栄光の喪失 (第三稿)
未だ浅い夜の虚空に一点の月が輝いている。月が帯びる白銀から剥落してきた雪は、暗闇に煌々と粒子の道を描いている。そうして世界は白く覆われ、そうして自然の運行は粛々と続けられるのである。
静かな夜であった。雪の運動が全ての雑音を遮っているのであろうと、男は何とはなしに思った。冷たく澄んだ空気に耳朶が痛む。そのくせ、黒いコートの中には少なからず熱がこもっていた。いつから歩いているのだろう、何も覚えていない。足の裏の痛みだけが、随分と長く歩いて来たことを教えてくれた。何故だか首もヒリヒリと痛む。
雪の上に残る足跡は四つ。男に従うようにしながらも一定の距離を保ってついて来る女は、静かに俯いていた。白い肌と黒い長髪は、まるで今日の夜空を反映しているかのようであった。女は沈黙を続けているが、コートの鮮やかな赤が内面の奔放さの表れのようにも思えた。
それにしても、この世界には人の気配がなかった。姿が見えなくとも、そこに人がいれば気配が生まれる。それがまるで感じられないのである。自動車の走る気配すらなかった。あの虚空を貫く救急車のサイレンの音、否応なしに死の在ることを思い出させる忌まわしい音を、今日は聞くこともないだろう。思えば、死というものはどこへ行ってしまったのだろう。都会は死の臭いがしない代わりに、生の臭いもしなかった。男は生と死とに感興を抱いていた。
静謐な時間の只中に浮遊していることで、何かが忘れ去られていくような気がした。
男はそれを喪失した!
この道のどこまでも続くことが、不安を煽るのではない。自分がそれを喪失してしまったことが恐ろしかったのである。何を喪失したのか、まるで分からない、忘れてしまったのだ。忘れまいと思えば思うほど、決定的な喪失が心を浸していくのが分かった。
どんよりとした夜空を戴いている今では、生まれ育ったこの街が地獄の底と化してしまったかのように思えた。男の煩悶をよそに時の運行は続いている。それは深海の静かな底流のように、終着に向けて気付かぬうちに進行しているのであった。
何かに背中を突かれた。男は弾けるようにして飛び退き、後ろを振り返った。女が不思議に笑っていた。
「どこへ行くの」
男は女の声の旋律に快いものを感じた。月影に照らされた細雪のような白い肌と、愁いを湛えた切れ長の鋭い眼差し、そして唇の紅がよく映える。豊饒な和音によって構成された、実に美しい女だった。一吹きの風が運んでくるのは、どこまでも乾燥した匂いだった。まずまずの背丈があり、同じ高さに目線がある。男はそのことが妙に嬉しかった。
気分を良くした男は、余裕のある素振りを見せて答えた。
「寒くはないか」
「寒くはないわ。ただ、何もないの、何も」
女はまさしく美人であり、淡い感情の趣が容貌の妖しさを引き立てていた。どうしてこんなに美しい女と連れだって歩いているのだろう。きっと、その無機質な煌めきに魅かれて誘ったのだろう。欠落した記憶の、どんよりとした静寂の中に立つ女は、どこか恐ろしさを感じさせもした。
「何もないって」
「何もないの、記憶すらも」
「……それはどういうことだ」
女にも記憶がないとすれば、二人は酔っているのではないだろうか。いや、思考は澄んでいたから、そんなことを考えるのが既に矛盾だった。女にも酩酊した様子はない。どうしても思い出せない。分からないことは考えてもしょうがない、と男は日本人らしくそう思った。
「どこに行きたい」
「どこへでも」
男の意識はますますはっきりしてきた。見慣れた街並である、見慣れた通りである、見慣れた家々である……。この道をまっすぐと進めば、男の自宅があった。誘えば女も躊躇はしないだろう。男は女に見惚れていた。
「僕の家へ行こう。炎に身体を捧げて骨を温めるんだ」
「あら、私にはできないわ」
「冗談だよ。だが寒いだろう、このままでは」
女は奔放さを抑えきれないといった感じで頷いた。黒い革の手袋をはめた左手を、男は女に差し出した。瞬間、女は瞳を虚ろにして再び歩き始めた。無視された形になった男は、それでも気を悪くすることなく女の前に立って歩いた。最初から全てが上手くいくとは、男も考えていなかったのだ。
男の内耳は欲望の囁きで満ちていた。そのために女の無為が際立った。
それから二人はしばらく口を利かなかった。心地の良い沈黙ではなかったが、勝手の悪い沈黙でも決してなかった。雪のためか女の歩みはぎこちなく、一つの自我を持った人間のそれとはとても思えなかった。果たして、女は本当に生きた人間であろうか?
「雪には慣れていないようだね」
「いえ、慣れっこ」
「そうかい。そうやって歩くのを見ていると、そうは思えないがね」
そう言うと、女が不思議に微笑んだ。男はその相貌を見て、女が正真正銘の人間ではないことを確信した。それがあまりにも有り難く感じられたから。
「私の身体は生きていないから」
「それはどういうことだ」
「私は身体で生きていないから」
「すると、観念で生きているとでも言いたいのか」
女は黙って頷いた。もしそれが本当だとすると、女の不得要領な様も理解できるというものであった。女は自分の世界で生きている。自分の内側の世界に浸りすぎていて、現実に生きることは得意ではないのである。観念で生きるには、自分自身の理屈や理論というものがあれば足りる。そしてたったそれだけの荷物が、この上ない快楽をもたらすのであった。
何故、男がそれを容易く理解出来たかというと、男が亡くした家族は皆が皆、観念というものの奴隷であったためだ。
「君の観念とはどのようなものだ」
「ふふ、堪忍して」
「堪忍じゃないんだ、観念を教えてくれと言っているんだ」
「それを教えては生きてはいけないわ」
女がくすくすと笑った。男はさすがに苛立って女を振り向き、驚いた。女の目が真剣そのものだったからである。
……落ち着いた色調の中に鼠色の古いアパートが佇んでいる。名を三月荘という。錆びた階段を上り、鍵を開けて薄い扉を開ける。男が卓の手前、電気ストーブから離れた側に座ると、女も黙ってその反対側に座った。女は寒いのであろう、コートを脱ごうとはしなかった。女の細雪のような白い肌が、ストーブの熱やコートの鮮やかな赤に溶かされはしないかと、男は心配になった。
死を切望する男の、それに対する鋭敏な嗅覚。死の匂いさえ味わえるとしたなら、あの天上の月に手をかけてしまうことすらあり得た。
「暖かいわ」
安堵を含んだ女の声を聞いて、男は少し失望した。筋肉の緊張からは、次の瞬間にどう変質するか分からない状況が連想されるが、女の危うさはそれと全く同質であった。女は張りつめた糸に操られる人形のように、存在していなければならなかった。男はそう信じ込んでいた。
男は悪戯心に女を試してみようという気になった。
「どうだい、何か食べるかい。カレーライスとサラダならすぐに用意できる。残念ながら君の大好きな、真赤な色をしたトマトはないがね」
「あら、どうしてかしら」
「僕はトマトが苦手なんだ。君にも嫌いな食べ物はあるかい、好きな食べ物は?」
「さあ、分からないわ。私、霞を食べるだけで生きていけるもの」
これは思った以上に食えない女だ。自然にやっているのか、意図的にやっているのか、まるで掴みどころがない。どちらにせよ、奇妙な女であることには違いなかった。男は早くもこの奇妙な女を自宅に招いたことを、後悔し始めていた。
そこで今度は驚かせてやろうと、男はこんな話を始めた。
「僕は近いうちに死ぬつもりだ」
「へえ、どうして?」
女の明朗な様子に機嫌を悪くしながら、男は言葉を継いだ。
「兄が自殺をしたんだ。といっても、もう随分と前の夏のことだが。母もすぐに病を患って他界した。二人の死についての後悔はないし、納得もできた。でも、知っておくべきだとも思った」
「何について?」
「愛する女性を残して、兄が自殺を選んだ理由さ。そのためには死ぬのがどういうことか、知らなければならない」
女は無感動に見えた。一人の人間の告白を、これほど無機質に受け止められる人間がいるだろうか。たとえ、悪戯心に始まった告白だとしても。そこで自分の告白の重みを反芻してみると、それがあまりにも軽薄なものであったことを男は恥じた。男が語る死とやらは、少年少女が弄ぶ観念的な死と、ほとんど変わりがなかった。
話頭を転じようとした男に対して、女が発した言葉こそ、悪戯心に満ち満ちたものであった。
「私の観念が知りたい?」
「ああ、知りたいね」
「見せてあげるわ、こちらへ来て」
女は卓のこちら側へ男を招き寄せた。中腰のままで近づいた男を、女はすっと抱き寄せた。そうして男の頭を掴むと、女は自分の額と男の額とを合わせた。
「ああ、私はもう生きてはいけないわ。空ろになるの、何もかもが」
「僕に観念を見せるから?」
「ええ」
女はやはり悪戯っぽくそう答えたが、嘘偽りを言っているというわけではないようだった。女の瞳のどこまでも透徹した様が、男にそう信じ込ませたのだ。
「こうなったからには道連れだわ。貴方の観念も見せてちょうだい」
「僕の……?」
「さあ、見せてちょうだい」
男が返事をするよりも早く、女の手が首に伸びた。冷たい感触の予感があったが、女の手は不思議に温かかった。男は抵抗をしてみたが、女は恐ろしく力が強かった。じわじわと首が締まり、どこか背徳的な気分を背筋に感じた。それよりも強い不快感が首に絡みついてくるようだった。人間の耳には聞こえない高さの音が、部屋に広がるような気がした。雪はもう止んだのかもしれない。
酸素の欠乏が脳を満たす。舌に静電気が走る。嗅ぎ慣れた部屋の匂いが立ち消えていく。
「――!」
不明瞭な言葉の羅列が続いたかと思うと、唸り声のような低い音が張り裂けそうな高音へと昇華していった。
直後、拒絶反応が起こった。死への恐怖が、自分への恐怖が、たった一人の他人への恐怖が、ないまぜになって心を浸した。ここにいたくない、ここにいたい、何も見たくない、何も知りたくない、何も失いたくない……。
女の手を払いのけようとする。しかし、すでに意識は薄れかけている。女の腕を掴む。離れない。もうどうにもならない。最後の力を振り絞って、女の手首を握り潰そうとした。そして、何かが折れる音がした。
それは頂きに達した音だった。世界の全てがその一音に凝縮されて頂点に達したとき、身体は浮遊した。どこかへ遠ざかっていく音を聞きながら、男は無上の快楽を得た。世界の崩壊の音を聞きながら、無限の快楽を得たのだ! 肉体の感覚も薄れつつあった。骨も肉も乾いてしまい、皮の一点で身体の崩壊を支えていることが分かった。浮遊の感覚は何を連想させるだろう。ここには音もなければ光もない。全ての判断は観念に委ねられた。
無限の虚無は、即ち無限の可能性を意味した。ここには何もないが、ここには何もかもがあり得た。その倒錯を愛するだけの心情はまだ残っていた。やがて水を連想した。するとそこは深海へと発展した。しかし天地はどこにもない。宇宙よりも深い海の中を、ぽつりぽつりと白い何かが漂い始めた。それはまさしく雪だった。肉体が知覚する雪の実質が、最後になって届けられているのだった。
生前の記憶が蘇ってきた。一つの生命として誕生してから、鼠色のアパートで朽ち果てるまでの。決して恵まれた人生ではなかったが、不幸な人生でもなかった。ただ一つ特筆すべき不幸は、他人の愛情を満足に得られなかったことだ。
家族は緩い紐帯で繋がっていた。家族の皆が愛情を知らなかった。皆が痩せた畑を耕そうとはせず、知識や観念の城を築くことで安穏を得ようとした。男の場合は芸術を愛した。しかし理解はできなかった。それが祭壇画であれば、読んだこともない聖書の韻律を聞く思いがしたし、それがクラシック音楽であれば、評論家の解説のままに楽曲の真髄を弄んだ。極めつけには好きでもないチュッパチャプスを常に持ち歩いていた。男にとって大事なのは本質ではなく、包み紙の方だったのだ。
男の本質は常に包み隠されていた。何かを得ようとすれば、それを斥ける仕草を見せた後にそれを手にした。死ぬことの本質を知りたいという空虚な告白。それが精妙に行なわれる必要はなかった、望みのままの結果が得られるのだとしたら。
最後に出会ったあの美しい顔が思い出された。本質を見失った男が好む女は、ただ美しければそれで良かった。そうして、恋と呼べぬほどの恋が花咲かぬまま朽ちていき、愛情というものを得られずに男は死んだのだ。
この時に男の胸、既に実在を失った胸に去来したものは、果たして何だったのだろうか。もしそれが自己憐憫だったとすれば、そして、もしそれを自分への愛情だと信じることができたとすれば、男は最後に愛情を得られたであろうか。
不意に上昇する感覚を得た。雪の一片が頬に溶ける。無言の絹に包まれた精神がどこまでもどこまでも上昇した。どこかで何かが膨張する気配がした。真赤な血が深海に弾けた。白い雪がいつまでもいつまでも降り続いた。胎動が始まったのだ。上昇と膨張とが天上に達しようとしていた。精神の向かう方向に、夜空に煌めく星のような光を見た。それは何かを射ぬく光ではなく、何かを受容する光だった。その光を得ることは叶わないと、男は理解していた。理解、理解である。
全てが頂点に達した瞬間、真理が栄光となって降り注いだ。それはまさしく日輪の光彩に違いなかった。世界を解きほぐす鍵をこの手にしたのだ!
かちり、と音がした。海面に浮かんだ素肌を風が撫でた。光の明滅が眩しかった。
次の瞬間には全てを失っていた。一瞬の栄光が、永遠の喪失をもたらした。解きほぐされてしまった世界は、崩壊するしかないからだ。今存在しているこの世界は、旧い栄光の価値が失われた世界だった。黴だらけの栄光は四散して、同じく黴だらけの真っ青な空に溶けていくようだった。こうして新世界に生まれた新生児は、清らかなる無知を得た。新生児は本質そのものだった。とにもかくにも次の瞬間の栄光に向かって、歩みださなければならない。栄光と喪失とは、そこにある何かの別々の側面だった。新生児は止め処もなく泣き叫んだ。何か尋常ならざる悲痛をその胸に感じたのだ。
一つの死の果てに生まれた新生児がそこに見たのは、淡い色彩の世界であった。向かって右側の空が淡い紫色を帯びていて、左側に向かう毎に橙色に色づいていく。斜陽の情景であるらしかった。その空の下に流れる川は、空の色を反映しているけれども、何とも言えない微妙な色合いになっている。水量が多く、流れも速い。新生児は彼岸に光る金色の指環を見た。
それは彼岸にあって単純なものに還元された何かであった。その正体はすぐに分かった。即ち、還元されたものは世界であった。
新生児がそれに手を伸ばすと、視界が歪んで彼岸の方へ引っ張られ、次の瞬間には暗黒に渦巻く星雲を見ていた。これは男の観念と、女の観念との恐るべき融合であった。
女は一方で円環を、永遠に続く世界を望んでいながら、他方で彼岸を、世界のあり方を破壊する観念を好んでいた。完全な倒錯である。その恐るべき矛盾が、女の身の内に星雲のように渦巻いているのである。一つの銀河が一人の人間の観念で構成されているとすれば、それは恐ろしい考えであった。ともすると、我々はそこに生活している!
そして、新生児が最後に見たものは、未だ浅い夜の虚空に輝く一点の月だった……
ありがとうございました。
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