
「今更なにいってんの? お宅の事務所にはもうお金払ってんだかんね」
「知らないってそんなの。私は金いらねーし」
「そういう問題じゃねって。困んだって」
「知らねえって。寒いからどけよ。着替えんだよ」
なんとカシマは男を払い除けようとした。流石に男も真っ赤な顔をしてカシマの上着の袖を引いた。
「あ」
トモは短く声を上げた。
よっぽど力を込めたのか、カシマの着た白い衣装が見るも無惨に裂けてしまった。あまりいい生地ではないのだろう、縦横に襤褸襤褸になっている。
男は壊れたように喉の奥から妙な声を出す。カシマもこれには流石に顔色を変えて、それでもごく小さな声で無理矢理引っ張るからだよといった。
男は当然烈火の如く怒った。
「どうすんだよ! どうすんだよこれッ!」
「怒鳴んなよ。弁償すっからいいだろ」
「弁償? 金払や仕舞ってか? ふざけんじゃねって!」
「じゃあどうすりゃいんだよ、うぜえな」
トモは冷静に、初対面の年長者にウザイという人間を珍しい生き物を発見したような感慨をもって見ている。それでも腹の底ではムラムラと義憤のようなものはわいているが。
「とにかく今日は働いてもらう! 文句はいわせねえ。タダ働きだッ!」
「ふざけんなよ。金払うっつってんだろ!」
「その態度が駄目だ馬鹿タレ! 勝手に帰ってみろ、損害賠償払ってもらうからな!」
「てめ。なにオオゴトにしようとしてんだよ」
「当たり前だ糞餓鬼。こっちの企画台無しにしやがって。わかったな、今仕事宛てがうからそこで待っでろッ!」
口角泡を飛ばして男はどこかへと消えた。残ったカシマは辛うじて繋がっていた片袖を引きちぎり、思い切り地面に叩きつけた。
なんとも派手な展開だがトモには直接関係ない。自分は自分の仕事をこなすだけだと思っている。
カシマは音が出そうなほど奥歯を噛み締め、だからヤなんだよ、この手のイベントはと捨て台詞を吐き、思い切りドアを閉めた。
ひとり残されたトモは、さてとどうしたものかと思案している。
この場所に突っ立っていたとて仕事はなく、かといって当て所なく会場内をうろつくのも無駄な気がした。ここは取り敢えず待ってみて、戻って来たあの男の隙を窺って次の仕事を問うのが一番いい気がする。
と、そこで、派遣会社に仕事に入ったことを連絡するのを失念していたことに気が付いた。
「ああもう」
何かにつけ細心の注意を払い、用意周到にことを運ぶのを自然にできる人間であったはずなのに、ここ最近の体たらくはいったいどうしたことかと自問しつつ、トモは事務所のドアノブに手を掛けた。電話をするなら今のうちだろう。
しかし。
中に居るのか。
なにを気を遣う必要があるのかトモ自身にもわからないが、結局はトモはドアをノックした。返事はまるでなかった。
「あの、入っても大丈夫ですか? ちょっと鞄を取りたいので」
矢張り返事はない。
トモは苛立ちを押し殺して、胸の内で十数えてドアを開けた。
カシマは長い脚を組んで、煙草をふかしていた。
「ごめんなさい、電話しなくてはいけないところがあって」
無言。そして、どうして自分が謝っているのだろうと軽い屈辱を感じつつ、トモは鞄を置いた部屋の隅に屈み、中に手を入れた。
「あ」
鞄の中にはまだあの時の木箱が入っていた。結局捨て切れずそのままになっていたのだ。
携帯電話を取り出し、さあ電話を掛けようとしたその時、カシマがトモを見ているのに気付いた。
「あんたさあ」
「、、、はい?」
「あんた、半年くらい前に騒ぎになった人だよね」
「え。あ。まあ」
気付かなくてもいいことに気付かれてしまったと、トモは内心舌打ちしたい衝動に駆られる。
「あの、あれ。私見たけど、あれは何? ホントなの? 本物?」
カシマのいうあれとは、トモが巻き込まれた常識外れの出来事を偶然撮影した映像のことだろう。確かに今から半年くらい前、世間のマスコミはこぞってその映像を取り上げていた。
「あれってさ、結局人なわけ?」
カシマがそう問うのも無理はない。
なにせ映像には全身黒ずくめの男が太刀をふるい、それに果敢に立ち向かう目隠しの少年が映し出されていたのだ。
このふたりはいったいなんなのだろうと、誰しもが思い、幾度も幾度も様々に検証された。
トモは短く、わからないと答えた。
カシマはナニソレと大して興味もないくせに鼻で笑った。
「で、あんたさ」
てっきりそれで話が終わるものと思い込んでいたトモは、再びの呼び掛けに今度ははっきりと戸惑った。
「あんた、女優なんでしょ? あの時テレビでいってたもの。一時期いろいろ出てたから、それで覚えてたのよね」
「今は女優業はやっていません。ああ、駆け出しの小さな劇団には所属してますが」
カシマは今度は、携帯電話に目を落としたままソウといって鼻から煙を出す。
先ほどの腹いせに絡んできてるとそこでトモは気付いた。
さて、どうやって抜け出したものか。
「女優って楽しい?」
思わず高い声を出しそうになって、トモはほぼ苦笑いの愛想笑いをするに留めた。
まるで無駄な問いに思えたので、それには答えなかった。
カシマの大きな瞳がトモを捉えた。
「シカトかよ」
「、、、してませんよ」
カシマは火の点いた煙草を床に落とすと、衣装であろう少し趣味の悪い靴で踏み消した。
「私も女優やろっかな」
それには正直返す言葉が浮かばなかった。トモは酷い居心地の悪さを感じながら、それでもこの場を巧く凌ぐ方法を模索している。
「女優」
重ねて放たれたその単語に、最早愛想笑いも返せない。トモにあるのはただただ困惑である。
やれるもんならやってみればと、その一言がいえればどんなに楽か。
「ドラマとか出てみたいじゃん。私派手なの好きだしさ。あんた、どっか紹介してよ」
「、、、そんな。紹介なんて。今はもう無関係ですし」