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ゲオマ  作者: 偽薬
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構太刀 (一)

 自分の命はきっと短いのだと、俺は勝手に思い込んでいる。



 地面を踏むたびに、緑だの青だのの色をした甲虫が夜空へと飛び去って行った。

 今日も昨日と同じ有り触れた夜。ただ多分、俺の感得する世の中というのは、世の普通人のそれとは少し違うはずだ。


 近くを流れる川の瀬音に混じって、しょき、しょきと聞こえる。

 


 この世に生まれ落ちた時から、俺の両目には眼球がはまっていなかった。

 もっとも物を見るのに不自由したことはない。


 生まれてすぐ母は死んだ。

 気づいた時には父も姿を消し気付けば一人。生きて行くのに困りはしなかったが、常に付きまとう孤独感と、その孤独感を厭う自分の心の弱さに嫌気が差したものだ。


 十数年生きて来て、普通であればまだ学校だのに行っている年頃だろう。しかし俺みたいな、見た目も中身も来歴も奇態極まる人間を受け入れる場所などどこにもなく、また俺自身生きる目的を成就させるためにはひとつ処に留まるわけにもいかなかった。


 俺は父親を探している。顔も名も知らない。


 両目の位置に穿った穴を塞ぐように布を巻き付け、それでも足取りは普通人となんら変わることがない。それ故か日中町中を歩いてはかなりの頻度で様々の人に声を掛けられる。最初はそれでものらりくらりとかわしていたが、それも次第に面倒臭くなり、やがて昼から夜へ、そして大きく街を外れて歩くようになった。

 夜とて気楽というわけでもないが、昼間の猥雑さに比べれば断然ましだ。

 我ながら、まるで夜道怪だと思う。


 どうして両目がないのだろう。

 どうして左腕に


 俺の左腕には夥しいばかりの眼球が溢れている。大小、大小大小、実に様々に。しかもその目ん玉のほとんどはしっかりと機能している。だから俺は、顔面のふたつがなくとも世界を見ることに不自由しないのだ。

 しかしこれでは普通には生きていけない。

 かといって生物としての支障もない。

 なんにせよ、この目玉の群れが俺が親父を探す最たる原因だ。

 母は普通の女性だったという。であるならば、実父であろうどこかのどいつかが今の俺を形成する要因の大部分を占めているはずだ。

「実父。ジップジップ」

 音が面白かったので繰り返す。無論回りに誰もいないので、これは空しい独り遊びだ。

 父を見つけてどうするのかはまだ決めていない。もしかすると父のその姿を見ただけで納得できるものかもしれない。いずれにせよ、今俺が呼吸を続ける理由はそこにしか求められなかった。生きる目的を憎しみにも似た感情に仮託せねば、もしかすると立ってさえいられないかもしれない。


 土の蒸れた匂いと、葉の腐った匂い。

 夏の夜気の匂いだ。


 月は冴え冴えとしていて、力強く生い茂る樹々の葉を蒼い光で濡らしている。

「ふう」

 腹が減っていた。それ以上に足が疲れていた。

 とにかく贅沢はいわない。夜露を凌げる場所を探す。

 熊笹の生い茂る山道を歩いた。

 と。


 オッパショィ、


 オッパショィ、


 なんだろう、山鳥の啼き声か。

 人の声だろうか。男とも女とも言えぬ、囁いているというか呻いているというか、言葉を発しているようにも聞こえたが、果たして。

 俺はゆっくりと周囲を見回した。薮と、疎らに立ち並ぶ椈の木々。

 時折耳元を掠める羽音、足下に人の頭ほどの石がひとつ。

 しばらく立ち止まっていたが特に実害がないので再び歩き出した。

 やがて幾分拓けた場所に出た。

 視界を上に上げると眼前に、満月を背に四角く切り取られた矢鱈に威圧的なシルエットが浮かび上がっていた。改めてつぶさに辺りを窺えば、雑草に覆い隠されたコンクリートの門や赤錆だらけの門扉が見て取れた。

 どうやら廃病院のようだ。

 使われなくなってどれほどの時間が過ぎたのかはわからない。鉄筋コンクリートの外骨格はいやになるほど堅牢そうでこれなら嵐が来ても平気だろう。


 俺は建物内に侵入した。

 外に比べ随分とひんやりしている。

 夜目は利くのだが、月明かりの届かない廊下の奥まではよく見えなかった。とりあえず今日の寝床に適した場所を見つけようと奥へと歩を進めた。

 少し中に入っただけで森の音が掻き消えてしまった。

 時折侵入口のほうからそれは生温い風が緩々と首筋をなでる。

 遠くで鉄扉の軋む音。風か。

 壁を見るとスプレーの落書きが目立つ。おそらくは地元で有名な肝試しスポットなのだろう。結局このような場所を寝床に選ぶのだから、まったくもって酔狂なことだ。

「うん、ちょうどいい」

 ひょっと覗いた部屋に壊れかけのベッドが一床。俺はその上に尻から滑り込み、仰向けに倒れた。砂埃が派手に舞う。それと同時に遠くのほうに光が明滅するのが見えた。移動速度から見て自動車のようだ。見る間に近寄って来、やがて建物の前の空き地に停車した。この時間帯だ、おそらくは、

「肝試しか」

 まったく自分同様酔狂なことだと思う。

 遊びで、好き好んでここのような場所を訪れるとは。

 どうでもいいことだ。

 無目的にズボンのポケットを漁り続けていると奥の奥にシケモクが挟まっていた。俺はそれを引っ張り出し、さも大事そうに火を点けた。

 どうやら肝試しは建物侵入後上の階に向かったらしい。

 寂とした廃墟では靴音は矢鱈に響き、なにも見ずともどのへんにいるかが知れる。

 俺は少し意識して靴音に集中した。

 ひとりか。

 ますます変わっている。

 なんでもいいがこの部屋には来るなと、俺は伸びをした。月明かりの届かぬこの部屋で唯一灯る煙草の火種は、まるで蛍火の如く。鎖骨あたりについた眼球のひとつで自らの口から生えた蛍の明かりを眺めながら、俺は先のことをつらつらと考える。

 親父を探し出して自分の来し方を知り母の死因を聞き、その後。

 事実がどうであれ過去に何があったのであれ、今の自分が変わるわけではない。逃げ惑うように山から山を渡り歩く生活を抜け出して晴れて下界に降りられるようになるわけではないだろう。苦労を重ねて辿り着いて、最後に待っているのは堪え難き空虚だけではさすがに参ってしまう。明るい未来などというものを求めてはいないが、親父を見つけだして後も生き続けるということに、少しだけ、ほんの少しだけでいいから理由が欲しい。そうでなくてはこの先、眼球のない顔と、眼球だらけの左腕を引き摺って生きて行くのが辛く思える。

「ほんの少しな」

 声を出す。

 虫の声も聞こえない。

 暫くは上の階で足音となにやら物音が聞こえていたが、俺が寝たものか向こうが帰ったものかやがて無音に戻った。


 どれくらい経ったろう。


 汗まみれの酷く不快な状態で目を覚ました。


 ぎい。

 ぎぎ。

 ぎい。


 鉄の扉が軋んでいる。


 ぺたぺたぺた。

 ぺたぺたぺたぺたぺた。


 裸足の跫。


 俺ははっきりと覚醒した。

 厭な予感がする。


「あ」

 髪? そして白い、

 扉のないドアに俺が目を向けたのとそれが走り抜けたのは同時だった。跳ね起き半ば転がるようにして廊下に出た。


 廊下は静かなもの。

 獣も虫もいない。生きているものはどうやら俺ひとり。

 耳を澄ましてみるが何も聞こえなかった。そこで思い直す。こんな場所だ、なにかあるのは当然だろう。こちらに危害を加えるのでなければ取り立てて関わる必要もあるまい。俺は再び寝床に戻ろうとした。

 その時だ


 うわああああああああああああああああああああああああ!


 男の大きな悲鳴が廃墟の中に響き渡った。

 今のは確実に血の通った人間の声だ。

 肝試しがまだ帰っていなかったのか、それとも俺のように世を憚る輩が同じように侵入していたものか。どちらにせよ、今の悲鳴は尋常な反応ではあるまい。

 気付くと俺は廊下に躍り出ていた。

 アタマの隅っこのほうで、行ってどうする関わるなといった声が聞こえるが、その声とは裏腹にカラダは小躍りをするように躍動する。

 さて方角はと俺は耳を小刻みに動かした。物音は静まり、病院はもとの静寂に包まれていたが、先ほどの悲鳴の残滓は未だ、コンクリートが剥落した壁だの、隆起しまともに歩けぬリノリウムの床だのに残っている。

 俺は再び走った。

 走ってどうする、見つけてどうする、どうせ俺の姿を見て更に怯えるだけだととにかく走った。

 走り回ってわかったが、病院は二階建ての地下二階、つまりは四層になっている。あまり大きな建物ではないと高をくくっていたが満遍なく走れば流石にしんどい。

 なにも見つかっていない。

 あれだけの大声だったが、気のせいと思い込むか?

「ふん」

 まあそれならそれで構わない。

「そうだ、構わない」

 胸の底に蟠る未消化な思いに、過去普通の人間によって舐めさせられ続けた辛酸の味を思い出し自分を納得させる。そうだ、俺は自立できるようになるまでに、見た目普通な人間たちによって散々な目に遭ってきたじゃないか、と。正直一番嫌いな自己弁護法だが、心の平衡を保つには必要な作業でもある。

 ああ構わないと俺は繰り返した。繰り返しつつ、結局は数ある眼球で上下左右あらゆる方向を見る。

 異変を探す。


 見つけてどうする?

「できることはやる」


 できること?

「俺にはそのための力がある」


 嫌いなんだろう?

「なにがだ」


 ヒトが。散々酷い目に遭わされてきたじゃないか。

「それは今は考えない」


 容姿だけで居場所がないんだぞ?

「ヒトのセカイじゃな、見た目が大事なんだ」


 お前はヒトじゃないのか?

「それも今は考えない」


 刹那の内省を中途で打ち切り、俺は立ち止まった。

 ここは一階の隅の部屋。

 汗が滴り落ちる。

 一階につき十ほどの部屋があり、地下には入院患者用の風呂やら洗濯室があった。無論患者には目に入らない位置に霊安室へと繋がる通路もあった。

 人が生き死にを繰り返した場所だ、空気は濃密で少し肺臓が軋む。

 一度大きく息を吸い込むと肋間がバキバキと鳴った。

「あとは二階か」



 *


 なんで私が…偶々出くわした男の甘い言葉に乗って、ホイホイ車に乗ったのは確かに軽率で頭の悪い行為だったけど、だからといってこんな目に遭うなんて酷すぎる。なにが山の上の夜景の見えるホテルのバーに予約を取っただ。こんな場所に連れ込みやがって。合ってるのは山の上ってことだけじゃないか。普段の私はナンパに乗るようなことは決してないのに、なんで悪いこと続きでむしゃくしゃしてた時にこんな奴と出会ったんだろ。そんな悪いことして生きてきたわけじゃないのに。そりゃいいこともろくにしてないけど、それでも身の丈にあった幸せを噛み締めるようにして地味に生きてきたじゃない。精々幸せな結婚ってのを夢見て日々生活してきただけよ。確かにあの男、外車に乗っていいスーツ着て、ちょっと成金然としててイヤミな口調でもあったけど、いかにも成功者って感じで。そんなとこばっかり見てたってことに私の非があるっていうんだったら、それは否定しない。でもそんなの当たり前じゃない。ただ見た目いい男と遊びたいんじゃない。結婚ってのは生活なのよ。幸せな生活には何よりお金なのよ。その次くらいに相互理解よ。お金があれば大概の揉め事は解決するもの。だって私の父親が賭け事狂いで女癖が悪くて。私それを見て育ったから。思い返すにあの男、父親と少し感じが似てたかも。前歯が少し大きいところなんかが…



 びくり、びくり、と華奢な肩を畏縮させて潤目民子は周囲に目を遣る。破れ、桟の壊れた窓からは月の明かりが差し込んでいるが、とても部屋のすべてを照らす光量は望めず、そこかしこに闇が凝っている。

 民子は何より廊下の窺えるドアの向こうが怖かった。だから矢継ぎ早な思考を展開して、なんとかこの環境をやり過ごそうとしている。

 大きく、少し吊り上がった目が涙に滲んでいる。

 八重歯の覗く口の端が、恐怖に歪んでいる。

 ほんの数刻前、民子が目にした光景はとても彼女の常識では計れないものだった。



 その時民子は、山の上の心霊スポットとして名高いこの廃病院で日比野と名乗る男に馬乗りになられ、声にならぬ悲鳴を上げていた。

 日比野とは飲み屋で知り合った。なんでも、まったく新しい墓参りのシステムを考案したとかで月収何百万と自ら嘯いていた。民子から見て、顔がいいとは思わなかった。性格も気障で自慢たらしく、とても良いとは思えない。だから本当に財力にひかれたのだ。純粋に裕福な暮らしに憧れていた。それが彼女の悪徳だというなら、少し可哀想にも思える。確かに自己防衛意識に薄かったことは否めないだろう。

 そう。民子は飲み屋の席で、携帯電話を取り出しとっておきのバーとやらを予約する(実際は予約するフリだが)日比野に対し、現実逃避に近い妄想を抱いていたのだ。


 日比野は民子の唇を吸おうと顔を近付ける。

「やめてよ、帰してよ」

 顔を背けながら叫ぶ。ここまで来てそれはないだろうと、日比野がいう。バーに行くっていったじゃないと民子は当然の抗弁をする。すると、何を今更受け入れやがれと少し乱暴な口調になって、それでも今までは比較的紳士的だった日比野の態度が一変した。

「いやだって」

 小柄な身体を精一杯捻って、民子は全身で抵抗した。

 長身の日比野は民子を包み込むようにして執拗に唇を追う。

「いやっ! 帰してよっ!」

 抗う声は空しく闇に融けていく。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。

 ぺた。

 ぺた。


 ぺた。


 日比野の長い顔が近付く。

 民子は両手で遠ざける。

 眼前に長面。四隅に闇。寝そべった頭上にちらちら揺れる白は、月明かりを反射するカーテンか。じっとりと汗ばんだ胸の谷間がたまらなく不快だった。

 日比野の荒い息遣い、その合間に


 ぺた。


 なんの音だろうと民子は目だけで周囲を見回す。


 長面。


 闇。


 カーテンの白。

 先と寸分変わらぬ酷い現実。


 黒、


 白、


 目、


 目があった。

 闇と闇の間、日比野の頭のすぐ後ろに大きく血走った、目。

 その目が日比野のことをきつく睨んでいた。

 民子の表情と目線に気付いたのか、日比野は一度後ろを振り向いた。

 しかし日比野の目には先と変わらぬ光景しか見えない。なんの姿もなかった。

 ふん、と鼻を鳴らす。

 いったい何度この廃墟に女を連れ込んだだろうと、そう思っている。

 今度こそは成し遂げると意気込み、顔を獲物の方に向ける。


「ぁ」


 真ん前に民子ではない女の顔が。


 ざんばらの濡れた髪の間に目がひとつ。


 仰向けの女に跨がる馬乗り男、その間に腰を直角に曲げてじっと男を見る女。


 民子は固まっている。

 日比野はどうしていいかわからず、ただ突如眼前に現れた濡れそぼった女を見つめた。

 女はニタリと笑んだ。歯も舌もなかった。

「う、、、うわああああああああああああああああああああああああ!」

 日比野の絶叫。

 民子の視界には棒切れに布を絡めたような体躯の女の腹側が見えているだけだ。

 やめろ、離せと先に民子がもらしていたような言葉が日比野の口から聞こえ、やがて彼女を押さえつけていた呪縛が解かれた。

 やめろ、やめろ、やめろ、日比野の泣き声が室内に響く。

 民子は尻で這うようにして部屋の隅に移動した。

 女は長い髪を日比野の首に絡ませている。ゆっくりとした動作で淀みなく、他になにも目をくれることなく。

 一本また一本、女の長い髪が日比野の首へ。

「やめろ!」

 やっと見つけたのだもの、と女はいう。錆びた蝶番を想起させる、金属質の声。しかしどことなく有機的で、なんともじっとりとした厭な声だった。民子は耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、実際微塵も動けずにいた。

 とにかく恐ろしい。

 腹這いになって逃げ惑う日比野の首にまた一本、黒髪が巻き付いた。既にかなりの量、まるで真っ黒なロープが巻き付いているようだ。

 ああ、助けてくれと日比野が民子に手を伸ばす。民子はついさっきまであれほど苦しめられていたにも関わらずその手を取ろうとした。その行動も空しく、日比野は女の髪によって引っ張られ、ああ、ああ、とまるで赤子がぐずるような声とともに遠ざかっていった。


 理解ができない。

 人はそういった状況に対面すると、暫時呆然とし、やがて氷の固まりのような恐怖に見舞われる。

 民子は突如としてがたがたと震え出した。当然の話だ。



 そのような信じ難き出来事がほんの数分前にあって、今は四方をコンクリートに固められた部屋にひとり取り残されていた。

 逃げ出すなら今のうちなのだが、腰が抜け動けずにいる。

 暑く、多分に湿り気を帯びた夏特有の外気に囲まれているのに、不思議と今は汗ひとつ掻いていない。心理的恐怖感と肉体的な嫌悪感が綯い交ぜになって汗を止めてしまっているものか。

 とにかく怖かった。

 逃げねば。ここから脱出せねば。切に思う。しかし身体は動かない。

 こんな場所だ、呼べど叫べどどこへも届くまい。唯一の望みは、肝試しに訪れる物好きに発見してもらうことだが、心霊スポットとして名高い廃病院の片隅で、よれよれのていでうめき声をあげている女を見て逃げ出さない剛胆な者がいるだろうか。

 焦れば焦るほど動悸は高まり頭の芯が霞んでいく。考えてみれば民子は、今日はろくに水分をとっていなかった。飲み屋ではいったい何を飲んだのだろう。考えるが思い出せない。

 これは本格的にやばいのかもしれない。

 高校生の頃、部活中に倒れそのまま意識を回復することなく逝った同級生の顔が頭をよぎった。悪状況時の悪い想像というのは熱病の如く心を支配する。ただ民子は、漠然とこんなことで死ぬわけはないと甘く考えられる、ある種逞しさも持ち合わせていた。その楽観性が命取りになることは殊の外多いというのに。

 とにかく朝になれば状況は好転するだろう。本気でそう考えている。しかし実際は、状況は増々悪くなるだけだ。真夏に外気と変わらぬ場所にいては、それこそ命が危ない。

 民子にしてみればそれよりも今は視界の闇を払拭したかった。明るい日の光を浴びたかった。そうすることで恐怖心から逃れたかった。先ほど見た光景が網膜に焼き付いて離れない。あのざんばら頭の女の、怨みの凝ったような黒目が。

 だいたい今は何時だろう…そう思うが民子の私物はすべて日比野の車に置いたままとなっている。せめて車まで移動できればどうにかなるかもしれない。民子はペーパードライバーだが、携帯電話で助けくらい呼べる。

 ううと唸って腹這いに床を這う。一度に動ける距離などたかが知れていたがそれでも動かねばなるまい。いつ何時またあの恐ろしい形相の女がやってくるとも限らないのだ。

 這いずりながら民子は思う。

 あの女がこの世のものなのとそうでないのと果たしてどちらが恐ろしいのだろうかと。少し考えて、どちらにせよ今一度女が戻ってきたとしたなら自分はただでは済まないだろうことに思い至り、幾分沈静化していた恐怖心がまた大きく膨らんだ。

「やだよぅ、怖いよぅ」

 譫言のようにそういって、民子は床を這う。やがて両肘の皮膚は擦れ、血が滲んできた。

 あの女が再来したとして。

 生者であるならば日比野に何らかの用があったわけで、それもこのような場所にまで追いかけてくるのだから尋常ならざる内容だろう。日比野に対しての用を済ませ、通りすがりといっても過言ではない民子のもとに戻って来ることがあるとすれば、民子もまた厄介事に巻き込まれるのは火を見るよりも明らかではないだろうか。無事では済まない懸念が大いにある。

 死者であるならば。それはもう無条件で民子は恐ろしい。生理的嫌悪に近い、所謂怖いもんは怖いのだ。


 生者でも死者でもなければいいのに。

 本気でそんなことを思う。

 生者でも死者でもなければいったいどのようなモノが存在しているというのか。時のしじまにたゆたうが如くの優雅な存在であるとは思わないが、想像するにその曖昧さは民子のような女にとってはとても魅力的だった。

 民子の両親は彼女がまだ赤いランドセルを背負っている頃に離婚した。

 民子は生家を出て母と一緒に暮らすものだと勝手に思い込んでいたが、ある朝彼女が目覚めると母の姿は消えていた。言葉も、置き手紙すらなく。

 事の次第を父に詰問したが、お前のしあわせの為だと繰り返すばかりでまるで埒が明かず、それでも食い下がると最後は拳で殴られた。十にも満たない少女の頬を、アルコールの臭いのする男が何度も。

 自然民子は学校に居る時間が長くなった。特に興味もないままクラブ活動をはじめ、一分でも長く学校にいられるようにもした。中学、高校も同様だった。

 高校を卒業して、民子は地元の地方銀行に勤めた。母の行方を問い詰めたあの日以来父から暴力を振るわれたことはないが、父娘関係は既に破綻しており、家で顔を合わせてもろくに会話もなかった。しかし生活能力を得てからも彼女が家を出なかったのは矢張りどこかにまだ情が残っていたせいなのだろう。ただ、その当時の心境は彼女自身にもよくわからない。今となってはその頃の意志のなさを酷く悔やんでいる。


 無理な姿勢での移動に民子は息切れする。

 呼気とともに無意識に声がもれた。限界は近い。

 塵と土と瓦礫だらけのそれは長い廊下を過ぎ、民子の目はやっと階下に繋がる階段をとらえた。ああ、と溜め息のように安堵の声を出し、あともう少しだと自分を励ます。


 ごつっ。


「!」


 ごつっごつっごつっ。


 跫がする。

 ソールの厚い靴が固い地面を踏む音。

 あの女は裸足だった。

 日比野は高そうな革靴を履いていた。

 では誰だと、民子は震えた。


 ごつ、ごつ、ごつ、ごつ、ごつ、


 重い靴音は階段を上っている。

 民子は暗い踊り場を凝視している。誰だ、誰が来る?


 ごつ、ごつ、ごつ、


 人影が見えた。男のようだが、矢張り日比野ではない。その影は日比野より小柄だが姿勢がよく、どことなく意志の強さのようなものを民子に感じさせた。

 懐中電灯すら手にしていないところを見ると肝試しの類いでもあるまい。

 影はしっかりとした足取りで踊り場を曲がった。それと同時に地べたに腹這う民子の姿を認めたようだ。

 常人ならば驚いて悲鳴のひとつもあげるか、逃げ出すか腰を抜かすかするところだろうが、その影は暫時民子の様子を眺めた後、それは大きな溜め息をついた。

「あんた何やってんだ、こんなとこで」

「…え?」

 声も口調もとてもまともに民子には聞こえた。状況が普通ではないだけに、逆に民子は返答に詰まった。

「え、あの…」

「こんなとこで何やってるって聞いてるんだ」

「何って私」

 ワタシワタシと、民子は壊れたように繰り返した。影を纏った男は踊り場から、寝そべった女に話し掛け続ける。

「さっき入ってきた車、アレはあんたが運転してきたんじゃないよな」

 連れはどこだ? 男かと影は繋げた。民子はまともに言葉を返せず、ああとかううとかいうのみ。

「私」

「ワタシはわかったよ。名前は?」

「う、潤目民子」

「ウルメ? イワシみてえな名前だな」

 咄嗟にうるさいといいそうになって民子は慌てて口を噤んだ。

「あなたは?」

「リョウ」

「リョウ、さん? あなたは何を」

 しているのと、民子はやっと上半身だけ起こした。憔悴しきっているものの顔色に然程変化はない。

 影は木製の手摺をぺたりと叩き、

「寝てたんだ、俺は」

 といった。

「寝てた? こんなとこで?」

「ああ、そうだ。それをいきなりの男の叫び声で邪魔された。男はどこだ?」

「わかんない。私だって連れ込まれたの」

「男に?」

「うん」

「何があった?」

 問われ、民子は先のことのあらましを躊躇を繰り返しながら切れ切れに語った。目の前の影が信用できるかどうかというのが半分、話しても信用される内容かというのが半分。

 ひととおり話終え民子が一息つくのと、影が踊り場を離れるのはほぼ同時だった。どうやら影は、そこでやっと階段をのぼり切ることにしたらしい。自然民子は身構えた。

 ごつ、ごつ、ごつ、階段付近に窓はなく、光量は微かなものだ。

 ごつ、影は民子の真ん前までやって来た。とりあえず立てと手を差し伸べてくる。民子はその手を恐る恐るつかんだ。その手はとても熱く感じられた。

「大丈夫か」

 民子は頷くのみ。

「男はどんな奴?」

「どんなって、スーツ着て外車乗ってて」

「名前は」

「日比野」

「ヒビノ」

 いいながら影は民子を立たせた。立ち上がってみると案外、民子は歩くこともできた。とても小さな声で謝意を述べるが影は聞いているのかいないのかそれには特に返答はなく、やや置いて、あんたこれからと尋ねてきた。

「か、帰るわよ」

「どこへ」

「家に決まってる」

「一人暮らし?」

「違うけど…」

「それじゃ家族と住んでんだ。家を出たのは何日の何時?」

「なに、根掘り葉掘り…あ、もしかして警察の方ですか?」

「答えるくらい別に構わないだろ」

「家を出たのは今朝よ、仕事行くのに」

「仕事って」

「銀行員だけど」

「ふん。今日は日曜だぜ? 休日出勤?」

「え? 日曜? 嘘よ、だって私…」

 そこで民子は自分の姿を見た。上はTシャツ、下は薄い青のパジャマという出で立ちだった。

「え? え? え? だって私、今日はいつもどおりに銀行に」

 いいつつ民子は今日の自分の行動を朝から思い出す。しかしどう記憶を呼び起こそうとも、今朝顔を洗った記憶も、化粧をした記憶も、バスに乗った記憶も、タイムカードを打刻した記憶も何一つなかった。

 どういうことと、とりあえず目の前にいる影に聞く。影はさあねと冷たく返した。

「手と足、泥だらけだぜ」

 更にいわれ、民子は我が手足を見た。確かに汚れ方が尋常ではなかった。

 影は黙考している。

 民子がなにかいおうとするのを片手で制して、ぼそりといった。

「服は血まみれだ」

 次の瞬間、民子はそれは大きな声で叫んでいた。



 *


 ウルメタミコがまともに口を利けるようになるまで、たっぷり一時間は要しただろうか。

 徒に言葉を重ねても得るものはないだろうと、俺はゆっくり待つことにした。

 タミコは泣いている。

 俺はぼそりとそんなこともあるさといった。

「やめてよ。パジャマで外ほっつき歩いて、手も足も泥だらけで、挙げ句に血まみれで! これがそんなこと程度で済むようなこと?」

「泣いても騒いでも状況は良くなるわけじゃねえ。なんにしても今は、その髪の長い女に連れてかれたっていう、ヒビノを見つけださないとな」

「あんな奴、ほっときゃいいわ」

 そうもいかないと俺はいって暗闇の中、辺りを見回した。

「どこ行くの?」

「だからヒビノを探しに行く。あんたは好きにしたらいい」

「ちょっと、」

「薄々は気付いてるんだろ?」

「な…なにがよ」


「あんたもう、死んでるんだよ」


「え?」

 なにをいってるの?

 タミコはいいだけ惚けた後、嘘だ嘘だと繰り返し、最後はへたり込んだ。

 簡単には受け入れられまい。当然の当惑だ。思いもしなかった自らの死。そして死して後の意思の継続。タミコは考えれば考えるほど混乱の度合いを増していく。


 それにしても気になるのはヒビノと名乗る男だった。

 俺は跫も高らかに廊下を行く。ややあってタミコが続いた。

「無責任よ」

 刺すようなその声に俺は立ち止まった。無責任てなんだと返す。

「私をこんな不安な状況に追い込んでおきながら、ほっといてどっか行っちゃうんじゃない」

「だからさ、さまようのも何するのもあんたの自由だ。俺には関係のないことだ」

「いきなり死んでるっていわれて」

「受け入れられずとも、思い当たる節があるんだろ。そんな顔してるぜ」

「私またひとりじゃない…そうよ、あなた一緒に来てよ。私が死んだ証拠見せてよ」

「証拠だと? そんなもん見てどうすんだ」 

「知らないわ。そんなの知らない」

「だいたいあんたはどこで死んだ」

 俺は結局話を聞くことにした。なんとなくだが、こういった作業も俺の生きる意味に含まれているような気がしたからだ。


 きっと、生まれてきたことに意味などなく、意味のある生に自分でしていくものなのだ。


 タミコは少し俯いて、真剣に思い出そうとしている様子。

 俺は助け舟の意味で二、三、質問をしてやった。

「ヒビノとはどこで知り合ったんだ?」

「地元の飲み屋さん」

「よく行く飲み屋?」

「行かない。全然」

 ただ、とタミコは声の調子を落とした。

「中学生になるかならないかぐらいの時、父に連れて行かれたことがあった」

 ふん、いい思い出かと俺がいうと、即座に違うわと返ってきた。

「父との思い出にいいものなんて何ひとつないんだから」

「そう」

 どうやら原因はそのへんかと、俺は腕を組んだ。腕組みは俺の癖だ。

「でも、そんなに嫌ってる父親に昔連れて行かれた飲み屋に、なんだってあんたは行ったんだい?」

 わからない、わからないけどとタミコは廊下に膝立ちになった。九割闇の廃墟の廊下だが、高性能の俺の目玉群はわずかな光量でもしっかりとした視界を確保する。

 タミコの首にはくっきりと縄の痕が残り、掌底部と足の裏には無数の硝子片が突き刺さっていた。

「ヒビノと知り合った時、その店はちゃんと営業してた?」

「当たり前じゃない、だって」

「その格好で飲み屋に行ったのか」

 タミコは数瞬逡巡し、そういえばあの時と声を発した。

「あの店、前を通った時はいつもうるさいくらいサバスがかかってたのに」

「さばす?」

「バンドよ。音楽。あの時はかかってなかった」

「そう。照明がいつもより暗かったとか、客が少なかったとかは?」

「ごめんなさい、そこまでは」

 俺の(ある程度)真摯な態度が通じたのか、タミコは少し表情を和らげた。変わりに緩々とだが自らの死を受け入れつつあるようで、徐々に死者の顔つきに変じていく。

 憶測だけどな、と俺は努めて柔らかい口調で言った。

「その飲み屋、もう潰れてるだろうな」

「どうしてわかるの?」

「いつかはわからないがあんたはその飲み屋で自殺したんだ。自殺者が出た店で営業は続けられないだろ」

「自殺? 私、が、自殺…」

「自殺の当日、あんたはその格好で、多分閉店後の店に行き硝子を割って侵入、そして店内で首を吊った」

 言葉をひとつひとつ区切って、ゆっくりと俺はいった。その一言一言に記憶が喚起されたのか、タミコはワナワナと震えだした。

「ああ、ああ、私」

 思い出したかと問うと、タミコは必要以上に何度も頷いた。

「父に…犯された」

「ああ」

 知ってもどうにもならないことも世の中には多いものだ。

 特にこういった事柄にはどう対処していいかわからない。

 さいわい闇のお陰で俺の表情は彼女には知れない。

「犯されて、私…」

 タミコは我が手を見た。泥にまみれた手。そしてべたべたと身体を触る。血にまみれた服。

「気付くと目の前にバラバラになった父の死体があって…私、庭に埋めたの。家の中と庭と何度も何度も往復して」

 髪の毛がザワザワする。俺は一度ぼさぼさの長髪を手櫛で掻き揚げた。

「外は真っ暗だった。頼れる人なんていなかったし、どうしたらいいかなんて全然わからなくて、とにかく夜の町を歩き回った…そしたらあのお店が目に入って…なんでその店で…死のうとかそういうこともその時は多分考えてもいなかったのだけど」

 いい思い出などなくとも、極限状態に置かれた人間というのはそうした微かなつながりに縋るものなのかもしれない。


 潤目民子は、そして自らの命を絶った。


 タミコは泣いている。

 無理もないと思うし、同情もする。ただ俺にはなにもできない。

「ヒビノは悪趣味極まりねえな」

「悪趣味?」

「そうだろう。さまよえる魂にチュウを迫ったんだから」

「そうね。でも私の父よりはましよ」

「うん。でもあんたの父親は、既に断罪されてる」

「断罪…娘の手で…」

「それで、どうする」

 俺はゆっくりと歩き出した。

 タミコもゆっくりと続いた。

「わからない。死んだ人間はあの世に行くんじゃないの?」

「さあね。死んだことがないもんで」

「あなたは…えっと、リョウさんは、ほんとはなにしてたの?」

「いや、本当に寝ようとしてた。いや、半分寝てたのかな」

「話をはぐらかさないで」

 少しまずい気がした。タミコは俺を頼ろうとしている。俺には魂の救済などといった高尚な技はない。

「ついてくるのか?」

「だって他に行くとこないもの」

「ろくなことないぜ。俺は、」

 窓からもれる月明かり、俺はそこに全身をさらした。

 タミコははっと息を呑んだ。


 栗色に近い髪の毛と両目を覆っている布、白い肌、上気しているのか紅く染まった頬、長い頸、しっかりした骨格に鏝で盛り付けたような筋肉、青いシャツ、その襟元や半袖の袖口から覗き見える、

 目、

 目、

 目、

 目、目、目目、目目目目目めめめめめめめめめめめ、、、目。


 タミコは思わずナニソレと呟いていた。

 どうやらうまく意識が逸れたようだ。俺は肚の奥で安堵する。可哀想な境遇だとはいえ、タミコのような存在につきまとわれるのは正直困る。

「俺にもどうして自分がこんなカラダで生まれてきたのかはわからない。そしてそれを知るために旅をしてる。当て所もなく、な」

「辛そうね」

「そうでもない」

 自分のことを棚に上げて何いってると、俺は居たたまれなくなる。やはりまずい。

「だからさ」

「うん」

「俺にはもう関わらないほうがいい。ろくなことがないから」

「そうかな」

 じっとタミコは俺の姿を見ている。容姿の奇態さはそれほど気になっていないのか、いや、それよりもこの状況で一人で捨て置かれることのほうを恐れているのだろう。

 人目を憚って生をつなぐのと、はたしてどちらがいいのだろう。

 俺は不図そんな詮なきことを思った。

 いずれここでこうしていても何もならない。俺は俺にしては珍しく、

「じゃあ一緒に来るか」

 などといった。タミコは寂しそうに微笑むと小さく頷いた。


 とにかくはヒビノと名乗った男を探さねばなるまい。

 俺の勘では、多分ヒビノは偽名である。根拠はないが得てしてそういうものだからだ。

「その髪の長い女はあんたには危害を加えなかったんだよな」

「うん。だって私、幽霊だものね」

 彼女なりの冗談なのだろうが笑えるものではない。だから俺は思考を余所にする。

 ヒビノだけを連れ去り、何処かへ消えた。

 俺がちらりと見た姿は、おそらくヒビノのもとへ向かう女の後姿だったのだろう。

「髪の毛を一本一本引っ掛けて、ねえ」

 針女かと俺が呟くと耳聡くタミコは聞き付けて、何ていったのと問うてきた。隠す必要もない気がするので俺は答える。

「結構しつこい奴でね、気に入った男は絶対逃さない。自分の髪の毛でひっ掴まえて連れ去って行くんだそうだ」

「連れ去るってどこへ? その後どうするの?」

「そこまでは俺も。ただまあ、ニンゲンだの何だのよりはあんたに近い存在だからね。推して知るべしってとこじゃないか」

「私に…近い?」

 ああと俺は前方を見たまま答えた。これだけ他人と話をするのは何年振りだろう。

「私に近いって幽霊とか、その…」

「言葉上の区分は専門家がやればいい」

「お化け?」

「あぁ、それでも構わないんじゃないか」

 タミコは自分の泥まみれの手を見ている。と、左手に大きな傷跡があった。俺はそれを指差し、それはと尋ねた。

「これは子供の頃についた傷」

 左手首から肘にかけての裂傷痕。

「その傷じゃ普段の生活も大変だろ。後遺症はないのか」

「うん、まあ時々不便かな。でも私右利きだし。あ、でも小指と薬指は今でも動か…あら、動くわね」

 タミコはきょとんとした顔で左手を開いたり閉じたりする。どうも目の前のこの女は、その不幸な生い立ちにも関わらず割合健全な育ち方をしているようだ。

「ところでリョウさんは」

「リョウでいい」

「うん。リョウはヒトなの? それとも」

「俺か。どうだかな。真剣に考えたことはなかったけど」

 嘘だ。避けてきただけだ。自分に架せられた現実に。

「まともなニンゲンじゃないわな」

 そう思うと少し楽になる。

「なんでこんなことしてるの? 仕事?」

「ふん。こんな仕事はない」

「え。じゃあ何のインセンティブもなしに? よくわからないけど、危険なんでしょ?」

「いんせんだか何だかはわからないけど、父親を探してるんだ。俺はどうしてこんなカラダで生まれてきたのか、父親を探せばわかるんじゃないかと思ってな」

「お父さんをね、うん」

「あんたも俺も、家族運はないらしい」

 そのようね。親近感わいたとタミコは俺を見た。俺は目のない顔を逸らした。

 歩き出す。

「俺はそうだな、ヒトと幽けきモノの中間に位置してるんだろう」

「なんだか文学的な表現ね」

 廃墟の歪んだ廊下に俺ひとりの靴音が響く。確かにヒビノが車でやって来て、この建物に入って来た時もひとりの跫しかしなかったと思い出す。

 とにかく

「とにかくヒビノの行方を探そう」

 そういって俺はタミコに、ヒビノに襲われかけた部屋へと案内をさせた。

「ここよ」

 タミコは指を指した。俺は無言で頷き、室内へと侵入する。

 部屋の中には何もなく、月明かりを反射するカーテンの白が矢鱈に目に鮮やかだ。

 俺は屈んだ。気持ち左肩を床面に近付ける。床に堆積した塵芥を観察するためだ。

 タミコが説明した通り、何者かが引き摺られた後が見て取れた。うまいこと続いてるといいんだがねと俺は再び歩き出した。不幸の感受が一般人より鈍感な女は、それでも何かを思い出したのか押し黙ってついてきた。今は特に声をかける必要はあるまいと、俺は自分勝手に判断して、肩甲骨にくっついた特別大きな眼球のみを彼女に向けて、あとの目は地面の跡と、前方奥後方奥に向けた。

 ちなみに俺の無数の目は、上下左右同時に見ることが可能だ。

 天井からは等間隔で蛍光灯が並んでいる。割れた物、外れた物、電線だけぶら下がっている箇所もある。

「ねえ」

「なんだ」

 なんだか振り向くのも億劫だったので左肩のひとつだけでタミコを凝視した。

「あの、日比野を連れてった女ね。それを見つけてどうするの」

「女はどうでもいい。俺が用事あるのはヒビノのほうだ」

「ふたりを見つけてね、女がもし包丁とか隠し持ってたりしたらどうするの?」

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